「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

「良知」の言葉 第17回「それ良知は、すなはちいはゆる是非の心、人皆なこれあり、学ぶを待たずして有り、慮るを待たずして得る者なり。人孰かこの良知なからんや。独だこれを致すこと能はざるあるのみ。

2023-08-08 13:50:08 | 「良知」の言葉
第17回(令和5年8月8日)
「それ良知は、すなはちいはゆる是非の心、人皆なこれあり、学ぶを待たずして有り、慮るを待たずして得る者なり。人孰(たれ)かこの良知なからんや。独(た)だこれを致すこと能はざるあるのみ。」 (『王陽明全集』第2巻「文録」五 雑著「朱守乾の巻に書す」)

 王陽明は48歳の時、江西省南昌に拠って叛乱を起した王族の寧王宸濠をわずか二週間で平定した手際の見事さが朝廷に嫉妬を生み、更には王陽明の学問の隆盛は旧来の学者達の総攻撃を生んだ。その様な誹謗中傷渦巻く、逆境の中にあって、陽明哲学の真髄ともいうべき「致良知(ちりょうち)」説は誕生した。

「良知」について陽明は言う。

「良知というのは、物事の是非を弁別出来る自己本来の心で、全ての人が持っている。それは、学ぶ以前から備わっており、思いめぐらさなくても元々身についているものなのだ。人間であれば全ての人が良知を持っている。しかし、普通の人は、この良知を致す事、良知に基づいて生きる事が出来ないでいるだけなのである。」

 「良知」は『孟子』尽心章句上に出て来る言葉で、「慮(おもんばか)らずして知覚する、人間本来の『知』」という意味である。王陽明はこの言葉に着眼して、良知を「致す」事、即ち良知の発する叫びのままに生き行動することが「聖人」に至る道であると、これ迄求め続けて来た自らの学問の究極の姿を「致良知」の三語で表現した。「致良知」心学の誕生である。爾来、王陽明は「良知を致す」修行の在り方について弟子達に懇切に示して行く。

 自分の中に内在する「良知」を信じるか否か、その事は自己に対する絶大な自信を持てるか否かに繋がって来る。人間は過つ事も多い、しかし、それに気付く事も出来る、そしてそれを正す事が勿論出来る。「七転び八起き」という言葉があるが、幾度転んでも起ち上がるのが人間なのである。起ち上がる勇気が湧き立って来るのが人間なのだ。何故、その勇気が生まれて来るのか。それは自分を信じているからである。

 王陽明は言う。全ての人に「良知」が備わっている、それぞれが本来は完璧な存在にも拘らず、それをそのまま実行に移す事が出来ないで居るのだ、と。何故か、それは「良知」を心の底から信じる迄に至っていない事と、私欲に蔽われて良知が曇り、実行に繋がらないからである。

 先ず、自分には良知が備わっていると信じよう。信じる事が強ければ、必ずそれを「致す」道を得る事が出来る。次回から、暫く「致良知」についての王陽明の言葉を紹介する中で、「致良知」の生き方を考えて行きたい

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