快気分析

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自然災害 仕組みとアプローチ -  家康と自然災害 その2

2016-09-09 18:42:56 | 地震 津波
 小牧・長久手の戦いの後、秀吉は家康を初めとする三河勢力とそれと連携を始めた北条勢力をもう一度討伐しようとするわけですが、この時に天正地震が発生します。

引用開始(一部抜粋)

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E9%9C%87%E3%81%AE%E5%B9%B4%E8%A1%A8_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
1585年7月31日(天正13年7月5日) 大阪・京都・伊勢で大震。
1586年1月18日(天正13年11月29日) 天正地震(東海東山道地震、飛騨・美濃・近江地震) - M 7.8〜8.1(それ以上の可能性あり、あるいはM 8クラスの地震が3つ以上同じ日に立て続けに発生した可能性あり

飛騨・越中などで山崩れ多発、白川郷で民家数百軒が埋まる。内ヶ島氏、帰雲城もろとも滅亡。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E5%9C%B0%E9%9C%87
天正地震
被害
飛騨国 - 帰雲城は帰雲山の山崩れによって埋没[22]、城主内ヶ島氏理とその一族は全員行方不明となり、同時に内ヶ島氏は滅亡した。[23]また、周辺の集落数百戸も同時に埋没の被害に遭い、多くの犠牲者を出すこととなった。白川郷では300戸が倒壊するか飲み込まれた[24]。「顕如上人貝塚御座所日記」に、「十一月二十九日夜4ツ半時、大地震あり」との記述がある。焼岳付近で地震による(?)山崩れ。家屋300余埋没[25]。
美濃国 - 大垣城が全壊焼失した[1]。
越中国 - 木舟城(現在の高岡市の南西)が地震で倒壊、城主の前田秀継夫妻など多数が死亡した。前田秀継は前田利春の子で前田利家の弟である。
尾張国 - 昭和63年(1988年)度に実施された五条川河川改修に伴う清洲城下の発掘調査で、天正大地震による可能性の高い液状化の痕跡が発見されている。天正14年(1586年)に織田信雄によって行われた清洲城の大改修は、この地震が契機だった可能性が高いと考察された[26]。また蟹江城が壊滅した。
伊勢国 - 織田信雄の居城であった長島城は天守が倒壊するなど甚大な被害を受けた。そのため信雄は居城を清州城に移した。
京都 - 東寺の講堂、灌頂院が破損、三十三間堂では仏像600体が倒れた[27]。
郡上八幡 - 奥明方(現郡上市明宝)の水沢上の金山、また集落(当時60-70軒)が一瞬で崩壊し、辺り一面の大池となったといわれる。
琵琶湖 - 下坂浜千軒遺跡(しもさかはませんけんいせき)となる現長浜市の集落が液状化現象により、水没した[28]。秀吉の築いた近江長浜城を山内一豊(妻は見性院)が居城としていたが全壊し、一人娘与祢(よね)姫(数え年6歳)と乳母が圧死した(『一豊公記』)。また家老の乾和信夫妻も死亡した[29]。
若狭湾・伊勢湾での大きな津波被害もあった(後述)。

引用終了

 豊臣方の武将とその親族が地震で犠牲となったのが明記されていると言う事はその配下の武将の損害がどうなのかは大体わかります。
 注意すべきは、「これらの情報が公開されたものに過ぎない」と言う点です。
 実際はこれだけでなく、多くの損傷が特に戦闘を仕切る部下や軍事施設で発生したものと思われます。
 当時はこれら軍事施設の損傷が軍事機密なので公にはされなかったのではないでしょうか。
 筆者の推定する軍事施設の損傷ですが、例えば、
 堀の土手が崩れて堀が防御インフラとして機能しなくなった。
 水軍、特に日本海側の水軍港湾施設が損傷を受け、また軍船なども損傷を受けた。
 城の全壊も公知文献にある通りですが、城の外壁が亀裂損傷でかなりダメージを受け、これが見た目で城攻めをする敵方を士気高揚させてしまうと言マイナス効果を生んだ。
 その他諸々です。
 
 



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