「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

「良知の言葉」第16回「聖人の心は明鏡のごとし。只だこれ一箇明らかなれば、すなはち感に随ひて応じ、物として照らさざるはなし。」 

2023-08-05 10:55:01 | 「良知」の言葉
第16回(令和5年8月5日)
「聖人の心は明鏡のごとし。只だこれ一箇明らかなれば、すなはち感に随ひて応じ、物として照らさざるはなし。」 (『伝習録』上巻21)

 王陽明は、理想とする心の状態を「明鏡」に譬えて、その「心鏡」に曇りが生じない様に、日々磨き続ける事を説いている。

 これは、弟子の陸澄が「聖人はどんな事にも自由自在に対応できるのは、予め様々な出来事に対して考察をしているからでは無いのでしょうか。」と質問した事に対して、王陽明が述べた言葉である。王陽明は「どうしてそんなに多くの事を予め考察する事など出来ようか。聖人の心は明るく輝く鏡の様なものである。鏡に曇りが無く澄みきっているならば、対象をあるがままに感応して、その全てを映し出さない事は無い。(中略)ただ心の鏡が明らかでない事だけを恐れ、遭遇する物事に正しく対応できるか否かなどを恐れる必要は無い。物事に的確に対応できるのは、鏡が対象物をありのままに映す事が出来ている時にのみ可能なのである。それ故、学びの道を求める者は、先ずはこの「明」の工夫をすべきである。自分の心がただ明らかでない事のみを憂えて、物事に対応出来なのではないかなどと予め思い悩む必要は無い。」と諭している。

 この事を、弟子の徐曰仁(徐愛)が同じ『伝習録』上巻の63で的確に述べている。「心は猶ほ鏡のごときなり。聖人の心は明鏡のごとく、常人の心は昏鏡(曇った鏡)のごとし。」「先生の格物(実践の功夫)は、鏡を磨いてこれをして明らかならしむるがごとく、磨上に功を用ふ(心を磨く事に力を注ぐ)。明かにして後、亦た未だ嘗て照らすことを廃めず(全ての物事を照らし出す事が出来る)。」
 
 私は、20歳で陽明学に出会う以前は、対人関係が苦手だった。人と対面して何を語ろうかと、予め思い悩み、出来れば人と会うのを避けて一人で居たいと思って居た。これから起こる事を思い悩むな、今、自分の心を澄み切った心境へと磨いているならば、何事に直面しても即座に対応出来るのである、王陽明のこの言葉は、私に限りない勇気を与えてくれた。それ以降、全てに於てしり込みする事が無くなった。

 それでは、日々自分の心を磨く為にはどのようにすれば良いのか。心を養い、心を磨くものは「良き言葉」である。私はかつて30代の頃に『新輯 明治天皇御製』上下巻に収められている8963首の御製を毎朝の神拝時に10首づつ数年かけて拝誦し終えた事があるが、明治天皇の広大で澄み切った大御心に毎朝毎朝触れる事で、自分の心が澄んで行く実感を得た。今でも神拝時には『明治の聖代』の中の明治天皇御製の拝誦は欠かせない日課となっている。言葉の乱れは心の乱れである。良き言葉に数多く接し、自らも良き言葉のみを発し続ける事が心を養う事になる。

 自分の心の鏡を日々磨き続ける事、それが人生修行なのである。人格は目に見えない「磨き」によって日々彫像されているのである。

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