「トルコのもう一つの顔」小島剛一
13年ぶりの再読。
Pⅱ
回教徒の友人にある日「キリスト教徒でない者がナザレのイエスのことを『キリスト(救世主)』と呼ぶのは不謹慎だ」と責められて一言もなかった。ナザレのイエスは回教徒とユダヤ教徒にとっては「予言者」であって「救世主」ではない。
P35
トルコ政府代表は「クルド民族というものは存在しない」という答弁を続けている。(中略)トルコ政府の言明とは裏腹に、トルコ国民の実に3分の1がクルド人なのである。
P135
お寺や教会の鐘の音を聞いて「美しい」と言う人も「喧しい」と言う人もあり、さらには「恐ろしい」と言う人もある。では、トルコ人は山を見て「美しい」と思うことがほとんどないようである。
P144-152
「クルド人の民族主義者が皆マルクス・レーニン主義だなどということはない。ムシュ県はいつの選挙でもイスラーム原理主義政党が勝つのは知っているね。クルド人はシャーフィイー派が多くて、『宗教は阿片なり』の一言を聞くだけで無条件に反共なんだ。ところがマルクス・レーニン主義者かつ信心深い回教徒という人も結構あるし、左翼だけど反ソというのがまた随分多い。モスクワの政府がソ連の少数民族の民主主義を非難するのはロシアの民族主義の発露にほかならないことを見抜いているからだ」
【ネット上の紹介】
言語学者である著者はトルコ共和国を1970年に訪れて以来、その地の人々と諸言語の魅力にとりつかれ、十数年にわたり一年の半分をトルコでの野外調査に費す日日が続いた。調査中に見舞われた災難に、進んで救いの手をさしのべ、言葉や歌を教えてくれた村人たち。辺境にあって歳月を越えてひそやかに生き続ける「言葉」とその守り手への愛をこめて綴る、とかく情報不足になりがちなトルコという国での得がたい体験の記録である。