「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

済々黌先輩英霊列伝⑭小佐井 武士「昭和19年9月、隼二機で比島レイテ沖敵艦隊に特別攻撃を敢行して散華」

2021-01-12 16:44:16 | 続『永遠の武士道』済々黌英霊篇
陸軍特攻の先駆けとなった隼戦士
小佐井  武士(こざい たけし)S14卒
「昭和19年9月、隼二機で比島レイテ沖敵艦隊に特別攻撃を敢行して散華」 

 小佐井武士は飽託郡北部村(現・熊本市)の出身。済々黌から陸軍航空士官学校(昭和13年12月に陸軍士官学校から独立)に進んだ。士官学校生としては55期生となる。

 18年4月立川の乙種学生の課程を修了し、東満州敦化基地の飛行第31戦隊に着任。戦隊は敦化から大興安嶺の西縁にある平安基地に転進し、小佐井は飛行隊の第一中隊付となる。その後、戦隊は北満の嫩江基地に移り、爆撃機から隼戦闘機に機種改編して戦闘隊となった。

 19年6月飛行第31戦隊に比島転進の命令が下り、8月中旬には中部比島ネグロス島の東北端のファブリカ基地に展開する。小佐井は飛行第一中隊第二小隊長として、隼戦闘機七四〇九号が愛機となる。9月9日、マニラ湾に於ける超低空飛行の艦船爆撃訓練に参加し、隼戦闘機Ⅲ型で飛行中、波にプロペラが接触して海没するも無事帰還を果たした。

 9月12日、敵機動部隊のネグロス島地区攻撃が予想され、早朝より戦闘配置に就き、午前8時、遥か東方に約百機の敵機を発見し、戦隊全機二十二機で離陸敵編隊の背後より攻撃して敵機十七機を撃墜、小佐井中尉も二機を撃墜して帰還した。当方の損害は被弾機4機、未帰還機2機だった。その日、敵は4回に亘って第二飛行師団司令部のあるバゴロド地区を攻撃、しかし、第一中隊は戦闘を禁止され退避命令を受けた。

 その夜、朝の戦闘体験を基に飛行隊全員で戦闘会議を開催し今後の戦いについて真剣な議論が為された。その結果、

①敵のグラマンF6Fは二千馬力で最高速度や旋回性能は隼と大差はないが、巡航速度から最高速度になる時間と上昇力では千二百馬力の隼戦闘機とは格段の差があること。

②グラマンF6Fは20ミリ機関砲4門・13ミリ機関砲4門、隼は13ミリ2門のみ。敵操縦者の座席は厚い鋼板で包まれ、燃料タンクにも厚い防弾装置がついていて中々撃墜出来ない。

③軍司令部偵察機の偵察結果では敵機部隊は夜間黎明には哨戒護衛飛行は行っていない。④これらの現実と本日の戦闘体験により、敵との正面からの空中戦では、機数・性能・装備その何れの見地からしても勝つ事は不可能と思われる。本日の戦闘は、他の基地への攻撃後の敵編隊を攻撃したので意外の成果を得たが、明日は真正面からの戦闘になり、本日午後の如く退避は不可能であろう。

との結論となった。ここからは戦隊の整備隊長の杉山竜丸氏(陸士53期)の証言の文章をそのまま紹介する。

「以上の結論から明日の戦闘を如何に闘うべきかという戦隊長の質問に対し、全員異口同音に「戦隊長、敵空母群を特攻しましょう。我々はもともと軽爆隊から襲撃隊となり戦闘隊となったのですから、超低空や急降下爆撃には習熟しています。この基地で戦っても全滅するのみです。また退避しても五十歩百歩です。それならむしろ我々は日本の国民に対して、愛機の戦闘機に爆弾をつけて体当たりしても戦っている最後の姿を見せるのが、我々の任務でしょう」と言う意見で、戦隊長西進少佐は、夜間飛行可能の操縦者約二〇名全員の乗機に爆装可能かどうか、至急の研究を私に命ぜられました。私は夜間整備作業中の整備隊で、落下タンクを外し、百キロ爆弾をつけ、かつ落下試験も終え、十二時すぎ戦隊本部に帰り全機可能の旨を報告しました。

 西戦隊長が飛行隊全員に対して特攻志願者を募ったところ、全員が直ちに参加希望しましたので、戦隊長は涙をポタポタ流しながら、電話で師団司令部に対して、飛行第三一戦隊が明黎明、夜間飛行可能の操縦者全員で特別攻撃隊を編成して敵機動部隊の空母攻撃することの許可を求めました。

 師団司令部は、大本営の命令が「敵上陸に備えて兵力を温存すべきである。」ということで、特別攻撃を否定している様子で戦隊長の泣きながらの懇願電話は、約二時間も続きました。遂に午前二時、西戦隊長の熱意に司令部も折れたのか、マニラ湾で超低空艦船攻撃の訓練を受けた小佐井中尉と山下軍曹の二名のみによる特別攻撃の許可が下りました。それから後は小佐井機と山下機の五時半出発に備えて整備隊あげての準備が行われたのは勿論でありました。

 五時半一寸前小佐井中尉は愛機に搭乗したので、私は彼の出発合図を下で待っていましたが、彼は座席で何かに祈るように頭を低く垂れていました。彼が搭乗した時、エンジンは既に始動していましたので、いずれ彼から車輪止めを外す合図があるであろうと思って、私は待っていましたが、なかなかその合図がないのです。不思議に思って翼に登り座席に近づいて彼の肩に手をかけますと、彼はようやく私を見て「どうかしましたか?」と私に聞きます。私が時計を示しますと「杉山さん、早く知らせて下されば良いのに、いや、お世話になりました。では行って来ます。」と笑って言って車輪止め外せの合図を待機していた整備員に送り、エンジン回転を大きくして、滑走路に出て行きました。黎明と言っても、まだ四・五米先が見えるくらいでした。やがて滑走路の南端で、ゆるく旋回して、山下軍曹機ともども出発線につき、轟音と共に離陸してゆきました。

 両機は翼下に真黒い影の百キロ爆弾を抱き、赤青白の灯線を引きながら黒く見えるシライ山の方向に左旋回し、やがて真暗な中にキラメク星の一つとなって、東方に消えてゆきました。レイテ東方の機動部隊の位置まで、昨夜での情報では、隼機で約一時間です。

 小佐井中尉機の機付兵二名は、戦隊本部の裏の誘導路の東端に二人並んで立ちつくし、遥か東方を眺めて動きませんでした。小佐井中尉機が出発以来約二時間を経過しましたが、まだ東の空に機影はありません。ポツンと赤かった東の空は、やがて大空一杯に暁の色を拡げ、地平線から大きな真赤な太陽が昇り始めました。その光に照らされた二人の整備兵の顔を見ますと、じっと東の空を見つめていた二人の眼からとめどもなく涙が溢れ、頬をつたわり顎から大地へしたたり落ちていました。

 飛行第三一戦隊の全員の希望と意見、そして西戦隊長の意見具申から見て、小佐井中尉の攻撃は、陸軍の特別攻撃隊第一号であったと、私は信じています。

 小佐井中尉は、普段あまりしゃべらない人でしたが、無邪気な無垢な、軍人らしい、本当に軍人らしい、純粋な人でした。

 彼の剣道には、私はとてもかないませんでした。彼は体ごと打ってきて、剣と体が一体になって、面をとられたこと、そして一緒に汁粉を喰ったこと、北満の黒河の近くで不時着し、私が極寒の中に救援に行って抱きついて喜ばれたこと等々思い出はつきません。

 彼は永遠に私の心の中に生きています。」

 尚、公式に海軍の神風特別攻撃隊が初めて出撃特攻したのは、昭和19年10月25日の関行男大尉の敷島隊となっている。実は海軍でもその四日前の21日にセブ基地を飛び立った大和隊の久野好孚中尉が特攻を行っている。陸軍では11月7日出撃の山本達夫中尉の富嶽隊が最初だと記録されている。

 この証言による小佐井中尉の特攻攻撃は9月13日の未明であり、海軍よりも一か月も早い。実は、特攻とは物量に劣る現場部隊の已むに已まれぬ戦術として実行され始めていたのである。記録では19年5月27日に高田勝重陸軍少佐が率いる二式複戦4機がビアク島附近の敵駆逐艦群に突入し駆逐艦二隻撃沈、二隻撃破と判定されている。

【ハルピン駐留中の手紙】
 母上様暫く失礼致しました。麦刈りも近いとか、ご多忙の程察します。けれどもご無理だけはなさらないよう。当地も一面のお花畠となりました。スミレ、タンポポ、シャクヤク、鈴蘭、桜草、矢車草・・・。それはそれは美しい緑の原です。一日お見せしたら、全く感心されることでせう。父上様外、ご先祖一同様の墓前に差上げたい程です。満人も悠々と野良仕事に精出して居ります。全く王道楽土、幸福そのものです。大東亜全域に亘って、この満州の如くなるのは何時の日でありましせうか・・・。それは満州事変当時に於いてなされた如く、幾多の人柱の忠義の血を以って築かれなければならないのを思う時、我々も異常な体内の緊張を覚ゆるものであります。

 母上様、差当り不要の荷物を送り返します故、受取りおき下さい。此頃身軽第一とし、身の廻りのもの全部簡単にしようと思い立ったのであります。必要な物は何でも、ご使用になるがよく、又服や軍装品等、これは余分なものですから、親戚又は同村で将校になるものがあったら譲り渡して下さい。(金はとらんやうにして。)布団等も、ぜい沢ですから送り返して、毛布に寝ることに決めました。

 本坊様始め村の方々にくれぐれも宜しくお伝え置き下さい。いつもいつもご無沙汰しているお詫びも兼ねて。内地の生活も相当一杯々々の所と思いますが、勝ち抜く為なれば、外の村や、外の人の模範となるよう家から仕向けて下さい。

 兄上、姉上もご苦労様です。玲子も良縁があったら早くやって下さい。昭寛、清臣も身体を壊さぬよう育って下さい。

 ではお元気でお働き下さい。武士はいつも張ち切れるような元気で、病気一つせずに畏れ多くも、大君陛下の御下に、純一の働きをして居ります故、ご安心下さい。では先ず近況お知らせ旁々お願迄。       敬具

哈爾濱第四十一軍事郵便所気付
満州第四三七部隊西隊  小佐井武士
母上様 膝下

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