不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

毛利元就④「三人之半少にてもかけこへだても候はば、ただただ三人御滅亡と思召され候」

2020-07-14 11:16:37 | 【連載】続『永遠の武士道』
「続『永遠の武士道』」第八回(令和2年7月14日)

三人之半少にてもかけこへだても候はば、ただただ三人御滅亡と思召され候
         (「毛利元就遺誡」・弘治三年霜月廿五日)

 毛利元就と言えば、子供達に示した「三本の矢」の教えが有名である。『定本 名将言行録』には、臨終に際して元就が、毛利、吉川、小早川の「三家鼎足の如く親しむべし」と述べた後、矢を取り寄せて、此の矢一本は最も折り易いが、一つに束ねたなら折る事は出来ない。此の事を良く考えて「一心すべし。」と訓え諭した事が紹介されている。

 文献としては、毛利元就が還暦を迎えた弘治三年(1557)十一月に嫡男・毛利隆元、次男・吉川元春、三男・小早川隆景に、口述した話を書き与えた「遺誡」が残されている(『武家家訓・遺訓集成』)。その中で元就は、「毛利」と言う名字が末代まで廃らない為の心がけを述べた。元春や隆景には「他名之家」を継がせたが、それは当座の事に外ならず、毛利の二字を決しておろそかにしてはならない。三人の内、少しでも欠けたり隔てが起こったりしたならば、三人が共倒れすると考えなければならない。本家である毛利が弱くなれば、人々の心は変わってしまう。それ故、元春や隆景と意見が違う事が起きても毛利の当主である隆元は親の様な気持ちを以て堪忍せねばならないし、元春や隆景は当主の隆元の考えが違うと思えても、最終的には隆元の考えに従わねばならない。三人が心一つに生きる事を強調した。

 元就は、元服前に両親と死別、兄も主家の大内氏に随伴して京都に滞在し、元就十九歳の時には亡くなるという、孤立無援の境遇で育っている。それ故に、頼もしい三人の息子達の一致協力を強く願ったのである。

 元就は、元春と隆景が幼い頃、二人がそれぞれ四人づつ率いて雪合戦をする様子を密かに物陰から見て、二人の気質を掴み、その将来の配置を考えた。元春は強引に攻めて初戦に勝利を得た、隆景は相手のやり方を見て策を講じ、二回戦を勝利に導いていた。それを見て元就は、北国は人の気が一本で剛強のみを中心として策は少ない、南国は人や船の往来が繁多なので巧みな計策を好む傾向がある、そこで、北国を元春、南国を隆景に任せたならば上手く行くであろうと考えた。後に、山陰地方を吉川元春、瀬戸内や山陽地方を小早川隆景に攻略・経営させて、毛利本家を支えさせたのである。

毛利隆元は若くして亡くなり嫡男輝元が本家を継ぐが、両叔父の元春・隆景に支えられ、毛利家は関ケ原での敗戦も乗り越えて江戸時代を存続し、遂に幕末維新の大業を成し遂げた。元就の眼力と、一致協力して本家を守り抜いたその家風に、深い感動を覚える。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 中江藤樹⑤「人はいかようにも... | トップ | 中江藤樹⑥「我心わたの如くや... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

【連載】続『永遠の武士道』」カテゴリの最新記事