ゆとろぎへの道 仲村峯夫 一隅を照らす素晴らしきかな人生 照らさずとも好し また素晴らしきかなこの人生(とき)

日々、つれづれなるままに、心のおもむくままに、趣味的ハルサーの想いを…
自分探しの旅は 違う景色の見える道

コロナウィルス過中での五輪開催とマスコミ報道への違和感

2021-05-17 11:08:11 | 日記

  コロナウィルス過中での五輪開催とマスコミ報道への違和感

 今朝のネット記事に、5月13日付のフランスの新聞「リベラシオン」の記事が掲載されていた。

「東京オリンピックはKOか?」のタイトルで掲載されている、記事である。

数日前にもイギリスの大手紙も、この昨今の世界的なパンデミック下での五輪開催については否定的な記事が掲載されていた。 記事の内容を私なりに、大まかにまとめると政府は ①PCR検査も増やさない、 ②ワクチン量も増やさない ③医療体制の強化もしない、 ④必要な資金援助もすることなしに、一年以上もウイルス蔓延を放置している。

一方では、五輪選手団へは一日3万回のPCR検査をするという。

最優先されるべきは国内のコロナ対策であろうという指摘である。

現に国民の政府のコロナ対策への不満や、多くの国民が五輪中止の声を上げている。

医療体制のひっ迫も喫緊の問題となっている。 「医療は限界、五輪やめて!、もうカンベン、オリンピックむり!、」等の病院現場の悲痛な叫びが現実のものとなっている。

  違和感は二点である。

一つは政府のコロナ対策への取り組みそのものへの疑問であり、二つ目は大手新聞を中心にしたマスメディアの報道の在り方 への疑問である。

国会でもウソをつきまくる総理大臣やその政権が支持される社会。

世界的にも世紀規模の非常時とも思える、昨今のコロナパンデミックに対する政府の対応はまさに目を覆いたくなるほどの お粗末さでしかない。

危機管理のノウハウがないだけならば、外国の例を見て学べばいいのだが、如何せんその発想さえもないのだから、 何を学べばいいのかもわからないのかも知れない。

対策は全てが後手後手、しかもほぼ的外れで型にもハマらず修正さえもままならない。

挙句の果ては、具体策は全て地方自治体へ丸投げ状態、国民に対しても自粛要請のお願いだけで、政府の施策は全て後回し。

政府ができないのならばせめて、支援金でも奮発して後方支援で存在感を示せばいいのだろうが、その支援金も出し渋るミミッチさ。

今となっては大博打としか思えない、オリンピックの開催ありきの現況は、 頭の中は常に自らの利権がらみと政権浮揚の思惑のみとしか思えない。

  日本の報道の自由度は「世界67位」である。

もちろん先進国ではビリに近い。

日本は「習慣や経済的利益の影響で、ジャーナリストが民主主義の番人としての役割を果たすのは難しい」と指摘するのは、 国境なき記者団である。

日本のジャーナリズムの在り方については、国内ではほぼ指摘されない。 「番記者制度」の温床ともいううべき、「記者クラブ」問題を解決しない限り日本の報道の自由度の向上はほぼ難しいのだろうと思われる。

水が低きに流れる如く、報道ネタがそれなりに官邸寄りになるのも致し方のないことでしかないのだろう。

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