快気分析

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仕組みとアプローチ -   本能寺の変 事象分析をするとやはり秀吉は怪しい

2019-03-13 12:46:10 | 明智光秀
 本能寺の変のすぐ後で「中国おお返し」を決行し山崎の戦いで明智光秀に勝利した秀吉ですが、これまでの記事で書いた事象などを再度見直すと次の通りとなります。

 まず仮に秀吉が信長の死を知らなかったたとしたら信長に無断で勝手に和睦する事など厳罰に値するわけで、そのようなハイリスクな事を秀吉が行うはずは有りません。
 従って秀吉が毛利氏と密約の上で戦の仮中断をした後で正式に和睦した事になる。つまり毛利氏と共謀関係にあった事になります。
 次に仮に和睦が密約でなかったとした場合、秀吉が信長の死を知っていたから、と言う事になってしまいます。(信長も信忠も落命していたので秀吉に毛利氏との和睦を指示した事は有り得ない。)
 だとしたら襲撃部隊はかなり秀吉の側の人間が深くかかわっていた為、信長も信忠も落命した事が確実にわかったという事になります。
 そして信長が死んで更に首はもう出て来ない事がわかっていたからこそ、中国おお返しで「信長様は生きておられる」と偽情報を流布出来た事になります。
 この点からもやはり信長を襲撃した部隊はかなり秀吉の側の人間が深くかかわっていたと思わざるを得ません。
 簡単にまとめると秀吉は信長、信忠が落命してたのかどうかわからなかったのなら、毛利氏との密約で信長が生きていれば和睦は無かった事にするてはずであったわけで既に癒着、共謀関係に有った事になるし、反対に秀吉が信長、信忠の落命を確実に知っていたのだとしたら、本能寺の変の襲撃部隊と深く関わっていた事になります。

 事象分析すると自然とこうなりますが、では秀吉に暗に連携して信長、信忠を討った部隊に潜入していたのは誰の兵か?
 個人的な見方に過ぎませんし襲撃部隊は単一の黒幕ではなく多くの反信長勢力がかかわっていたとは思われますが、少なくともその一部にはやはり秀吉との内誓紙が残る中川清秀とその親族の高山右近あたりが該当する事が浮かんで来ます。
 実際に中川清秀の居た茨木城は京都にかなり近かった事、当時は明智光秀の与力であった為、明智軍に偽装する事も有る程度可能で有った事が挙げられます。
 真相はどうだったのでしょうか。
 この中川清秀は賤ヶ岳の戦いで危険な所に位置取りさせられ、佐久間盛政の猛攻に遭って戦死したのでした。
 秀吉が本能寺の変のキーマンである中川清秀を危険な配置につけて口封じに戦死させたのではないか?と言う疑いも出て来ます。
 桶狭間の戦いで戦場となったエリアの領主は水野信元でしたが、やがて信長の命令で家康の家臣により暗殺されました。
 桶狭間の戦いの真相を知るキーマン、水野信元が口封じに消されたのだとしたら中川清秀と似たパターンとなりますが、真相はどうだったのでしょう。


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