昨日はなんだか“犠牲”っていう言葉が響きました。
辞書によると…、
犠牲とは、ある目的のために損失となることをいとわず、大切なものをささげること。
P牧師が昨日言われていたのは、これからさらに働きが進むと、犠牲、十字架を伴うということ。
例えば、これから癒しの祈りで顕著な癒しが起こると、人々が殺到して、いつも人に囲まれることになり自分の時間はもはやなくなるという時間の犠牲。
そういえば、白馬でもこの犠牲について考えさせられた。
ホームスクーリングって日本ではほとんど馴染みがないから、引きこもり気味な子や、何らかの病で学校の教育についていけない子がする。と、そんなイメージが日本では強いように感じます。
でも実際違っていて、ホームスクーリングは聖書を土台にして、親が神様に祈り従いながらする教育だと思います
で、今回白馬に行ってみて、さらにそれは親にとって、すごい決断なんだなぁと思わされました。
学校に行かせれば、その分働いたり自分の好きなように使える時間があり負担が減ったり、ある意味学校に任せれば楽な面もある。
でもそこをあえて、神様から導かれた聖書に基づく教育をするのは、親が神様を愛し、本当に子供たちを愛しているからなんだなぁと今回すごく思いました。
確かに時間や労力を犠牲にするけど、それは愛に根ざしているってことが分かりました。
確かにこれから、私にも担うべき十字架が増して、犠牲を伴うことも増えてくるだろうと思います。
犠牲を払ってると思ったら絶対私には負えないけど…、神様の愛のうちに生きれば犠牲も犠牲に感じなくなるのかな、軽く負えるようになるのかなぁなんて思う今日この頃です。
イエス様の十字架に比べたら、私の犠牲、十字架なんか微々たるものですね。
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