「武士道の言葉」第三回 宮本武蔵その二 『祖国と青年』24年6月号掲載分
兵法の道におゐて、心の持ちやうは、常の心に替る事なかれ。
(『五輪書』水の巻「兵法心持の事」)
武蔵は、兵法の道(戦いの時)に於ける心の持ち様は、日常生活の時と変わってはならない、と述べている。「平常心」という言葉があるが、平時も有事も一貫する心の有り方を強調する。その心とは、「常にも、兵法の時にも、少もかはらずして、心を広く直にして、きつくひつぱらず、少もたるまず、心のかたよらぬやうに、心をまん中におきて、心を静にゆるがせて、其ゆるぎのせつなも、ゆるぎやまぬやうに、能々吟味すべし。」と武蔵は述べる。ある古武道の達人は、この心の状態を、真空の中に浮遊する玉が、ある方向から力が加わったその瞬間、敏感に反応する様に例えている。不動心とは、動かない心では無く、何事にも直に正しく対応できる心を言う。その様な心を日常に於いて磨き上げる事、言うならば、日常即兵法修業の場と武蔵は考えていたのである。
「大欲は無欲に近し」という言葉や、大塩平八郎の強調した「帰太虚」にも同じ様な考え方は現れている。「無」や「太虚(大いなる虚)」には何も存在するのでは無く、全ゆる物が含まれ、そこから生れ出るのである。有限を突き抜けた無限の状態である。しかし、近代科学に侵されている我々には中々難しい。
武蔵は、『五輪書』地の巻に、わが兵法を行おうと思う人にはその道を行う方法がある、と具体的な次の事を記している。
第一によこしまになき事をおもふ所。
第二に道の鍛錬する所。
第三に諸芸にさはる所。
第四に諸職の道を知所。
第五に物毎の損徳をわきまゆる事。
第六に諸事目利(めきき)を仕覚る事。
第七に目に見えぬをさとつてしる事。
第八にわづかな事にも気を付る事。
第九に役にたたぬ事をせざる事。
先ずは、これらの実践の中から、武蔵の達した心の姿へと磨き上げて行きたい。
観見二ッの事、観の目つよく、見の目はよはく、遠き所を近く見、ちかき所を遠く見る事兵法の専也。 (『五輪書』水の巻「兵法の目付と云事」)
『五輪書』は、武蔵の実践体験を文字に表現したものであり、その意味する所は、極めて深いものがある。ここで紹介する「観の眼」と「見の眼」については、高橋史朗氏を始め多くの識者が紹介している。「観の眼」とは物事の本質や奥深い事を見抜く「心の眼」を言い、物事の表面しか把握出来ない「見の眼」と区別している。その観の眼を強くして、遠い所を近くに捉え、近い所は逆に遠くを見る様に把握すべきだと武蔵は言う。その事によって、敵の動きの全体像が読める様になるのである。剣道でも、相手の竹刀や眼を見つめすぎると、こちらの心が固まってしまい敗北する。仕事に於ても、ある難局に遭遇した場合、その困難さのみを見つめれば心が挫けてしまうが、その困難が生じた原因を深く考え、自らの至らなさや組織の有り方などを検証して行けば、打開策が見出せるものである。
武蔵は何事にあれ「居著く」事を嫌った。「居著く」とは物事に捉われ執着する事を言う。太刀にしても手にしても、居著いてしまえば自由を失い、その結果敗北を招いてしまう。武蔵は、「いつく」は死ぬる手、「いつかざる」は生きる手であると言う。太刀の構えにしても、構えると思うのではなく、相手を斬る事を思えば良い、構えに執着すべきでは無い、という。それ故、太刀の構えは定めが有って無い様なものだと、「有構無構のおしへ」を説いている。武蔵は何故、二刀流を使ったのか。武士は大刀・小太刀の二本を腰に差している。それ故、命を投げ出す時は、道具を残らず役立てねば意味が無いと言うのだ。実戦では、馬に乗ったり、別の武器を片手に持って戦わねばならない事も多いので、片手で太刀を自由に扱える様にしておくべきである。戦いの中で考えた武蔵の合理精神が二刀流を生み出したのである。だが、武蔵は二刀にもこだわらない、場に応じて二刀を使えば、一刀の時もあり、要は相手に勝つ為に、その場その場に応じて、自らが持てる物と力を充分に活用すべし、というのが武蔵の哲学である。
われわれの組織運動も、持てる人材や能力を充分に活用し切っているのか、一つの型に執着して本来の目的を忘れてはいないか、「観の眼」を研ぎ澄まして常に検証し、考えて置くべきであろう。
打と云事、あたると云事、二ッ也。打と云心は、いづれの打にても、思ひうけて慥に打也。あたるはゆきあたるほどの心にて、何と強クあたり、忽敵の死るほどにても、是はあたる也。打と云は心得て打所也。吟味すべし。
(『五輪書』水の巻「打とあたると云事」)
武蔵は、「打つ」と「当る」は違う事だと強調する。「打つ」とはこちらが思い描いた通りに太刀を使って見事に相手に当てた技の冴えを言うのであり、「当る」とは例え相手がその結果死んだとしても、たまたま当った訳で、僥倖に過ぎないのである。剣を修業する以上、「当る」のでは無く、「打つ」為の修練を積まねばならぬと言う。武蔵が佐々木小次郎を倒した後に、「まだ未熟也」と更なる自己修練を課したのは、それ迄の勝利が「当る」勝利であり、「打つ」勝利に至っていなかったと、悟ったからであった。
同様の事を「ねばる」と「もつるる」の違いでも語っている。相手との混戦になった時、それが「もつれ」によって生み出されたならば弱いし、逆に当方の「粘り」によってその状態が齎されたのなら強いのだ、と言っている。「ねばるはつよし、もつるゝはよはし。」と。
これらの教えは、吾々の日常の仕事に対しても大いに活用できる。ある行事を行う場合、例えば一千名の参加者を確保せねばならない時、その為の様々な方策を考えて手を打って行く、その途中で、ある程度の予測を立て、未だ不十分だと思われたならば、更なる対策を考えて手を打つ、その結果、一千名を超える参加者が確実に集った場合は武蔵の言う「打つ」に当る。ところが、参加促進を様々に行ったが、それがどの程度の効果を生んでいるのか皆目見当がつかない場合、当日一千名が来たとしても、それはたまたま成功したのであり、武蔵の言う「当る」に過ぎないのだ。後者の場合は、次に仕事を任された場合、失敗する可能性が高い。「当る」を「打つ」に迄持って行く為には、自らが為した事を再検証し、確実にする作業が不可欠なのである。
「粘る」と「縺れる」についても、ある難題に直面した場合、その難題に埋没してがんじがらめになってしまう事がある。その様な時、一歩外に出て、新しい視点から物事を考え直すと、思いの外、難題を生み出した原因が解明出来る事がある。「縺れる」とは難題によって自らの動きを失う事であり、「粘る」とは、あくまでも自らの主体性を確保する事によって難題を粘り強く解決して行く事に他ならない。われわれは「粘り腰」を持っても「縺れ腰」にならない様注意すべきだ。
仏神は尊し仏神をたのまず(「独行道」)
宮本武蔵は亡くなる一週間前に『五輪書』を書き終えて、弟子に伝授した。更に武蔵は自らの人生の信條ともいうべき言葉十九カ条を書いて与えた。それが「独行道」である。それは次の内容である。
一、世々の道そむく事なし
一、身に楽みをたくまず
一、よろずに依怙(えこ)の心なし
一、一生の間よくしん(欲心)思はず
一、我事におひて(於て)後悔をせず
一、善悪に他をねたむ(妬む)心なし
一、何れの道にも別をかなしまず
一、自他共にうらみかこつ心なし
一、れんぼ(恋慕)の道思ひよる心なし
一、物事にすき好む事なし
一、私宅におひて望む心なし
一、身ひとつに美食を好まず
一、末々什物となる古き道具所持せず
一、我身にいたり物いみする事なし
一、兵具は格別よ(余)の道具たしなまず
一、道におひては死をいとはず思ふ
一、老身に財宝所持もちゆる心なし
一、仏神は尊し仏神をたのまず
一、常に兵法の道をはなれず
正に、孤高の求道者宮本武蔵の生き方そのものが言葉となって記されている。熊本の武蔵塚では「独行道」を記した置物が頒布され、心ある人々を導いている。
四月の福岡に於る日本の誇りセミナーでは宮本武蔵を取り上げた。五輪書の言葉は青年や学生には難しいかと思われたが、感想文を見ると、それぞれに武蔵の言葉から人生を生きるヒントを得てくれた様だった。五月十九日、日本会議福岡北九州支部総会の講演で小倉に招かれた際、日本協議会のメンバー八名と手向山公園を訪れた。手向山一帯は、宮本武蔵の養子・伊織の所領となり、宮本家の墓所もある。宮本伊織は、明石・小笠原家に仕え、二十八歳で家老の地位まで上り、子孫は代々家老職を継いでいる。小笠原家は寛永九年に小倉に移封し、武蔵は伊織と共に移り、熊本に招かれる寛永十七年まで小倉の地で過した。正保二年に武蔵は亡くなるが、その九年後に伊織は手向山に、武蔵の遺骨と遺品を祀り、武蔵の顕彰碑を建立した。私共が顕彰碑を訪れた日は奇しくも武蔵の命日だった。翌日、私は熊本の武蔵塚(武蔵のお墓)にも参拝して剣聖・武蔵を偲んだ。
兵法の道におゐて、心の持ちやうは、常の心に替る事なかれ。
(『五輪書』水の巻「兵法心持の事」)
武蔵は、兵法の道(戦いの時)に於ける心の持ち様は、日常生活の時と変わってはならない、と述べている。「平常心」という言葉があるが、平時も有事も一貫する心の有り方を強調する。その心とは、「常にも、兵法の時にも、少もかはらずして、心を広く直にして、きつくひつぱらず、少もたるまず、心のかたよらぬやうに、心をまん中におきて、心を静にゆるがせて、其ゆるぎのせつなも、ゆるぎやまぬやうに、能々吟味すべし。」と武蔵は述べる。ある古武道の達人は、この心の状態を、真空の中に浮遊する玉が、ある方向から力が加わったその瞬間、敏感に反応する様に例えている。不動心とは、動かない心では無く、何事にも直に正しく対応できる心を言う。その様な心を日常に於いて磨き上げる事、言うならば、日常即兵法修業の場と武蔵は考えていたのである。
「大欲は無欲に近し」という言葉や、大塩平八郎の強調した「帰太虚」にも同じ様な考え方は現れている。「無」や「太虚(大いなる虚)」には何も存在するのでは無く、全ゆる物が含まれ、そこから生れ出るのである。有限を突き抜けた無限の状態である。しかし、近代科学に侵されている我々には中々難しい。
武蔵は、『五輪書』地の巻に、わが兵法を行おうと思う人にはその道を行う方法がある、と具体的な次の事を記している。
第一によこしまになき事をおもふ所。
第二に道の鍛錬する所。
第三に諸芸にさはる所。
第四に諸職の道を知所。
第五に物毎の損徳をわきまゆる事。
第六に諸事目利(めきき)を仕覚る事。
第七に目に見えぬをさとつてしる事。
第八にわづかな事にも気を付る事。
第九に役にたたぬ事をせざる事。
先ずは、これらの実践の中から、武蔵の達した心の姿へと磨き上げて行きたい。
観見二ッの事、観の目つよく、見の目はよはく、遠き所を近く見、ちかき所を遠く見る事兵法の専也。 (『五輪書』水の巻「兵法の目付と云事」)
『五輪書』は、武蔵の実践体験を文字に表現したものであり、その意味する所は、極めて深いものがある。ここで紹介する「観の眼」と「見の眼」については、高橋史朗氏を始め多くの識者が紹介している。「観の眼」とは物事の本質や奥深い事を見抜く「心の眼」を言い、物事の表面しか把握出来ない「見の眼」と区別している。その観の眼を強くして、遠い所を近くに捉え、近い所は逆に遠くを見る様に把握すべきだと武蔵は言う。その事によって、敵の動きの全体像が読める様になるのである。剣道でも、相手の竹刀や眼を見つめすぎると、こちらの心が固まってしまい敗北する。仕事に於ても、ある難局に遭遇した場合、その困難さのみを見つめれば心が挫けてしまうが、その困難が生じた原因を深く考え、自らの至らなさや組織の有り方などを検証して行けば、打開策が見出せるものである。
武蔵は何事にあれ「居著く」事を嫌った。「居著く」とは物事に捉われ執着する事を言う。太刀にしても手にしても、居著いてしまえば自由を失い、その結果敗北を招いてしまう。武蔵は、「いつく」は死ぬる手、「いつかざる」は生きる手であると言う。太刀の構えにしても、構えると思うのではなく、相手を斬る事を思えば良い、構えに執着すべきでは無い、という。それ故、太刀の構えは定めが有って無い様なものだと、「有構無構のおしへ」を説いている。武蔵は何故、二刀流を使ったのか。武士は大刀・小太刀の二本を腰に差している。それ故、命を投げ出す時は、道具を残らず役立てねば意味が無いと言うのだ。実戦では、馬に乗ったり、別の武器を片手に持って戦わねばならない事も多いので、片手で太刀を自由に扱える様にしておくべきである。戦いの中で考えた武蔵の合理精神が二刀流を生み出したのである。だが、武蔵は二刀にもこだわらない、場に応じて二刀を使えば、一刀の時もあり、要は相手に勝つ為に、その場その場に応じて、自らが持てる物と力を充分に活用すべし、というのが武蔵の哲学である。
われわれの組織運動も、持てる人材や能力を充分に活用し切っているのか、一つの型に執着して本来の目的を忘れてはいないか、「観の眼」を研ぎ澄まして常に検証し、考えて置くべきであろう。
打と云事、あたると云事、二ッ也。打と云心は、いづれの打にても、思ひうけて慥に打也。あたるはゆきあたるほどの心にて、何と強クあたり、忽敵の死るほどにても、是はあたる也。打と云は心得て打所也。吟味すべし。
(『五輪書』水の巻「打とあたると云事」)
武蔵は、「打つ」と「当る」は違う事だと強調する。「打つ」とはこちらが思い描いた通りに太刀を使って見事に相手に当てた技の冴えを言うのであり、「当る」とは例え相手がその結果死んだとしても、たまたま当った訳で、僥倖に過ぎないのである。剣を修業する以上、「当る」のでは無く、「打つ」為の修練を積まねばならぬと言う。武蔵が佐々木小次郎を倒した後に、「まだ未熟也」と更なる自己修練を課したのは、それ迄の勝利が「当る」勝利であり、「打つ」勝利に至っていなかったと、悟ったからであった。
同様の事を「ねばる」と「もつるる」の違いでも語っている。相手との混戦になった時、それが「もつれ」によって生み出されたならば弱いし、逆に当方の「粘り」によってその状態が齎されたのなら強いのだ、と言っている。「ねばるはつよし、もつるゝはよはし。」と。
これらの教えは、吾々の日常の仕事に対しても大いに活用できる。ある行事を行う場合、例えば一千名の参加者を確保せねばならない時、その為の様々な方策を考えて手を打って行く、その途中で、ある程度の予測を立て、未だ不十分だと思われたならば、更なる対策を考えて手を打つ、その結果、一千名を超える参加者が確実に集った場合は武蔵の言う「打つ」に当る。ところが、参加促進を様々に行ったが、それがどの程度の効果を生んでいるのか皆目見当がつかない場合、当日一千名が来たとしても、それはたまたま成功したのであり、武蔵の言う「当る」に過ぎないのだ。後者の場合は、次に仕事を任された場合、失敗する可能性が高い。「当る」を「打つ」に迄持って行く為には、自らが為した事を再検証し、確実にする作業が不可欠なのである。
「粘る」と「縺れる」についても、ある難題に直面した場合、その難題に埋没してがんじがらめになってしまう事がある。その様な時、一歩外に出て、新しい視点から物事を考え直すと、思いの外、難題を生み出した原因が解明出来る事がある。「縺れる」とは難題によって自らの動きを失う事であり、「粘る」とは、あくまでも自らの主体性を確保する事によって難題を粘り強く解決して行く事に他ならない。われわれは「粘り腰」を持っても「縺れ腰」にならない様注意すべきだ。
仏神は尊し仏神をたのまず(「独行道」)
宮本武蔵は亡くなる一週間前に『五輪書』を書き終えて、弟子に伝授した。更に武蔵は自らの人生の信條ともいうべき言葉十九カ条を書いて与えた。それが「独行道」である。それは次の内容である。
一、世々の道そむく事なし
一、身に楽みをたくまず
一、よろずに依怙(えこ)の心なし
一、一生の間よくしん(欲心)思はず
一、我事におひて(於て)後悔をせず
一、善悪に他をねたむ(妬む)心なし
一、何れの道にも別をかなしまず
一、自他共にうらみかこつ心なし
一、れんぼ(恋慕)の道思ひよる心なし
一、物事にすき好む事なし
一、私宅におひて望む心なし
一、身ひとつに美食を好まず
一、末々什物となる古き道具所持せず
一、我身にいたり物いみする事なし
一、兵具は格別よ(余)の道具たしなまず
一、道におひては死をいとはず思ふ
一、老身に財宝所持もちゆる心なし
一、仏神は尊し仏神をたのまず
一、常に兵法の道をはなれず
正に、孤高の求道者宮本武蔵の生き方そのものが言葉となって記されている。熊本の武蔵塚では「独行道」を記した置物が頒布され、心ある人々を導いている。
四月の福岡に於る日本の誇りセミナーでは宮本武蔵を取り上げた。五輪書の言葉は青年や学生には難しいかと思われたが、感想文を見ると、それぞれに武蔵の言葉から人生を生きるヒントを得てくれた様だった。五月十九日、日本会議福岡北九州支部総会の講演で小倉に招かれた際、日本協議会のメンバー八名と手向山公園を訪れた。手向山一帯は、宮本武蔵の養子・伊織の所領となり、宮本家の墓所もある。宮本伊織は、明石・小笠原家に仕え、二十八歳で家老の地位まで上り、子孫は代々家老職を継いでいる。小笠原家は寛永九年に小倉に移封し、武蔵は伊織と共に移り、熊本に招かれる寛永十七年まで小倉の地で過した。正保二年に武蔵は亡くなるが、その九年後に伊織は手向山に、武蔵の遺骨と遺品を祀り、武蔵の顕彰碑を建立した。私共が顕彰碑を訪れた日は奇しくも武蔵の命日だった。翌日、私は熊本の武蔵塚(武蔵のお墓)にも参拝して剣聖・武蔵を偲んだ。
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