「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

中江藤樹⑤「人はいかようにもあれ、吾は何の心もなく、ひたすらに親み和らぎぬれば、」

2020-07-10 17:43:32 | 【連載】道の学問、心の学問
「道の学問・心の学問」第八回(令和2年7月10日)

中江藤樹に学ぶ⑤

人はいかようにもあれ、吾は何の心もなく、ひたすらに親み和らぎぬれば、
                 (『鑑草』巻之六 淑睦報)

 嫌な相手と向き合わざるを得ない時に、私が思い浮かべるのが、『鑑草』の中で藤樹が教え諭しているこの言葉である。藤樹は言う。「万物一体の仁心を明かにし、人はいかようにもあれ、吾は何の心もなく、ひたすらに親しみ和らぎぬれば、人も又岩木ならざれば、感動するところありて、仁愛をもて我を親しむものなり。」と。人と向き合う時、何よりも大切なのは、自分の心の持ち様なのだ。人はどのようにあっても、それとは関係なく、自分は、先入観を抱かず相手に対して「ひたすら親しみ和らぐ」べきなのだ。そうすれば、相手は心の無い岩や木では無いのだから、私が尽すまごころに感応して、心も和らぎ、私に親しむ様になる、その事を藤樹は確信を以て教え諭している。

 だが、藤樹の訓えを実践するのは容易な事では無い。『鑑草』は、藤樹が、嫁ぐ妹の為にその心構えを古今の逸話なども引用して解り易く説いたものである。この言葉は、巻之六(一)「淑睦報(しゅくぼくほう)」の最初で述べている。「淑睦」とは、良く親しむの意味で、夫の兄弟の嫁や夫の姉妹、その他親族に対して仁愛の心を抱く事の大切さを述べている。その「淑睦」の報いが幸せを齎すのである。だが、その事が如何に難しいか、吾々の周りを見渡しても家族親族の不和は世に満ちている。

 藤樹は言う「禍福損益は自分の心が作り出すのである。」と。その理(ことわり)を知らずに、「自分に過ちは無いのに相手がつれなく当たる」と相手を非難するが、それは本心を失い、相手同様の浅ましい心に陥っている事に他ならない。「私が良くしているのに人が悪くする様な世の中は無い。ただ自分の誠が足りないからなのだ」と、自分の心の在り方を反省して、ほんの少しでも人を咎めてはならない。何度も何度も自分が折れて、ただひたすら淑睦に努めて、驕り高ぶる心を鎮め忍耐強くして、利益や欲望の心を薄くするなら、どんな悪人でも感動しない事は無い。その様な人には、天も味方する。

 藤樹は何度も何度も自分が折れるべきで、人を非難してはならないと言う。一見、自分の意見を譲歩している人は弱い人だと思われがちだが、そうでは無いのである。自らの我を張らずに、人を容れる事の出来る宏量の人こそが真の「強者」なのである。

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