「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

済々黌先輩英霊列伝⑱坂本 充 S15卒 「『坂本らしい死に方をした』そう云って俺を思い出して呉れる者がいるという事は限りなく嬉しい思いだ。」

2021-02-12 14:45:04 | 続『永遠の武士道』済々黌英霊篇
沖縄特攻に散った名剣士
坂本  充(さかもと みつる))S15卒
「『坂本らしい死に方をした』そう云って俺を思い出して呉れる者がいるという事は限りなく嬉しい思いだ。」   

 坂本 充は宇土郡郡浦村の出身。済々黌時代は剣道部に属し、5年時には主将を務めた。昭和12年、済々黌3年時には熊本県大会で先鋒に起用されている。因みに、この年の済々黌剣道部は、熊本県大会優勝、第3回京大大会では準優勝、第8回全日本優勝大会で優勝している。13年には正選手となり、熊本県大会で優勝。更に夏の第4回京大大会で見事優勝を果たしている。この時「新鋭の坂本、このころにはすっかり度胸が出来ていた。堂々たる大将戦を見せて防府(前年度優勝校)戦に勝った。」「後には対防府戦で自信を得た坂本がいた。坂本の面は実によく伸びた。いとも鮮やかに極まった。京大の覇権は再びわれらの頭上に輝いた。(第1回大会で優勝している。)」。と坂本の大活躍が記されている。坂本が最高学年の14年には、第5回京大大会で、見事連覇を果たした。「第4回戦以後、優勝戦に至る間の主将坂本の善戦健闘振りは優勝への最大原動力だった。坂本の鮮やかな面業の伸びは満場絶讃の的であった。」と記録に記されている。
 
 卒業後、慶応大学に進学。同大でも剣道部で活躍した。昭和16年9月に行われた第17回早慶戦(20人対抗)では一年生で先鋒に起用され見事二本勝している。その後も二年時の7月に18回早慶戦、三年時の6月に19回早慶戦を戦っている。

 だが、昭和18年夏には学徒出陣となり、文系学生への徴兵猶予が無くなる。坂本は慶応大学から学徒出陣し、18年9月に第13期海軍飛行科予備学生として茨城県土浦海軍航空隊に入隊した。そして、沖縄に侵攻する米軍に対する神風特別別攻撃隊第一草薙隊として、昭和20年4月6日に特攻散華した。

 坂本について、『第五十回記念早慶対抗剣道史』に5名が思い出を記している。その中の3名の文章の一部を紹介する。

「慶応の先鋒坂本選手の面が見事に決った。早稲田の岡選手も敗けてはならじと強烈に攻めたてたが、坂本これを良くかわし、呼吸を整えて隙をうかがい遠間からもう一本一直線に捨身で岡選手の面を襲い勝負がついた。―昭和十六年九月の 第十七回早慶戦の事である。
 坂本充は我々の同僚で大学予科の一年生。中学済々黌時代に主将で鳴らした男である。我々最低学年からの代表であり、何としても勝たしたいと祈り願ったのであった。坂本は飛込面一本ヤリの男であった。小手はあまり得意でなく、胴を打つ事はあっても何となくギコチなかった。竹刀を多少短く持って遠間から捨身で飛込む面は素晴らしい威力があった。(略)
 早慶戦に活躍した坂本は海軍飛行予備学生として土浦に入隊した。青年時代のひたむきな純粋な身心を国に捧げたのである。昭和二十年四月彼は沖縄作戦に於て神風特別攻撃隊員に志願し、高度三、五〇〇米から敵艦目がけて一直線に急降下。体当りして玉砕したのであった。彼の得意とする捨身の飛込み面そのものではなかったろうか。」(山崎 忠・慶大S21卒)

「坂本君と私が最初に出会ったのは昭和十四年の八月、京都大学で行われた全国中等学校剣道大会の準決勝戦で、彼は九州熊本済々黌の副将として大阪豊中中学の副将であった私と対戦したのである。五対五の勝抜き戦で、先鋒から三人を倒して四人目が坂本君であった。彼を倒せば残るは大将一人、優勝出来るかも知れないと欲を出したのが祟って先に小手を一本取っておきながら続いて面を二本とられ、私は敗退した。坂本君は我が校の大将である渡瀬正美(後に慶応に入る)と対戦し、渡瀬は坂本を破って済々黌の大将西久保と一本一本勝負となったが惜しくも敗れ、済々黌は次の決勝戦にも勝って全国制覇の栄冠を得たのである。
 翌年、私は早稲田に入り、坂本君は慶応に入った。(略)
 以後、慶応の剣友たちとは交換稽古や早慶戦で度々顔を合わせることになったが、意外だったのは昭和十八年九月、第十三期海軍飛行科予備学生として茨城県土浦海軍航空隊に入隊した私が、隊内の道場でバッタリ坂本君と顔を合わせたことである。彼も同じ予備学生として入隊していたのだった。その後、坂本君と私は別れ別れになって、練習航空隊から実習部隊、戦闘部隊と転々と配乗を命ぜられた末、昭和二十年四月、沖縄攻撃菊水一号作戦に参加するために九州南端の特攻基地に集結した。其処ではからずも坂本君と再会したのである。
 彼は艦爆(急降下爆撃機)の搭乗員で、神風特別攻撃隊第一草薙隊に所属しており、私は特攻機を敵艦の上空まで送り届け、戦果を確認する役目 の上空直掩機、零戦隊員であった。
 出撃を待つ僅かな時間を、戦闘指揮所裏の小高い丘に登って満開の桜の下で私達は剣道の思い出話に花を咲かせた。
 四月六日、午後一時四十五分、出撃命令は下った。坂本君は日の丸の鉢巻を締め直して立ち上がり、私に手をさしのべた。私はその手を力一杯握りしめた。「先に行って待ってるぞ」「うン 俺も後から行く」「あの世で早慶戦をやろう」それが坂本君と私が交した最後の言葉であった。そして、その日、彼は見事に敵艦に体当りし、私は敵の戦闘機と空戦中被弾して洋上に不時着した。」(直居欽哉・早大S18年卒)

「中でも私の忘れることの出来ないのは慶応中堅坂本充選選手と早稲田長崎正二郎選手の対戦(昭和18年6月1日、第19回大会)である。坂本選手は小学校・中学とも私より三つ上級生(略)私にとっては兄貴同様の先輩であった。対する長崎選手も同じ熊本県の出身(鎮西中学)で当時の中等学校剣道選手の中では有名な剣士、お互いよく知り合った仲であった。(略)試合の結果は、両選手とも日頃鍛えた技を競い合い、獅子奮迅、長い試合の末長崎選手が倒れ乍ら打った胴に軍配があがり、坂本選手は惜敗された。
 豫て真面目で、から竹を割ったようなさっぱりした性格の先輩もこの試合は余程身にこたえたのであろう。この日の日記に「第19回早慶戦は5連勝した。俺は併しひとたまりもなく負けた。負けるからには理由があるのだ。反省すべき秋が来たと思う」と記してあったそうである。
  (中略)
 坂本先輩は生涯の最後となった日記に「アメリカはいよいよ西南諸島までやって来た。恐らく、もう江戸の土もふめなくなるだろう。別にこの際なんの虚栄もないが『坂本らしい死に方をした』そう云って俺を思い出して呉れる者がいるという事は限りなく嬉しい思いだ。」(昭和20年3月25日)と記しておられたそうである。」(村上鉄二・早大S24卒)

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