「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

救民に決起した思想と行動 大塩平八郎1

2010-02-16 21:20:59 | 【連載】 先哲に学ぶ行動哲学
先哲に学ぶ行動哲学―知行合一を実践した日本人 第九回(『祖国と青年』22年12月号掲載

救民に決起した思想と行動 大塩平八郎1

民政の責任者としての強い道義意識と厳しい学問姿勢

 幕政の中心地・江戸で陽明学を静かに教えた佐藤一斎と同時期、大阪の市井の中で自らを陽明学者と敢然自任して厳しい学道に励み、遂には腐敗する幕政に異議を申し立て決起して亡くなった人物が生れる。大塩中斎即ち大塩平八郎である。後に、大塩の著書『洗心洞箚記』を生涯愛読したのが西郷南洲であり、昭和45年に決起・自決した三島由紀夫も晩年は大塩の行動哲学に共感を示している。

 大塩平八郎は、寛政5年(1793)に大坂天満川崎四軒坊に生れた。7・8歳で両親を相次いで亡くし祖父母の下で育った。12・3歳の頃には四書五経や経史に通じる迄になる。文化3年(1806)祖父の退職に伴い、14歳で東町奉行与力見習として仕官する。翌年、大塩家の家譜を読み、今川家・清和源氏に連なる家系を認識し、更には、大塩家の祖先が小田原の役で敵を倒して家康公から弓を賜った事等を知り、功名の志を抱き、文武に励み、槍術や砲術迄修めた。

だが、奉行所与力の世界は汚濁にまみれていた。大坂では、町方の民政を東西両奉行が交代で担当し、それぞれの下に与力三十騎・同心五十人が配属されていた。与力の仕事は、現代で言えば、警察・庶務・裁判事務など行政・治安・司法権の行使と、民政の実権が託され、二百石(現代では800万円~1000万円)と五百坪の屋敷地が与えられていた。だが、権力が集中すればそこには腐敗が生じる。奉行所の中では賄賂が横行していた。純真な魂を持つ大塩には到底容認出来ない世界であった。留守宅に届けられた「付け届け」を返却し、大塩は「心得違い之無き様」と冨商達に厳重注意したという。又、中々決まらなかった裁判を解決した後大塩は、貴方達は「菓子折り(付け届け)」をお好みだから決断が出来ないのだ、と同僚達に言い放ったという。

潔癖を貫き回りから孤立して行く大塩は、自らの拠って立つ基盤を真剣に模索した。それが学問への強い志となった。当時の儒者の学問といえば訓詁か詩文で、大塩は満足出来ず、独学と思索を深めていった。大塩は当時を振り返り「困苦辛酸、殆ど名状すべからず」と記している。24・5歳の頃、明の呂新吾の著作『呻吟語』を読み、大きく悟る所があり、更に王陽明の著作を播き、道を自己の外に求める「外求の学」から自己の心中の誠意を求めて「良知を致す」学問の実践に邁進して行く。

   洗心洞の学風

 文政8年、33歳の時に大塩は家塾「洗心洞」を開き、「入学盟誓」八条を定めた。学堂の西東には王陽明と呂新吾の言葉を掲示した。「洗心洞」は『易』繋辞上伝の「聖人は此を以て心を洗ひ、密に退蔵す」に由来している。大塩は「洗心洞入学盟誓」の中に、「聖賢の道を学んで以て人たらんと欲せば、則ち師弟の名正さざる可からざるなり。」と記し、「其の名」を壊さない為に「盟を入学の時に結んで以て予め其の不善に流るるの弊を防ぐ。」として八箇条の盟誓を記している。その二つを紹介する。

●忠信を主として聖学の意を失ふべからず。若し俗習に牽制せられて廃学荒業以て奸細淫邪に陥らば、則ち其の家の貧富に応じ、某告ぐる所の経史を購ひ以て出ださしむ。其の経史尽く之を塾生に付す。(後略)(真心を尽す忠と信の実践を中心として聖人を目指す学問の本義を失ってはならない。世間の俗習に惑わされて学問を放棄し淫らな行いに流れたならば、罰として、家の貧富に応じて、私が指定した経書や史書を買って塾に寄贈してもらう。それらは総て塾生に分け与える。)

●学の要は孝弟仁義を躬行するにあるのみ、故に小説及び異端人を眩するの雑書を読むべからず、若し之を犯さば、則ち少長となく鞭朴若干。(後略)(学問の要点は親への孝行、兄弟への悌行、全ての人々に対する仁愛と正義、の実践に在る。それ故、世の低俗なる小説や人を幻惑する様な雑多な書物は読んではいけない。違反した者には鞭打ちの罰を与える。)

極めて厳しい学問姿勢である。大塩は弟子にも厳しかったがそれ以上に自分も厳しい生き方を貫いた。朝2時には起床して、4時には正坐して読書を始め、冬と雖も戸は開け放しで寒風吹きすさぶ中で講学したという。大塩の著書『洗心洞箚記』にもその激しい求道心が随所に伺われる。大塩は「一日を一年」更には百年とみなして、時を惜しんで学問修行に励んだ。座右銘は「慎独」と王陽明の「克山中賊易、克心中賊難」だった。

●火は石より出づ。諸を始めに慎まざれば、則ち延焼して以て屋を燎かん。才は心より出づ。諸を微なるに慎まざれば、則ち詐誕して終に徳を亡はん。(火打ち石から火が延焼する様に、才能におぼれると徳を失う事態に陥ってしまう。全て微かな心の乱れがもたらす。慎まなければならない。)

●強めて善を為す者は猶ほ之れ有り、自然に善を為す者は絶えて無し。而して自然に善を為す者に非ざれば、真交を締び難し。(善行が自然と出る様にならねば本物では無い。)

●常人は天地を視て無窮となし、吾を視て暫しと為す。故に欲を血気の壮なる時に逞しくするを以て務めと為すのみ。而るに聖賢は則ち独り天地を視て無窮と為すのみならず、吾を視るも亦た以て天地と為す。故に身の死するを恨まずして心の死するを恨む。心死せざれば、則ち天地と無窮を争ふ。是の故に一日を以て百年と為し、心は凛乎として深淵に臨むが如く、須臾も放失せざるなり。(凡人は天地は窮まりないが、自分の生命は限られていると考えるので若い時に欲望の赴くままに生きている。然し、聖人や賢人は天地同様に自分も無窮の存在だと確信している。それ故、心が死んでしまう事を最も恐れるのだ。一日を百年とも思って確り本心をつかんで生きねばならない。)

●良知を致すの学、但だ人を欺かざるのみならず、先づ自ら欺くことなかれ、其の工夫は屋漏より来る。戒慎と恐懼と須臾も遺るべからず。(人を欺かず自分も欺いてはならない。その実践は一寸した事で崩れる。一瞬たりとも慎みの心を忘れてはならない。)

   大塩の断固たる「破邪顕正」

 奉行所与力として公務に励む大塩に、その志を得さしめる好機が訪れる。文政3年に大坂東町奉行に高井山城守が着任。大塩を重用した。文政10年から大塩は、後に「三大功績」と称された事件に豪腕を振るった。文政10年4月、京都八坂で占いや加持祈祷などの霊感商法を行う切支丹紛いのカルト集団を摘発処断し、三年かけて沈静させた。

12年には、それ迄誰も手がつけられなかった西町奉行古参与力の弓削新左衛門の悪行を摘発、切腹に追い込み、弓削が溜め込んでいた3千両を没収して窮民に分け与えた。弓削は、配下の者達のゆすりや強盗を容認して私腹を肥やし、幕閣に賄賂を送って身の安泰を計っていた。弓削の処断は東西奉行所の役人共を震え上がらせた。更に弓削事件の調査の中で、肉食妻帯の禁じられていた僧侶の腐敗堕落を摘発、13年春に、破戒僧五十余名を検挙し遠島にした。時代の悪弊を是正せんと志す大塩の断固たる意思が伺われる功績だった。

この間、文政11年(1828)11月29日には王陽明三百年祭を洗心洞にて行い、祭文を起草している。大塩は、与力として身を危険に曝す中で死生観を深め、知行合一を目指した。当に事上磨錬の日日であった。
  
   38歳で学問に専念・『箚記』五つの哲学

 天保元年(1830)高井山城守の東町奉行辞任と共に大塩は与力職を養子格之助に譲って致仕隠居した。38歳の時である。致仕の翌日大塩は次の漢詩を詠んでいる。学問に専念出来る静かな時を初めてつかんだ喜びを、あたかも家を変わったかの様だと詠い、自らを垣根に置かれた秋の白菊の穢れなき純白の姿に同一視している。

●昨夜閑窓夢始めて静かなり  今朝心地僊家に似たり
 誰か知らん、未だ素交の者に乏しからざるを
 秋菊東籬に潔白の花

更に大塩は「此上は草莽の中に蟄し、定言を吐き、其中ニも孝悌の道丈は興し度と決心ニ御座候」と書き送っている。

 天保3年6月、門弟と共に小川村に藤樹書院を訪問。その帰路、琵琶湖にて暴風雨に遭遇し、生死超脱の体験の中で「致良知」実践の境地に確信を得る。天保4年、自らの学問の成果を記した求道の書である『洗心洞箚記』二巻を家塾にて刊行。大塩は『箚記』一本を伊勢朝熊岳山上で焼いて天照大御神に告げんとし、更に富士山頂の石室に蔵して後生の人を待たんとした。前者は、伊勢の足代弘訓が焼くより伊勢の豊宮崎、林崎の両文庫に治める事を推奨した為それに従った。これらの行為に『箚記』の完成にかけた大塩の並々ならぬ意気込みが伺われる。

 『箚記』は上巻180条、下巻138条からなり、大塩の魂が文字に込められている。大塩は『箚記』自述の中で、自らの学説の特長について「太虚」「致良知」「気質を変化す」「死生を一にす」「虚偽を去る」の五点を記している。この中で大塩が最も強調するのは「帰太虚」〔太虚に帰す〕である。大塩は自らの心が太虚に帰した状態を「悟り」と考え、聖人は帰太虚の状態によってのみ実現すると考えた。其の為の実践が他の四項目である。他者も自らをも欺かない「虚偽を去る」生き方を実践する事によって、人の心は真っ正直になって行く。人欲によって自らの本心を眩ましているのが「気質」の偏りである。その「気質を変化」させる事で心は正されて行く。それらの積み重ねの中で「良知」が見出され、良知の実践「致良知」が日常化して行く。その結果正しい生死観が培われ「死の恐怖」は超克されて、「死生を一にす」る事が可能になる。その果てに見出された境地こそ、確固不動の「帰太虚」の自己なのである。大塩は帰太虚の心境に40歳で到達している。言うならば天地と一体となった心境であり、死生を超克した信念の確立である。その上に「殺身成仁」の義挙が生れるのである。
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