霊界の門 ・見えないものの力

霊界や因縁から、現在の自分をみつめ、「見えないものの力」を味方にしましょう。

「心霊写真」(養老渓谷・日高邸跡)

2012年12月12日 | 心霊現象
ここに一枚の写真がある。
「碑」にはっきりと浮き出る、「ある人物」をその写真に見ることが出来る。
この世の方ではない。今から150年くらい前に、他界した人物である。
だから「これ」は、まぎれもない「心霊写真」である。
そこには霊能者K氏と私、それに日高邸ゆかりの人物がもう一人、この三人はこの世の人間である。
そこに「日高 誠実(のぶざね)」その人が一緒に写っている、というわけである。
顔だけを写した「その顔」と、日高邸跡と記された立て看板の「その顔」が同じである事から、「ご本人」であると理解した次第だ。

この方が何者だったのかは、詳しくは検索されたし。
ただ、簡単にご説明しておきますと。

天保7年2月29日生まれ。(日向の生まれ、今の宮崎県)
江戸で古賀謹一郎に学ぶ。明治元年、藩校「明倫堂」教授となる。
幕末、明治時代の漢学者。
明治維新後、陸軍省に入る。伊藤博文との親交深く、そのあと押しもあったと聞く。
明治19年、50歳になって陸軍省を辞し、官有地229町歩を無償で借り受け、理想郷・梅ヶ瀬を建設すべくこの地(当時の地名で市原郡白鳥村西沢)に居を移した。
そして近隣の村人たちの協力をえて、この山奥で私塾を開く。


当時は理想郷であり「私塾」の塾長であったかもしれないが、今そこを訪ねても「渓谷」そのものの
たたずまいのみで、過去を偲ぶ「よすが」さえも見当らない。
清流と、渓谷を渡る風の音のみである。
「明治の偉人」とうたわれた人物の最期の住処としては、あまりにも隠遁の風情が漂うのは、なぜか
・・・。

実は、K氏と私がそこまで行くには理由があった。
写真に写る「もう一人」(彼女)のたっての頼みがあればこそであった。
その御仁こそ日高邸の塾長、「日高誠実」を守護霊にもつ人物の奥さんであり、彼女の守護霊が
小笠原家の姫という「あの人」であった。(「霊界の人脈」に書きました)
彼女は、その跡地へは数回足を運んでいた。しかし、「墓」がみつからないという。
「それ」を捜しに出かけた訳である。
現在の千葉県市原市、その渓谷「養老渓谷」といわれている場所である。
秋になれば「紅葉狩り」で、ガイドつきのツアーが組まれると聞くが、平素は人も通わぬ?秘地で
あった。
道を間違いながらも、なんとか「日高邸跡」まではたどり着く。が、「墓」は無い。
行き止まりからまた後戻りを繰り返しても、無いものはない。
日を改めて再度の挑戦である。結局三度目の正直で、墓を見つけた。
それも地元の「物知り」から聞き出さなければ、とうていたどり着くことは不可能だっただろう。
「そこ」は、それほどの「処」であった。
それは、ありありと「発見されないように」という意図があった。
山肌に道はない。そこを分け入って登って行く。「道」を隠すとは、このことだ。
「日高誠実」がなぜ、人が来るのを意識的に嫌い、あるいは避けたのか・・・。
そして日高邸跡の碑の表面に、顔だけを出して何を言いたかったのか・・・。
つまり、心霊写真という現象を起こしてまで、言いたかったことは何か?
して欲しかった事とは、何か・・・。

小高い丘が平らに削られて、10個あまりの墓石があった。
私と彼女は、難関突破の疲れと安堵でくたくたに疲れ、風を体いっぱいに吸って休んでいた。
K氏は一つ一つの墓を霊視しながら、誰の墓かを割り出していた。
一つはもちろん「誠実」の墓。あとは奥さんや息子たち、身内の墓らしい。
が、一つ「なぜ」か解せない墓があった。
誰だこれ。なぜだ・・・?。
「誠実」の個人的プライバシーにかかわる事情らしい。血縁でない「女人」の墓、といえば、
ことは面倒になる?


養老渓谷の駅前に、茶屋、食堂兼お土産屋がある。
腹ごしらえをしながら、中年の「おかみ」に聞いてみる。
「日高氏」は、なんでこんな辺鄙な場所を選んだんですかねぇ~。
「うちの爺様なら、そこんとこの事情をよく知っているとは思うんだけど・・・」
(今、いっらっしゃるか?)
「いえ、もうとっくに亡くなってますけど。ただね、わたしが小さい時聞いた事によればね、何か
女性問題で、逃げるようにここへこられたとか」
陸軍省を辞すにはそれなりの理由があり、さすがの伊藤博文も、かばいきれなくなった「ある理由」があったらしい・・・、とK氏は読み取る。
だから、秘地であり、墓を人知れず道なき道で隠したのか・・・。

後日「彼女」は夫にその話をし、守護霊「日高誠実」の言葉を聞こうと促した。
大学教授や、文学者などを世に輩出した「名門、日高」を誇りにし、「偉い人」を信じてやまない
ご主人は、自分なりに調べた結果をもって大満足である。
市原市の市で出している新聞の、それも名所旧跡案内のコーナーに出ていた「日高邸跡」の内容は、
彼を充分に満足させるものであった。
いまさら「うしろの人」の不祥事など、ほじくり出して何とする。

しかし、彼女も真理を求めた一人であれば、ようやく本人を説得して守護霊降霊にまでこぎつけた。
が、ご主人は「心霊写真」を見ても、ガンとして認めようとはしなかった。
これほどはっきりと出ている「映像」を、「見えない」と言うのだ。
誰も写っていない、と。



今私は、「その写真」を脇に置きながらこのブログを書いています。
私の目には、今もはっきりと「誠実」の顔が見える。消えてはいない。
今までの間、十年は経つだろうが、その間でさえ消えてはいない。
見えていないのか、それとも見たくないのか、結局守護霊降霊も一回で終わった。
都合の悪いことは聞きたくない、という人情も分かる。
守護霊の生き様をほじくることも、はばかられるというのも、分かる。
が、科学ではまだ解明されていない、摩訶不思議な現象、「心霊写真」という形をもってしても、
地上に訴え、あるいは教えたいと願った「日高誠実」の言葉を、この世にひき出してあげたかった
と、思い出しては残気の念に堪えないでいる。


今年もまた、紅葉狩りで人が集まったであろう養老渓谷界隈に、こんな人がこんな事情と心情を抱えて、長い時間と向き合っていた事を、ついお知らせしたくて、忘れないうちに書いた次第です。


(そうそう、間違いを一つ訂正させてください。
 昨日の文で、「イエスが一括した」という「いっかつ」は、「一喝」が正しいです)