雑誌「東京人」の創刊20周年記事、「江戸前の味 ~ これだけあれば後はいいか」(文、絵・矢吹申彦)
http://www.toshishuppan.co.jp/tj_new_0601.html
食べ物は、蕎麦、鮨、天麩羅、鰻、洋食、これだけあれば後はいい。という話。
それだけあればずいぶんぜいたくな話にもなるが、とりあえずこのうちのどれか、うまいのがあればいい、と言う。その時、前提として「家での食事がうまいこと」。
これはなかなか難しい。私も以前から「洋食」という言葉の対極は、和食でもなければもちろん中華でもなく、家(うち)での食事だと思ってきた。明治になって、洒落た外食として「洋食屋」が出来たのであって、生活の基本は家で粗末なものでもおいしく食べることにあったはず。
それが最近は、コンビニで買った弁当をチンしたり、カップ麺にお湯をかけるのが、家での食事になっている。そうでなくても皿に盛る前にチンしたりお湯かけたりする「調理済み」食材だって山ほど消費している。
そうなると勢い家の食事は味気なくなり、外に出たときにプロが作った「いい仕事」を追い求める餓えた狼のような「美食のゴールドラッシュ」になってしまう。
うまい蕎麦か天麩羅で一杯やれたら満足。家に帰って茶漬けか卵かけ飯でも食べれば後は寝るだけ、という生活があったはずなのだが。
http://www.toshishuppan.co.jp/tj_new_0601.html
食べ物は、蕎麦、鮨、天麩羅、鰻、洋食、これだけあれば後はいい。という話。
それだけあればずいぶんぜいたくな話にもなるが、とりあえずこのうちのどれか、うまいのがあればいい、と言う。その時、前提として「家での食事がうまいこと」。
これはなかなか難しい。私も以前から「洋食」という言葉の対極は、和食でもなければもちろん中華でもなく、家(うち)での食事だと思ってきた。明治になって、洒落た外食として「洋食屋」が出来たのであって、生活の基本は家で粗末なものでもおいしく食べることにあったはず。
それが最近は、コンビニで買った弁当をチンしたり、カップ麺にお湯をかけるのが、家での食事になっている。そうでなくても皿に盛る前にチンしたりお湯かけたりする「調理済み」食材だって山ほど消費している。
そうなると勢い家の食事は味気なくなり、外に出たときにプロが作った「いい仕事」を追い求める餓えた狼のような「美食のゴールドラッシュ」になってしまう。
うまい蕎麦か天麩羅で一杯やれたら満足。家に帰って茶漬けか卵かけ飯でも食べれば後は寝るだけ、という生活があったはずなのだが。