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ガンバレ、ニッポン

なんか、不安定なニッポンですね。

本人は節約のつもり…貧困層がスーパーの特売ではなく「コンビニのカップ麺」を平気で買ってしまう残酷な理由

2022-10-14 12:04:41 | 国内
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本人は節約のつもり…貧困層がスーパーの特売ではなく「コンビニのカップ麺」を平気で買ってしまう残酷な理由

カップ麺は節約か否か。ネットではこうしたテーマの論争が定期的に繰り広げられている。文筆家の御田寺圭さんは「先日も、コンビニでフルプライス(231円)のカップヌードルを節約のために購入したというツイッターが炎上した。

貧しい人はスーパーで袋麺を買う、といった批判が多かったが、そう怒っている人が理解していないことがある」という――。 

定番化したネットの大論争「カップ麺は節約か否か」  インターネットやSNSで定期的に大きな論争になるテーマがある。「コンビニでカップ麺を買うのは節約にあたるか否か」である。  

つい先月のツイッターでも、貧困問題に取り組む方がこのテーマを口にしたところ、激しい批判が起きて「炎上」状態となり、そのまま大激論となった。

  節約するため、昼食にカップヌードルを買ったところ、価格が231円で3度も金額表示を見た、という内容のツイートに対して人びとから“貧しさ”の現実に即していないといった主旨の批判や非難の声が相次いでいた。

 ---------- 「そもそもカップ麺は高級品だ」 「貧しい人はカップ麺ではなく安い袋麺を買う」 「レジ行く前に値札見るだろう」 「コンビニよりスーパーの方がカップ麺を買うにしてもいくらか安い」 「普段から節約する人からすればありえない感覚」 「貧乏人の解像度が低い」 ----------  こうした厳しい意見がずらりと並んでいた。

「私は貧乏だが、コンビニでカップ麺など買わずこうしている」といった個人的な生活術とその実践も添えられながら。  

しかしながら、コンビニでカップ麺を買うことを節約として考えることについて、「貧乏人のことを知らない」とか「貧困のことを理解していない」とは私はまったく思わなかった。語弊を恐れずにいえば「貧乏人の解像度が低い」のは、どちらかといえばこの投稿者に怒りのコメントを寄せている人のほうなのではないかとさえ感じた。 

 というのも、スーパーではなくコンビニを積極的に利用し、200円以上するカップ麺を買っている貧困層は架空の存在ではなく、ごく普通に存在するからだ。  「コンビニでカップ麺を買う貧困層」という、一見すると矛盾した消費行動をとる人びとがいる理由、それはかれらが「スーパーで特売の袋麺をまとめて買うほうがお得(合理的)である」といったコンセプトをそもそも持っていないからである。

 貧困とは「情報量の差」ではなく「文化」である  スーパーの方がコンビニより安い。ついでに言えばカップ麺より袋麺の方が安い。間違いなくそのとおりだ。正論である。 

 だが、そうしたお得な情報を持っておらず、あるいは行動する意思がそもそもないからこそ貧困に陥っている人は少なからずいる。そうした人は、スーパーとの値段を比較することなく住まいの近くにあるコンビニを訪れて「節約のつもりで」「値札をとくに気にせず」カップ麺を購入してしまう。

  貧乏なら弁当や総菜を買うよりも自炊すれば安上がりなのもそうだろう。だが、貧しい人はもとより「調理をする」という習慣が生まれ育った家庭にはなく、十分な訓練を受けていないことが多い。また適切な材料を適切な量で買いそろえることができず、足りなかったり、使いきれず食材を腐らせてしまったりすることもよくある。

一念発起して慣れない料理に挑戦し、多大な手間と労力をかけた結果として「まずいメシ」が完成してしまうと、調理を習慣づけるモチベーションを失う。  また部屋が狭く、調理スペースや調理器具、家電製品の用意でも乏しく大きな制約を受ける。

冷凍室や野菜室のない一部屋タイプの冷蔵庫では「食材を保存する」という用途自体が失われてしまうこともある(往々にして飲料や酒類を冷やすためだけのものになってしまう)。

そうなると結局、コンビニの弁当や総菜、そしてカップ麺などが消去法的に選ばれる。  お米を買うにしても、5kgや10kgの大袋(1000~3000円くらい)を買う方が得なのは明白だ。

だが、貧困層には数千円の「まとまったお金」をいちどに支払う経済的余裕がなかったりするし、もっといえば「まとまったお金を払って大きいのをひとつ買っておけば、チマチマと小出し小出しでモノを買うよりも中長期的にはお得である」という“トータルコスト”の概念がなかったりもする。

よって、1kgや500gの小さな米袋を買ったり、レンジで調理するレトルト米を食事ごとにいちいち買ったりして、最終的に損をしてしまうのだ。  節約術を習得するのも、特売情報をキャッチするのも、料理スキルを磨くのも、中長期的な損得計算をするのも、これらはいずれも貧乏なら当たり前にやらなければならないものでも、当然やってしかるべきものでもない。それぞれ特別な訓練や慣習によって習得される「文化(カルチャー)」に近い。

そうしたカルチャーを持っていない者は、お金がないのに「無駄遣い」な選択をせざるを得ず、ますます貧困に陥っていく。  私は決して「コンビニでカップ麺を買うような貧困層」を見下しているわけではない。これは知識や技能というより文化や慣習の問題であるのだ。

 「貧すれば鈍する」は真実  貧困は、そこから脱するためにお得な情報や節約を習慣づける文化を学ぼうとしない「愚かさ」ゆえに生じてしまうという指摘は一理ある。  

しかし、貧困がそれ以上に根深い問題であるのは、その因果の矢印を逆転させた理路もはっきり存在していることだ。  ようするに「愚かだから(合理的判断ができず)貧しくなる」だけでなく「貧しいから(合理的判断ができず)愚かになる」という機序も明確に存在して、貧困層をますます貧しくしてしまうのである。 

 怠惰でもなければ愚かさでもなく「貧しい生活によって生じる心理的ストレス」が人びとから経済的に合理的な判断能力を低下させ、みずから貧困のループを作ってしまう

「貧すれば鈍する」とは昔の人はよくいったものだ。  貧困層は文字どおり経済的な余裕がないので、貧困状態にある人はたとえほんのわずかな出費でも生活が立ちいかなくなることへの不安に絶えずにさらされている。そのような心理的ストレスの強い高リスクな状況下におかれると、人は脳内の認知的リソースのほとんどを「生活を無事にやりくりするリスクマネジメント」に割かなければならなくなる。ほかのことを考えられなくなって、非合理的な判断に奔ってしまう。  

ようするに、語弊を恐れずに言えば、貧困層がしばしば非合理的な行動――たとえば、スーパーでなくコンビニに行って特売でもないフルプライスのカップ麺やレトルト米を節約しているつもりで値札もろくに確認せず購入してしまうような行動――をとってしまうのは、かれらが逼迫(ひっぱく)した生活を送っていることによって脳内の認知的リソースの余裕がなくなり、その結果として「バカになってしまっている」からだ。 

 低所得者が家計や生活のやりくりのことを考えると認知機能が低下してしまうことが実証されている一方、高所得者が同じことをしても認知機能は低下しないことも明らかになっている。つまるところ、高所得者は賢いから高所得者であるだけではなく、高所得であるという状態そのものが認知的リソースの余裕を生み「より賢明で合理的な判断」を生活上でも安定的に維持しやすくして、大切な財産を無駄遣いから守り、所得をさらにブーストさせているということだ。  

貧しさそれ自体が頭をわるくし、豊かさそれ自体が頭をよくする――結果として貧困層と富裕層の経済的・文化的・認知的格差はさらに開いていく。

 上質な暮らし」がさらに豊かさを呼び寄せる  貧しさによって日常生活において心理的ストレスの強い状況で生活している人びとは、そうしたストレスの小さな人びとと比べて、余暇時間を与えられると得てして享楽的で非生産的な遊びにだけ費やしてしまう傾向が強くなってしまうことも明らかになっている

 貧困層は、日常生活で断続的に味わわされる強い心理的ストレスをどうにか発散させるために、短期的に強い快楽を得られるような行為――たとえばギャンブルや飲酒など――に没頭せざるを得なくなるのである。 

 貧しい人びととは対照的に、高所得層はそうした生活防衛によって要求される心理的ストレスやコストが小さいため、余暇時間には読書やセミナーなどの自己研鑽あるいは美術・芸術鑑賞といった文化的・教養的活動に回すことができ、それが結果的にかれらのビジネススキルの上昇やインスピレーションの向上に貢献している。 

 手持ちのカネの多寡よって生じる「生活をやりくりするしんどさ」の格差は、それ自体が「認知的格差」に直結し、貧しい人をますます貧困に絡めとられるような行動に駆り立て、富める人をますます豊かで上質な暮らしにつながる行動を促進する。 

「ネット言論」がとらえきれないこと  昨今のインターネットやSNSの「貧しさ」についての議論は往々にして「節約術を実践しスーパーで買い物をして自炊ができるくらいには文化的訓練を受けているが、しかし現在は(なんらかの不運によって)金がない人」――ようするに「高学歴・高文化な貧乏人(おそらくは自分たち自身のこと)」を前提にして語られがちである。 

 カップ麺の高さや袋麺を特売で買うことの賢明さや合理性を説くのはごもっともだが、それは貧しさの原因というより結果だ。 

 貧困それ自体が「愚かさ」の根源であること、そして「愚かさ」によって作り出された慣習や環境がさらに貧困を深刻化させ、深刻化した貧困がさらにその人の「愚かさ」を加速させている――という負のループ構造があることこそ、より多くの人に知られなければならないだろう。 

 なぜ社会に再分配が必要か。それは「不平等だから」「ズルいから」というより、「貧すれば鈍する」という“呪い”にかかっている人の絶対数を減らし、社会全体の活力や生産性、そしてなによりひとりの人間が人生で味わう充実感や幸福感の総和を高めていかなければならないからこそでもある。


ひろゆき氏「沖縄の未来は、誰にとっての未来なのか」辺野古での座り込み抗議を揶揄したツイートが物議

2022-10-11 08:39:25 | 国内
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ひろゆき氏「沖縄の未来は、誰にとっての未来なのか」辺野古での座り込み抗議を揶揄したツイートが物議

ネット掲示板『2ちゃんねる』創設者のひろゆき氏が7日、ニュース番組『ABEMA Prime』に出演。沖縄・名護市辺野古にある看板の前で撮影・ツイートしたことによる、一連の騒動に言及した。 

軍基地建設に反対する人たちによる、“座り込み”が始まった2014年7月。以来、3000日を超えた今も抗議活動が続いている。 

 3日、辺野古を訪れたひろゆき氏は「座り込み抗議が誰もいなかったので、0日にした方がよくない?」とTwitterに投稿。しかし座り込みは工事車両が来る9時、12時、15時に合わせて行われ、ひろゆき氏が訪れた夕方はすでに誰もいなかった。 

 翌日、午後3時にもう一度行くと、抗議活動をする人たちの姿があった。映像には、座り込みを行う人たちとひろゆき氏のやり取りが記録されている。 

実際に座り込みを見たひろゆき氏は「本気でトラックを止める気がない。機動隊の人たちもものすごく優しくて丁寧だ。僕に対して強く言っていた人たちは、機動隊には強く言わない。

座り込みをしている人たちの年齢は、50代以上なのでは。若者たちが共感していないのではないか。沖縄の未来は、誰にとっての未来なのか」と話す。

  スタジオでは、フリーアナウンサーの柴田阿弥が「確かに“座り込み”と言われると、そこに交代でずっと人がいて、寝食しているのかなと勝手に思っていた」と自身が持っていたイメージを告白。「ただ、たとえ“抗議行動”という言葉でも、本当に長い時間と労力を費やして自分の意思を示されていることには変わりがないと思う」と述べた。

 基地問題を精力的に取材している、沖縄タイムス記者の阿部岳氏は「ひろゆきさんは現場を見て『頑張っている、頑張っている』と言って笑っている。

ツイートでも、満面の笑みでピースをしている。その笑いがどこから来るのか、私はずっと考えている」とコメント。 「ひろゆきさんが行った時も暑かったと思うが、沖縄で座り込みをしたい人が本当にいると思っているのか。

それはやっぱり、したくないけど、せざるを得なかった。それが3000日以上続いている。ひろゆきさんが、自分が安全な側にいるということを分かっているから、笑みが出るんだと思う。沖縄の人口は日本全体の1%だ。沖縄の人をあざ笑ったり、あるいは『24時間やっていないから座り込みとは言えないんだよ』と言説を流布しても、圧倒的多数の力で押し流されていることを計算している。

力関係で強い側にいる、それで笑える特権がある。基地問題もこれと同じことが起きていて、本土の多数が基地を押し付けて、反対しても笑ったり、デマを飛ばしたりして、多数の力で押し通していく。しかも、今回はわざわざ、人々が尊厳をかけて抵抗しているその場所に行って、笑い飛ばした。2つの間違いを犯している」

 ジャーナリストの宮原ジェフリーいちろう氏は「学生の頃に現地を訪れて同じ経験をした。“座り込み”と書いてあるが、たまたま行ったタイミングで人がいなかった。同じようなこと思った」と話す。 

「ただ、それは“座り込み”という言葉について、勝手なイメージを持っている私たち側の間違いである。戦っている人たちが“座り込み”という名前で呼んでいる抗議活動に対して何の敬意もなく『私が思っていたことと違う』と押し付けるのは、憤りを覚える。

多数派の日本人が『こう思っているはずだ』と認識を押し付けてそれが正しいとするのは、米軍基地を沖縄に押し付けている日本の構造そのものだと思う」

  その上で宮原氏は「やはり、3000日と掲げている数字を『ゼロにしたほうがいい』という発言は、要するに彼らの今までやってきた努力を無にするような言い方だ。

それが怒りを呼んでいるのではないか」と指摘。  ライターのヨッピー氏は「僕は座り込みは連続して、誰かが交代しながらずっと続いているものだと思っていた。だから『人がいない時間帯もある。

トラックが来るときだけやる』と言われたら『ちょっと思っていたのと違うな』という違和感はあった」とコメント。 

 「ひろゆきさんは、僕の中では野次馬の総大将みたいな人。どんなもんだろう?と見に行って、その場で思ったことをすぐに言ってしまう人だ」とした上で「民意はやっぱり野次馬が圧倒的多数で、その人たちがそれぞれに選挙権を持っていて投票する。

結局、野次馬を取り込まないと、民意は動かない。野次馬がこう言ったからといって『敬意がない』や『笑っているから攻撃する』と考えるのは、ちょっと違うのではないか」と投げかけた。 

 番組司会のテレビ朝日・平石直之アナが「なぜピース姿で写真を撮ったのか?」と聞くと、ひろゆき氏は「あの看板が誰かのお墓だったら僕はそんなことはしない」と発言。

「あれは誰かが書いた汚い文字だ。しかも、事実と異なることが書いてあったという話だ」と述べた。  ひろゆき氏は「なぜ僕が基地反対派の行動をここまで揶揄するか。それは、反対派の人たち自身が、反対派を減らしていると思うからだ」とした上で「例えば、反対の人たちが、僕が行ったときに謳っていた『自衛隊は出て行け。米軍基地は出ていけ』で得するのは誰なのか。

ロシアと中国だ。僕には、日本の未来のためにやっているのではなく、中国やロシアに有利な環境を作ろうとしている人たちが、座り込みによって、移設工事のトラックを妨害しているように見える。

日本の問題として対処できるように、まずは反対派の人たちをどうにかするべきだ」と話す。 

 この持論に平石アナは「お墓という表現はさておき、この沖縄基地問題の象徴的な場所であることには変わりない」と指摘。

「もっと遡れば、沖縄戦の歴史や、ずっと積み重ねてきたものがあって、そこで抗議行動が行われている。ひろゆきさんが訴えたいことを聞いてもらうためにも、やはりあのピースと笑顔は、私はいただけなかったと思う」と意見した。

 

ひろゆきさん「0日にした方がよくない?」 辺野古ゲート前の座り込み抗議巡る投稿が物議 市民らに「座り込みの意味理解していない」

2022-10-06 11:31:21 | 国内
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ひろゆきさん「0日にした方がよくない?」 辺野古ゲート前の座り込み抗議巡る投稿が物議 市民らに「座り込みの意味理解していない」

インターネット掲示板「2ちゃんねる」開設者のひろゆき(西村博之)さんが名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブゲート前を訪れ、座り込み抗議の参加者が誰もいなかったことから、抗議日数を示した掲示板について「0日にした方がよくない?」などと4日までにツイッターに投稿し、物議を醸している。

抗議活動は2014年7月から始まり、工事車両が往来する時、一日3回展開される。抗議市民からは「基地問題の本質ではない議論」「背景を理解してほしい」との声が上がった。

 
関係者によるとひろゆきさんは3、4の両日、インターネット番組収録などで抗議テントを訪問。抗議の様子も見た。日数の数え方について市民らに「座り込みの意味を理解していない」などとも発言した。

 ジャーナリストとして活動する大袈裟太郎さんの取材に、ひろゆきさんは「誤解を生むような言葉をわざと使っているのであればデマになる」などと語ったという。

 ひろゆきさんと言葉を交わした沖縄平和運動センター前議長の山城博治さんは本紙取材に「抗議を開始した日からの日数を示した掲示板だ。工事車両が来ない時や台風の時は、座り込みはやっていないが、それもあえて説明しなさいということか」と困惑気味に語った。本紙は関係者を通じてひろゆきさんに取材を試みたが、連絡を取ることができなかった。


漫画家のかざま鋭二さんが膵臓がんのため死去 75歳 「風の大地」を30余年にわたり連載

2022-10-04 16:58:23 | 国内
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漫画家のかざま鋭二さんが膵臓がんのため死去 75歳 「風の大地」を30余年にわたり連載

漫画家のかざま鋭二(かざま・えいじ、本名・近藤秀樹=こんどう・ひでき=)さんが2日に膵臓がんのため死去したと、小学館が4日発表した。

75歳だった。東京都出身。葬儀は近親者のみですでに執り行われた。  かざまさんは漫画雑誌「ビッグコミックオリジナル」(小学館)で、ゴルフ漫画「風の大地」を30年以上にわたって連載していた。 

かざまさんは1966年、「その名はゼロ」で貸本漫画でデビュー。川崎のぼるのアシスタントを経て、69年に漫画雑誌「少年キング」で「栄光への5000キロ」を執筆し、一般漫画誌へのデビューを果たした。

その後も、「海商王」「青春山脈」「セニョール・パ」「Dr.タイフーン」など数々の作品を執筆した。 

 1991年に「風の大地」の連載を開始。24歳という遅い年齢でプロゴルファーとしてデビューしながらも、苦労の末にメジャートーナメントで活躍する姿を描いた漫画は、93年には小学館漫画賞を青年一般部門を受賞した。

  かざまさんは、抗がん剤治療のため、今年7月発売の「ビッグコミックオリジナル」から休載していた。


テレビ朝日・玉川徹氏の電通問題に止まぬ批判、局内もザワつく“玉川発言”3つの過ち

2022-10-04 06:31:54 | 国内
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テレビ朝日・玉川徹氏の電通問題に止まぬ批判、局内もザワつく“玉川発言”3つの過ち

「もはやBPO案件ですよ。実際、電話メールなどで、問題放送を指摘する連絡が多数、届いているようですよ」 

スポーツ紙放送担当記者がそう打ち上げるのは、テレビ朝日のコメンテーターの“誤報”に関する動きだ。BPO(放送倫理・番組向上機構)には、批判の声が寄せられているという深刻さ。やらかしたのは、テレビ朝日の社員コメンテーターである。

玉川徹氏「3つの過ち」

 安倍晋三元首相の国葬の翌日、『羽鳥慎一モーニングショー』で、玉川徹氏が、菅義偉前首相の弔辞に対し「国葬の政治的意図」という見方を示した際の“玉川発言”が炎上を続けている。 

 前出・スポーツ紙放送担当記者は 「玉川さんは、3つの過ちを犯した。罪深い」  3つの過ちとされる失言をあらためて振り返る。

 《僕は演出側の人間としてテレビのディレクターをやって来ましたから、それはそういうふうに作りますよ。政治的意図がにおわないように制作者としては考えますよ。当然、これ、電通が入っていますからね》

  放送の翌日、玉川氏は、電通が関わっていなかったことを謝罪。白旗を上げた。 「電通というのはテレビ局にとって最も大切で敏感な部分。

何の根拠もなくそこに責任をなすり付けた発言で、テレビ朝日内部でも、玉川批判の声がささやかれています」  電通の名前を、誤報的に出したことが、1つ目の罪。そこには2つ目の罪も含まれているという。 

「そもそも“玉川発言”は、東京五輪で元電通幹部が逮捕されたことで、世間の電通イメージが悪化しているという空気を読み、それに便乗しようとしたもの。

電通=悪、という刷り込みをさらに無責任に拡大流布しようとしたことはあまりにも質が悪い。フェイクニュースならぬフェイクコメントですよ」  電通の悪イメージの固定化に、まぎれもなく“玉川発言”が加担した。  さらに3つ目の罪に話を進める。

 「テレビの制作者が、政治的な意図をにおわせないように制作しているということ。テレビ朝日はその昔、民主党政権が成立する際に自ら偏向報道をしたと当時の報道局長が明らかにしたことがあり、“椿事件”として大問題になりました。玉川さんの指摘はまさに、テレ朝内部の体質を裏付けるものです。

  他局の報道局スタッフは、『自分のところでやっていることを、放送業界全体のことのように言うのはどうかと思いますよ』とあきれていましたけどね」  

電通のイメージを失墜させ、テレビ業界全体の制作者のイメージに泥を塗った“玉川発言”。罪は拭えないばかりか、鎮火の様子もまだ見えない。