生きる力・勇気・志――「ブッダの言葉」を中心に

大阪の禅寺 天正寺住職 佐々木奘堂(じょうどう)のブログです。人間が本来もっている自由で活発な身心を探求していきます。

いい子でいなさいね(Be the good girl you always have to be)

2017年04月15日 | 「ブッダの言葉」序
「坐禅(禅定)」とか「瞑想(ありのままを見る等)」とか、「ありのままを感じる身体技法」とかで、私には長年、一つの大きな疑問があった。
(良い子の方は、以下、読むのをお勧めしません。)

例えば、学校の勉強するとか、受験対策の勉強するとか、規則をまぁ守るとか、これらは、まぁ理由も納得できるし、そこそこに私はやってきた。

 だけど、「呼吸を数えてなさい」とか、
「お腹の膨らんだ凹んだの感覚を心で見つめなさい(感じなさい)」とか、
歩く時、「足の裏が床に着いたら『着いた』と気づき、離れたら『離れた』と気づきをいれなさい」
とか、あまりにも意味不明すぎないか?

 こういうのをまじめにやる人がいるとしたら、よっぽどのまじめちゃんか、あるいは洗脳されているか、どちらかではないか?

「よく、そんないい子ちゃんしてられるな」と、私の心はいつも叫んでいた。

 映画『アナと雪の女王』の中で次のセリフ(歌)が繰り返される。

「Be the good girl you always have to be.」
(ずっと「いい子」でいなくちゃいけないよ。今もいい子でいなさいね。)

 こんな生活、耐えられるか?

「ふざけるんじゃねぇ」と私は言いたい。

ウィリアム・ジェイムズの本を読んでいたら、ジェイムズも同じことを語っていて、私は心底ホッとした。
Chautauqua(シャトークァ)という「いい子ちゃんの町」に1週間滞在した後、元の普通の悪い町に戻った後、ジェイムズの心は次のように叫んだ。
 
"Ouf! what a relief! Now for something primordial and savage, even though it were as bad as an Armenian massacre(アルメニアの大虐殺), to set the balance straight again. This order is too tame, this culture too second-rate, this goodness too uninspiring. This human drama without a villain or a pang; this community so refined that ice-cream soda-water is the utmost offering it can make to the brute animal in man; this city simmering in the tepid lakeside sun; this atrocious harmlessness of all things,—I cannot abide with them. " 

James, William. Talks To Teachers On Psychology から引用。

(ざっと意訳:
いい子ちゃんの町シャトークァにしばらくいたから、今度は、アルメニア大虐殺くらいの悪に行ったろか。
バランスを立て直すためには、それしかねえぜ。
それにしても、あのいい子ちゃんの町の秩序は、あまりにも飼いならされてる。
そこの文化はあまりにも二流だ。
そこでの「善」は何も啓発するものがない。
生ぬるい、無害な、腐ったような町、あんなところに住んじゃいられねえぜ。)

 ジェイムズは、「a social process …in the long run seems everywhere tending toward the Chautauquan ideals(社会のプロセスは、結局のところ、『シャトークァ的理想』に向かって進んでいる)」とも言っている。
 世界全体が「いい子ちゃんの町」に向かって進んでいるというのか。

 ジェイムズの心が、120年以上前にこう叫んだ場所シャトークァに、ちょっと行ってくる予定です。(ニューヨーク州の西の端)

みなさん、
「感情がやってくるのを、ありのままに見、去るのもありのままに見ましょう」
みたいのに耐えられますか?

 ジェイムズのザ・ベストマニュアルは、「感情は来るなら来るにまかせ、去るなら去るにまかせ、完全に放っておけ!」です。
 いわゆる瞑想とは天地ほど違います。

もう、いい子ちゃんはやめよう。
棒立ち(棒坐り)もやめよう。

脱いい子、脱棒立ち(棒坐り)、これだけで一生やっていこう。

「いい子ちゃんをやめ、どれが正しい・間違いとか、できた・できないとかアレコレを一切放って、棒立ちをやめて、自分の足で立て!」
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8 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (みかん)
2017-08-26 23:10:07
この文章を読んで、不思議なことですが、いつも必ず強い怒りが込み上げて来るのを感じます。
何かを強く命令されているようで・・
だけど、肝心のところまでは解りません・・

次には、アフリカの大虐殺の報道を思い出し、不愉快になります。
人々はこのような言葉で 扇動され 隣人を殺害するに至ったのかな~と

誰に 何を 意図して書いているのかは、分かりませんが、こういう文章を見かけたら 私は、恐怖を感じて
きっと早く安全な場所に避難する事になるでしょう。

そして、いい子と言っても誰にとってのいい子なのでしょうね?
返信する
Unknown (みかん)
2017-07-28 12:16:32
読んでいると 何となく 妙な気分になります。
心情調査をされているようで・・・

個人の尊厳は原則として法律内で、さらに言うと良識で収めてもらいたいです
返信する
re (じょうどう)
2017-06-27 21:29:08
hassyさん、コメントありがとうございます。
「ありのまま」などの言葉でさえ、「縛り」に十分になりうるのが、盲点ですね。
例えば、仏教で一番大事な用語は「菩提」「涅槃」「真如(真にありのまま)」「仏性」などでしょうが、禅では、そこに潜む盲点を実に鋭く語っています。(趙州禅師は、これらを「衣服」と述べています。)
ここに本当に大事で微妙な問題ありますね。
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Unknown (hassy)
2017-06-26 12:28:13
先生こんにちは。
「ありのまま、~~」さえも、縛りになってしまうという痛烈な盲点に気づかせていただき感謝しております。
また、マインドフルネスとか、ヴィパッサナーといった「見る・観る」系の瞑想は、ザ・仏教というような感じで広く知られているようですが、私には窮屈に感じていて、真面目さや熟達が足らないのかと思っていました。
あぁ、先生の言葉を拝見して、霧が晴れる思いがしたとともに、なんと恐ろしいことよ、と思いました。
返信する
re (Unknown)
2017-05-13 13:58:32
natukusaさん、コメントありがとうございます。

感情は、死ぬまでなくならない、とても大切なものだと思います。

仏教でいう四苦八苦に、「嫌な人(怨みたい人)に会いたくない感情がわく、けど会わざるをえなくて苦しい、愛する人と一緒にいたい、けど離れていってしまって苦しい」とありますが、これら入り混じった感情の渦の中にいるのが、私たちの人生そのものかと思います。

これら怨みも愛情も、その両者が混じった葛藤も、その恨みや愛がたまたま叶った時の嬉しさも、それが叶わない時の苦しさも、これらの感情は、死ぬまでなくならないと思います。そして大事な問題だと思います。

このような中での生きる姿勢が常に問われているのだと思います。
返信する
問われていたのは生きる姿勢 (natukusa)
2017-05-08 02:07:12
以前、貴僧が私に問われたのは「個人的な感情は傍に置いて、ただ座ることはできませんか?」ということでした。

その時、私は、人間として生きることをやめろ、と言われているように感じたのです。
感情を持つのが、いけないと言われたようで。
私は自分のその感情を大切にしたかったのです。

でも、問われていたのは、そんなことではなかった。
感情を持つとか持たないとか、感情と向き合うとか、そんなことではなく。

問われていたのは、生きる姿勢だったのですね。
生きていく上で感情はなくなりません。
そのように、生きる姿勢を問い続けながら生きていくのだなぁ、
と思いました。

ありがとうございます。
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re (じょうどう)
2017-04-15 14:06:08
「ありのままに見て、ありのままにしりましょう」
これがいい子ちゃんの一番の公式ですね。

これ、2500年前も、はやってました。(その後の仏教でも一番流行ってます)

これに対して、お釈迦さまは、
「見て、で、何?」
と言い放ちます。

私は、このお釈迦さまの言葉に、本当に救われました。
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Unknown (koma)
2017-04-15 14:01:43
>「ふざけるんじゃねぇ」と私は言いたい。

いいんじゃないですか。魂の叫び。

いいこちゃん=アダルトチルドレン(広義の)

小さい時からいいこが評価されますからね。

どこかの時点で一度どうしても脱皮する必要が絶対あると思います。

私もある時にある事をしていたら、私の母親の声で「主婦が昼間っからそんな事をしてていいの」とイメージの中に浮かびました。同じイメージの中で私はその声の主を「うるせ~!」と思いっきり蹴っ飛ばしました。そしたらその声の主はサッカーボールのようにピューッと飛んでいきました。その後の私のものすごい解放感は忘れません。それ以来、全く「いいこ」でなくなりました。

あれ?これ、前にもここで書きましたっけ。ま、とにかく
いいこから脱皮するの、大賛成です!
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