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自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

医学の異次元の進化への期待 

2020年12月26日 | ワクチンと健康

波動医学~コロナワクチン開発を通して・・・    2020年12月26日

***************************************

コロナのワクチンを廻って,令和2年11月25日に

開かれた、衆議院予算委員会の国会中継で、

立憲民主党の、岡本氏が次のような事実を背景に、

質問をしていたのが印象的だった。 

 

①6700億円もの多額な予算をコロナのワクチン

開発にかけている


②世界の先進国24か国の中で、実生活の面で

科学的アプローチをしながら取り組んでいるか

どうかの国際的調査によると、日本は下位から

数えた方が早い17番目の評価をうけたこと。 


③導入するワクチンに対して科学的な効用の

証拠(エヴィデンス)が無いということ,


④そうした疑問に対しての情報公開がほとんど

無い事


などを挙げていた。

 

アメリカの大手薬会社ファイザー社は95%の有効性

をうたい、使用申請を提出している。

(2020年12月1日現在)

同議員の質問は、それらの有効性を日本独自の

安全性の基準をもとに、どのように判断し、国内

での使用を許可するのか、だった。


ここではコロナ(COVID19)のワクチンの適応性

を話題するのが目的ではない。

そもそも、このワクチンの開発方法は

Michael Erman/Julie Steenhuysen、

翻訳:AnswersNewsによると、”異端のアイデア”)

に副ったものだったという。

 

具体的にはどういうことだろう? 

その部分を抜粋する。

”ファイザー/ビオンテックとモデルナのワクチンは、

ウイルスの遺伝情報をヒトに投与し、体内で

ウイルスのタンパク質を作らせることによって

免疫を誘導する。

こうした「人体をワクチン工場として機能させる」

というアイデアは、かつては異端とされていた。”

(抜粋終わり)

 

つまり、人体を使って抗体をつくり、ワクチンに

活用する。

それが最近までは、異端とみなされていたという

ことだ。

さらに、続けて

”バイオテクノロジー企業は何年にもわたってそれを

検証してきたが、ファイザー/ビオンテックやモデルナ

の仕事によって、このアプローチが有効であること

が確認された。


ファイザーとビオンテックの場合、約4万4000人

参加する大規模臨床試験に、どのバージョン

のワクチンを使うかということを含め、通常なら

数カ月かかる重要な意思決定をわずか数日で行った。” 

(抜粋終わり)

 

このように、大変なスピードでワクチンの有効性を

結論づけて、使用申請が12月上旬には許可される。


立憲民主党の岡本氏は、副総理の麻生氏に対し 

”今の状況下で、もし、あなたの順番に回ってきたら、

このワクチンを接種するのですか?”と尋ねた。

 

麻生氏は飄々とした顔つきで

”順番が回ってくる? それはどういう意味ですか?”

と逆に質問した。


思わずこれを見ていた私は苦笑した。

麻生氏の答えには、積極的にワクチンを受けたい

という意欲があまり見えないような気がしたからだ。 

新ワクチンの副作用や有効性がまだ、日本国内でも

確実に証明されていないのは、重々承知の上だったろう。

 

さて、ヴィールスの抗体やら、免疫を人為的に人体

の中で造って、こうしたワクチンを製造して、果たして

それがどのくらいの期間に有効性を持つのか? 

95%の確率で有効ということだが、果たしてそうか

どうか?

時が証明してくれるだろう。

 

普通の新薬の実証実験ではマウスやラットで投与テスト

してデータとして効果があがった場合、その薬を即、

人体にあてがうことが多い。

実験動物に効果があがったとしても、人間の体の細胞

ラットやマウスのそれとは本質的に同じなのだろうか?


本質的に、という意味は、構造的には同じでも、もっと

細分化した細胞の電子波動レベルで同じなのだろうか?

という意味だ。

 

マウスやラットの細胞も、人間の細胞も物理的に言えば、

素粒子、さらに 超素粒子にまで連なっている。

その素粒子以上の段階になると、これは物質として目に

見える固体ではほぼなくなり、波動的存在だ。


この波動的実体の超素粒子レベルが、マウスと人間と

同じという研究など、これまで、行われていない。

医療対象として考慮できる範囲はせいぜい原子レベルだ。

 

しかし、人体は 内臓諸器官などの組織が 細胞で

固められ、細胞は分子で構成され、分子は原子で

成り立つ。

そして原子は素粒子や超素粒子などのミクロな精妙

な実体をもつもので構成されている。


だとしたら、当然、このミクロで精妙な実態を持つ

素粒子レベルで、ワクチンが効果的に働くことが

証明されない限り、どんなワクチンやそのほかの

でも、本当の効用性に疑問符がつくのは、厳密には

当然だろう。

 

残念ながら、実際的な病気の治療といえば、通常、

諸器官の異常が確認された段階で診断が行われ、

薬が投与される。

これまでに”想念の効用性”や”病と想念の関係性”

など、ブログで考えてきた理由がここにある。


つまり、徹底した”治療”と”検診”、真の病の

原因追跡のためには、今の医学の限界と考えられて

いる領域を逸したところに焦点を是非 当てて

いっていただきたいと感じるからだ。


実際の量子物理学の世界では物質の本質が、

すでに”波動体”に近いものであることは証明されて

いる。 

そして、ヴィールス自体も、波動体のミクロの領域

をもち、その段階で、ヴィールスに侵入される

とそうでない人の違いもあるはずだ。

超素粒子の世界、ヴィールスの侵入はすでに

そこから始まっているのは事実だ。


素粒子と素粒子の間はとても広い”空間”が占め、

それは大きなラグビーグラウンドに一粒の水滴を

たらした大きさが原子の中の素粒子の大きさだ

と言われている。

 

この素粒子と素粒子の間は物質的ではない”空間”

があるが、何が存在しているのだろうか? 

エネルギーだ。


’生命’というエネルギーがあり、そこから、

生命の意思が生まれる。 


そしてさらに、その空間こそ、私たちの”心”

が発する”想い”のエネルギーに影響を受ける

部分である。

もう一度繰り返しになるが、”あらゆる病源は

このあたりの領域で生命体に侵入してくる”のだ。

 

聖者が毒を飲んでも体に異変が起きなかったという、

インドで実際に合ったお話しをご紹介したことがある。


それは、体を構成している物質のミクロの次元で、

”毒”のもつエネルギーが、無効になったからである。


低い波動は、聖者の持つ高い精妙な波動には、

溶けめない。

細かく振動しているところには、荒い振動波は

入り込めない


さて、こうして考えて行くと、

ある意味 この聖者にとってはワクチンをとっても

良し、取らなくても良し、という結論にいたる。


ここまで、波動レベルでの調節が可能になった身体

では、入り込むヴィールスを阻止できる以上、痛くも

かゆくも無い問題なのかもしれない。

 

波動レベルから病への対処を考えるということが、

自然治癒力セラピー協会の考え方であり、コロナを

含めあらゆるヴィールス・細菌に対する理想的な対処

と、向き合い方といえる。

 

          

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ヒマラヤの聖者エミール大師の奇跡(3)

2020年12月18日 | 健康と直結する”一元論”について


目前で、水を氷にしたが・・その目に見えない意識科学    

2020年12月18日

***************************************

 前書き

 2013年6月から10回にわたって、アメリカ調査団が

ヒマラヤ付近で遭遇した聖者との体験記録

ご紹介しました。 

この世離れしている架空の話と、思う方も

いらっしゃるかもしれませんが、16年インド

に住んでいた私にとっては、ただの手品

物珍しさではない、正真正銘の真理が

聖者との体験記に込められているような気がいたします。

これから再度 数回にわたり、推敲したものを、再び、

掲載させていただきます。

 

これまで、想念はエネルギーだという話題

何度か取り上げています。 

皆様の想いがこの調査団の人たちと重なり、

ヒマラヤの浄化された冷たい空気に包まれ、

浄化されますように・・・・・

 

著者はしがきから

わたしは1894年に極東を訪れた11人の調査団

の一員であった。

3年半にわたる極東滞在中、ヒマラヤの大師たちに

接触した。

大師は私たちが 偉大なる法則の働き実証されるの

を実際に見るために、大師がたの生活の中に

親しく入り込むことを許してくれた。


私のノートを今ここに、“極東における、大師たち

の生活と教え”と題して、発表するが、そこに

盛られた内容をそのまま受け入れるか、

否認するかは、読者の自由である。

********************************

 

 

その晩、一同が宿舎で集まっていると、いつもの

ように、突然ドアーも開けずに、エミール師が 

彼らの真ん中に出現した。


“いわゆる、魔法のように、私がこの部屋顕れ

出たのを皆さんは、今、目撃しました。


さて、今度はみなさんに、肉眼でも見える 一つの

簡単な実験をしてみましょう。


皆さんは 肉眼で見てから、初めて信ずるのです

からね。

どうぞ、よく見えるように、丸く輪をつくって、

寄ってください。


さて、ここに皆さんの中の 誰かが今しがた、

から汲んできたばかりの、水が一杯あります。

見てごらんなさい。

水のちょうど真ん中に、氷の一片 できかけて

きたでしょう。

 

一片一片、だんだん 固まってきた氷の部分が増え、

とうとう コップ一杯に凍ってしまいましたね。

一体どうしたのでしょうか?


私は水の真ん中の分子(複数)を 私の想念によって

 ‘普遍なるもの’the universalの中に置き、

それが形をとるようにしたのです。

言い換えれば、そのヴァイヴレーション(波動)を下げて

行って、遂にそれが氷となり、その外の分子群も 

その周囲に集まってをとり、遂に全部が氷に化して

しまうというわけです。

 

この真理(法則)を、みなさんは 小さいコップだけ

ではなく、桶や池、湖や海、はては地球上の水

全体にまで適用できるのです。


そうすると、一体どうなるでしょうか?


皆 凍る ことになりはしないでしょうか?

一体、何のために?

 

目的はないんです。

それでは、一体 いかなる原理によってそうするのか、

と皆さんはお尋ねになるでしょう。

 

‘完全なる法則の使用によって’ と私はお答えしましょう。

では この場合は一体、何の為か?

何のためでもありません。


それは、別に何かの為になることもなかったし、

また、為になるようにもできません。

もし私が、この実験を 徹底的やり続けて行くと

すれば、結局どうなるのでしょうか? 


それは 反動 が来ます。 

誰に来るか? 私にです。

 

 

私は法則を知っている。

だから、私の 表現するものは 忠実に私に

返ってくるのです。

故に 私は、善のみを表現します。

したがって、善のみが 私に 善として返って

きます。


もし、私がどんどん凍らせ続けていたら、最後の

目的を遂げるずっと前に、冷寒が 私に 

跳ね返ってきて、私まで凍ってしまい

私自身の冷凍という形で 私は自分の希望の

収穫物を刈り入れることになるでしょう。

 

だから、私が善を表現すれば、私は永遠に

私の言葉を収穫するのです。

 

今、この部屋に私が現れ出たのも、こういう風

に説明ができます。

あなた方が、私を残して出て行った小部屋で

私は自分肉体を ‘普遍なるもの’に戻した。


私たちの言い方をすれば、一切の質量(substance

が 存在する‘普遍’なるもの中に、一旦 

奉還したのです。

 

それから、私の 神我(I AM~実相)、即ち、

内在するキリスト意識を通して、肉体を心の中

に置くと、そのヴァイヴレーションが下がり、

ついに この部屋の ここへ、具体化し 

再現して 皆さんにも、見えるようになる

いうわけです。“

39

 

****後記***  

ここでのポイントは二つ。それは、水を凍らして

氷にすることができる理由は 物の本質である

波動をどんどんと精妙なものに、大師の思念で

替えていくことで、氷という分子構造に作り替える

ことが可能だということ。


ところが、それを突き詰めて行って行けば、

その法則は自分自身に返ってくるため、大師自身

が凍っていってしまうという面白い予測

を大師は語る。 

 

これは日常生活にも言えることで、誰かに対して

怒りの気持ちが昂じて、

その人の不幸を願うようなことを念じ続けていると、

結局、自分にその念が帰ってきて、自分も不幸に

なるという法則だ。

 

もう一つの点は、内在のキリスト意識、つまり、

自分の神聖なる意識に完全に自分を帰結させると、

肉体はその荒い振動数から、きわめて精妙な振動

と移行するために、肉眼では認識できない姿になり、

また壁やドアなどの粗い物質の目を通り抜ける

ほどになれるということ。 


つまり、普遍なるものに自分を戻して、その場所

に行き、着いたらまた粗い波動に波動数を下げていき、

肉体としてみんなの前に姿を現したということである。

 

 

 

************************

参考)

ヒマラヤ聖者の生活研究―

自由自在への道 全5巻

S54年6月5日第五版 

ベアード・T・スポールディング著 

仲里誠吉訳 霞が関書房

 

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ヒマラヤの聖者エミール大師の奇跡(2)

2020年12月13日 | 健康と直結する”一元論”について


証人を目の前にして90マイルを5分で移動する  

2020年12月13日

**************************************

前書き

2013年6月から10回にわたって、アメリカ調査団が

ヒマラヤ付近で遭遇した聖者との体験記録

ご紹介しました。 


この世離れしている架空の話と、思う方

いらっしゃるかもしれませんが、16年インドに

住んでいた私にとっては、ただの手品物珍しさ

ではない、正真正銘の真理が聖者との体験記

込められているような気がいたします。


これから再度 数回にわたり、推敲したものを、

再び、掲載させていただきます。

 

これまで、想念はエネルギーだという話題を何度か

取り上げています。 

皆様の想いがこの調査団の人たちと重なりヒマラヤ

の浄化された冷たい空気に包まれ さらに

清まりますように・・・・・

 

                                          

著者はしがきから

わたしは、1894年に極東を訪れた 

11人の調査団の一員であった。

3年半にわたる極東滞在中、ヒマラヤの大師たち

に接触した。


大師は私たちが 偉大なる法則の働きを実証

されるのを実際に見るために、

大師がたの生活の中に親しく入り込むことを

許してくれた。


私のノートを今ここに、“極東における、

大師たちの生活と教え”と題して、

発表するが、そこに盛られた内容をそのまま

受け入れるか、否認するかは、

読者の自由である。

 

ヒマラヤの小さな村 アスマーと呼ばれるところへ

調査隊が向かったのは 

192212クリスマス以後 のことだった。


エミール師は 彼の配下の助手を2名、調査隊に

付き添わせた。

調査隊全体の世話役のためだ。この二人の名前は 

ジャスト、ネプロウ といった。


ジャストは 調査隊執行委員各、ネプロウはその助手

で、命令の遂行を見届け監督役でもあった。

 

出発当日の朝、エミール師は調査団へ 見送りの挨拶

を述べた。

 

“みなさんはこれから、ジャストとネプロウの二人

を同行して調査旅行に出かけるわけですが、

約94マイル先の次のおもだった

宿泊地まで、たぶん5日ほどはかかるでしょう。


私は暫く、ここに踏みとどまることにします。

90マイルの道のりを行くのに、私はそれほど

の時間がかからないからです。


そして みなさんの目的地で、到着おまちする

ことにしましょう。

 

そこで、私からのお願いしたいことは、誰か一人、

隊員の方にここに残ってもらい、これからの出来事

をよく観察し、証明する役を引き受けて

いただきたいことです。


そうすれば、お互いに時間の節約にもなるし、

ここに残ってもらうも、これから10日間まで

には、調査隊に加われるわけです。


私たちとしては、その方によく見ていただき、

見たことを、よく報告してくださるように、

お願いするだけです。“34

 

調査隊は 大師の、その旨を受けて、証明人と

大師たちを残して先に出発した。

ジャスト達は、非常に良く手際よく働いた。

エミール大師にこう言わせたほどだ。

 

“この二人のやり方以上に、テキパキとした胸も

すくような仕事のさばき方想像もできないことを、

に、ここで申し上げておきたい。


どんなに細かいことにも 到れりつくせりの行き

届きようで、いわば、音楽のリズムと精確さとに 

ぴたっと合った感じである。“(34

 

この二人は、大師の弟子であり、後々特別な能力を

示すのだが、その時はまだ、調査団はそれに

気が付いていない。


こうして予定どおり、5日目の4時ごろ、調査隊は

予定の村に到着した。

ここで、エミール師が、出発時に約束したように、

彼らを迎え出ているはずであった。


それに関して調査隊の報告が以下に続く。

 

“読者に私たちの驚きが想像できるだろうか?

私たちは間違いもなく、ただ一本しかない道を、

途中で交替して日に夜をついで、急行する飛脚は

として、この国では一番早い交通機関でやってきた。


ところが、年齢も 相当いっているはずの、また、

どう考えても、90マイルの道のりを 私たち以上の

短い時日では 来られないはず人が、ちゃんと

先着しているではないか!“(36)

つまり、大師は約束通り調査団を迎えて調査団の

者たちを驚かせた。

調査隊の皆はその理由を知りたく、いっせいに

大師に質問を浴びせかける。

師の答えは こうだった。

 

“あなた方が 御発ちになるとき、私は、ここで、

みなさんをお迎えしましょう言いましたね。 

その通り、私は、今 ここにいるわけです。


人間は本来 実相においては無限であり、

時間・空間・制限を知らぬものです。


ひとたび、人間がその実相を知れば、90マイルの

道のりを行くのに、5日も トボトボと歩かなければ

ならないということはないのです。

 

実相においては、どんな距離でも一瞬にして、

到達できるものです。

距離の長さなんか、問題ではありません。


私は ほんの一瞬の間の前に、あなた方5日前

に出発した村にいました。

みなさんがご覧になっている私の肉体は、

まだそこで、休息しています。


あの村に残っている皆さんの同僚は、4時数分前

までに、私が 

~もう、今頃は着いているはずだから、出迎えの挨拶

に行きましょうと ったことを 後日、証言するでしょう。

 

このことは、ただ、私たちがどんな約束の場所、

どんな定められた時刻にでも、肉体を残したままで

あなた方に挨拶に来られることを、

お目にかけるためにしたわけです。


皆さんにお供してきた あの二人にも、同じことが

やればやれたのです。

そういうわけで、私たちが、みなさんと根源を

同じくする 普通の人間でしかないこと、

また、神秘めかしいことは何もなく、父なる神、全能

にして 偉大なる 壱なる存在が、総ての人間に与え

給うた力を、ただ皆さんより、多く発現させた

だけであることが、一層よくお分かりになったでしょう。

 

私の肉体は、今晩まではあそこに置きますが、

そのあとで、こちらに引き寄せます。


それで、みなさんの同僚の方も、こちらに向けて

出発し、いずれそのうちに到着することになるでしょう。

 

さて、一日ここで、休養を取ってから、ここから 

一日分の旅程先の小さいに行き、そこで一晩

泊まってから、また、こちらに戻って、

別の同僚に 会って、報告を聞くことにしましょう。


今晩 宿舎で集会をします。

ではしばらくの間 ごきげんよう“(37


*後記******************************

このお話しのポイントは瞬間移動だ。

よく臨死体験で、亡くなる間際、死の瞬間に、

離れている距離に関係なく、愛する人の元に

魂が会いに行くという、お話しに本質的には

同じ。


私たちは死んだあと、霊体になり、思ったところに、

体がすぐ移行することができるはずだ。

つまり肉体という重い地球服を脱ぎ捨てた

暁には、私たちも大師と同じことができる::

空間、時間を越えた次元に行くわけだから。

 

 

引用箇所)

ヒマラヤ聖者の生活研究―自由自在への道 全5巻 

S54年6月5日第五版

ベアード・T・スポールディング著 

仲里誠吉訳 霞が関書房

 

 

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ヒマラヤの聖者エミール大師の祝福(1)

2020年12月08日 | 健康と直結する”一元論”について

花や木もうなづく        2020年12月8日

************************************

前書き

2013年6月から10回にわたって、

アメリカ調査団がヒマラヤ付近で遭遇した

聖者との体験記録をご紹介しました。 

16年インドに住んでいた私にとっては、

ただの手品や物珍しさではない、

正真正銘の真理が聖者との体験記に込められている

ような気がいたします。


これから再度 数回にわたり、推敲したものを、

再び、掲載させていただきます。

これまで、想念はエネルギーだという話題を

何度か取り上げています。 


皆様の想いがこの調査団の人たちと重なり

ヒマラヤの浄化された冷たい

空気に包まれ 清められますように・・・・・

 

著者はしがきから

わたしは 1894年に極東を訪れた 

11人の調査団の一員であった。

3年半にわたる極東滞在中、ヒマラヤの大師たち

に接触した。


大師は 私たちが 偉大なる法則の働きを 実証

されるのを実際に見るために、大師がたの生活の

中に親しく入り込むことを許してくれた。


大師が、鳥や獣との会話しているところを目の

あたりにみた 調査団の報告がある。

早速引用させていただく。

 

“ある日曜日の朝、エミール師と 一緒に

野原を散歩していると、私は先ほどから、

私たちの頭の上を円を描きながら、飛びまわって

いる一羽の鳩が気になってならなかった。


‘あの鳩は私を探しているんですよ’

師は、さりげなく言うと、歩みを止めて 深い

沈黙に入ってしまった。


数分すると、鳩は、師の差し伸べた腕の上に舞い

降りてきた。

その鳩は 北の方にいる大師の弟から音信を

持ってきたというのである。

 

その弟という人は、やはり、同じ真理の道を 

歩んでいるが、直接、兄に意思を伝達するところ

までは、修行を積んでいないので、

この方法を用いているのだそうである。


あとでわかったことではあるが、大師たちは 

‘思念伝達’(大師がたの言い方によれば、電気や

無電よりもはるかに微妙な或る力)によって、

瞬間的に相互の通信ができるというのである。

 

それから 私のいろいろな質問に答えて、

師は鳥たちを呼び寄せると、

空中を飛んでいる時でも、その飛び方を指図

できること、花や木でも 本当にうなずくこと、

野獣でも少しも恐れないで寄ってくること、

小さい動物を襲って食い殺し、あとの死体を

奪い合っていた二匹のジャッカル(山犬)を 

引き分けたことなどを話してくれた。

 

その山犬など、大師が近づいていくと、闘いをやめて、

大師のさしのべた両手の中に すっかり 信じ

切った様子で首を入れて、静かに食べ合った

そうである。


さて、話を元に戻すと、エミール師はこうした

以心伝心の奥義を次のように語った。 

 

‘こういう風に、動物でも 支配できるのは、

いつも五官で見ているような卑俗な自我ではなく、

もっと、真実な、もっと深い真我 なのです。


こういうことをしてみせるのも 私の自我ではなく、

あなた方の言う神、即ち内在する神、私を通して、

働き給う 全能にして、壱なる神なのです。

 

死をまぬがれ得ぬ 小我 としての私、自らでは、

何事をも、為し得ないのです。


あなたが 今までにみてきたようなことが 私に

できるのは、私が 外的な現象を完全に放棄し、

真実なるもの、即ち、神我(われ神也)

=自己の実相・内在の神に語らしめ、なさしめ、

しかして、神の大愛を出させるときなのです。

 

あなたを通して 神の愛がすべてのものに出て

いくとき、何物も あなたを怖がらず、どんな

災害もふりかかることはありません。“

21)(引用終わり)


師は、調査団の部屋のドアーが閉まっていても

ドアーを通さず、

どこからか、部屋に入ってくることがあった。

そのことについて次のように記録されている。

引用する。


“ぱっと出し抜けに(大師は)姿を現した。

寝る前に ドアーに 念入りに鍵をかけて

みてもそうであった。”(22)


そこで、彼らは、もう、鍵をかけずに、開け放し

にしておくことにした。


これは、私が 師を信頼することになるので、

喜んでおられるようであった。

其の頃はまだ、師の教えが 全部わかるという

ほどではなかったし、

百パーセントそのまま 受け入れることもできなかった。

(22)(引用終わり)

 

さて、調査団の人たちも、その大師の無防備な

生活態度には次のように感嘆する。

引用する。

 

“大師たちには何の見栄もてらいもなく、お仕事

の仕方も全く子供のように純真であった。…略…


毎年 何千人という人が 毒蛇や猛獣のために

生命を落とすが、大師たちは 内なる愛の力 

発揮するから 害を受けることがない。

 

時には、未開のジャングルに住み、時には猛獣

の惨害より、村を守るために自ら進んで、村の

入り口に身を横たえることがある。


時によっては、水の上を歩き、水の中をくぐり、

肉体の姿を消したまま往来し、その他、何か

超自然力の 所有者にしかできないと

思われる 所謂、奇跡の数々を行う。“ (23)


“このような大師たちは インドでも比較的

少数しかおられない。

大師たち自身その数が限られていることや、

学者たちも (大師のところまで)訪ねて

これるような人はごく少数しかいないことは 

よくご存じである。“(23)

(引用終わり

 

だからといって、これらの大師たちが われわれ

下界の人間の生活に無頓着かというとまったく

逆のようである。

なぜなら、以下のように調査員は記している。

 

“大師がたは 不可視の世界

[須田注:時間・空間を超えた世界)

においては、無数の人々に接触することが

できるのであって、

事実 不可視の世界に入ってその教えに感応する

人々を援助するのが、大師たちのお仕事の

大部分のようである“(23)(引用終わり)

 

後記**************

調査団は、大師たちの霊的意義を悟るにはいろいろな

体験を観て、“数年の思索が必要”(22)だったと言う。

ヒマラヤの大師たちは 大自然の中に 防備もなく

生きておられる。

私自身も、シャンティクンジュ というヒマラヤ麓の

道場にいたとき、ある聖者の写真を見せてもらった。


そのリシ(ヨギ大師)は、ヒマラヤの雪の中で衣服

をつけず、写真に納まっていた。

寒さを感じることなく、その姿で、縦横無尽に移

動しておられるという。

今日のお話しの中で、大切なポイントはいくつか

あると思う。


‘思念伝達’がその一つ。

電気や無線よりもはるかに微妙な或る力によって、

瞬間的に

相互の通信を大師たちはすることが可能だ。

いわゆる、以心伝心、というものだろう。


あの世の行けば、こうした術は普通に行われ、

言葉なく会話する

ことが普通だと聞いたことがある。


同様、人同士だけでなく、生きとし生けるものすべて、

心がある以上、意思疎通の手段として会話をして

いるはずだ。


 ”花や木でも 本当にうなずくこと”を大師は指摘して

いるが、園芸の達人はこのことを応用して話かけ

ながら、より美しい花を咲かせ、

おいしい実を収穫しているのだ。

 

もう一つのポイントは、内在の神という存在だ。


大師は、調査団に、”あなたが 今までに みてきた

ようなことが 私にできるのは、私が 外的な

現象を完全に放棄し、真実なる

もの、即ち、神我(われ神也)=自己の実相・内在の

神に語らしめ、

なさしめ、しかして、神の大愛を出させるときなのです”

と語っている。


これは、誰でも、内在の神と繋がったとき、

大師のみならず、

誰でもこのような不可思議な技が、日常にできる

ことが可能となるのだろう。


訳者註から)

真我を”神の我” と呼んでいるのは、アートマ 
の資質をもった、人間の実相のことでもある。

この本の訳者は 以下のような、註を置いている。

真我とは) 人間の実相:肉体に非ず、様々な心に
非ず、神に等しいものである。

故に、人間の実相は神と等しく 無限の智慧、愛
、生命、美、歓喜、調和、豊富である。

それらをどこまで出すかは、本人自身が自分の能力、
才幹を どの程度まで認識するか、

即ち、‘私はどの程度まで……である’かを認知しているか
によって、決定される。
 
故に、人間は常に、‘私は無限(たとえば、愛、智慧など)
である’と観ずべきである”(24)とエミール大師は語る。


引用箇所)注*(  )内の数字は

引用した箇所の本文のページ数です。

 

ヒマラヤ聖者の生活研究―自由自在への道 

全5巻S54年6月5日第五版

ベアード・T・スポールディング著 

仲里誠吉訳 霞が関書房

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