霊界の門 ・見えないものの力

霊界や因縁から、現在の自分をみつめ、「見えないものの力」を味方にしましょう。

ここだけの話(ある殺人事件)

2011年10月30日 | 心霊現象
この「殺人事件」は、今から十何年前くらいになるだろうか。
東京、池袋西口界隈でおきた事件だ。
パチンコの両替店を経営している女主人が、殺害された事件だ。
まだ覚えている方、もおありだろう。
体を16ヶ所、刃物(牛刃のような物)で滅多刺しだったそうだ。

当時の捜査では、日曜日の早朝という事もあり、目撃者もなく
犯人像はかいもく検討のつかないものだった。

当時私は、とある事務所の電話番のアルバイトをしていた。
そこへ女主人は、よく出入りをしていた。
女だてらに大きな金額を動かし、まわりからは、ねたまれていた
ようだ。
しかしそんな事よりも、女としては特別の器量を持っていたようだ。
男勝りであり、相手が誰でもけんかごしで、強気だった。
たとえ相手が「やくざ」でも。そしてそのお兄さんがたでさえ一目おいたという。
池袋界隈では「池袋の女帝」と異名をとっていたという。

ここまでくれば、きっと思い出される方もおありかと思う。
捜査は難航した。
2~3日したある日、私のいる事務所へ刑事が二人でみえた。
事務所に出入りしていた事の、聞き込みだそうである。
何でもいいから、話してくれと、いろいろな角度から聞かれた。
いつからの付き合いか、いくらの金額のやり取りか、そして
滞ったことはないか、友人や愛人を知っているかなどなど・・・
わたしはよくは知らない。社長が答えていた。刑事の仕事は
TVや映画と同じだ。しかしあれほど格好はよくはない。
刑事が言うには、不思議な事に、金品は何もとられていないそうだ。
そのとき、両替の事務所の金庫には、現金で1600万円あった。
そして、女主人のさいふもそっくり現金は残っていたという。
捜査の進展がないまま、時が過ぎていった。


数日して私はK氏に聞いてみた。
「もう彼女は、あの世にいっているが、話、聞き出せますかね。」と。
「まあなんとか出来ると思うけど。
 しかしね、彼女は今は霊界のとばっくちにいるから、どの
 程度の話が出来るかは、わからないよ。」との事だった。
でも、是非に試してほしいとK氏に頼み込んだ結果、その内容は
こうだ。


『その男とは、明け方まで話をしていました。
 近い将来、その人と新しく会社(事業)をおこす気でいました
 から。具体的な話をしていました。
 彼を心から愛し、信頼もしていたから。
 彼は若い、自分より若い人です。
 私は、その人によって殺された事は、知っています。
 しかし、今ここではその名は言えない。教えたくない。
 今も愛しているから・・』

「捕まってほしくないのか」

『言えない』
K氏は、霊界で今はそうでも、必ずあなたの心は
大きく変わるから、名前を言って、あなたは次のステップ
に行きなさい。
彼は捕まって、罪を償うべきだ、と説得したという。 

彼女は最後まで、うんと言わなかった。
かたくなに閉じた心の前では、らちもあかず、K氏は
対話を打ち切った。

「今の彼女は、愛や情の方が強く出ていて、ものの道理が
 わかっていない。
 いずれ、必ず心が苦しくなり、見えてくるものが見えてくれば、
 <殺された>意味を深く知るだろう。
 今は時ではないようだ。」

私は後日、刑事さんに「このような事を信じますか?」と
聞いてみた。
「あの世からの話を信じますか?」
「はい。僕は聞きますよ。」

そして、警察へ出向いて案内された一室(取調室?)で、対話の
すべてを話した。


アメリカの犯罪捜査によく登場する、霊能者(透視者?)
【マクモニーグル】という人物を、あなたは知っているだろうか。
かれは、「リモートヴューイング」という透視術にたけ、
FBIの捜査に協力し、多大な功績を残している。

時々来日し、4チャンネルでTV出演をしていた事を思いだす。
日本の犯罪捜査には、(おおっぴらには) 霊能者が参加している
という話は聞かない。

その後、この事件の犯人が捕まったかどうかは、私は知らない。

ブログ立ち上げ一週間後の感謝 2

2011年10月30日 | 心霊現象
本当に生きるという事をしないまま、行ってしまった
死後の世界が、どれほど闇で恐怖であるかは想像できる
でしょう。

守護霊達がいま一つ、気にする事は「血統」ということでした。
つまり、血脈です。脈々と流れ、繋ぎ続けてきた血族、そして
血統への「こだわり」と「愛着」、そして「宿命」。
一人の人生が、良きにつけ、悪しきにつけ血という宿命の中で
あらがうことも出来ず、流されていった歴史の事実を知る時、
運命をはるかにこえた宿命、つまり血脈の重さを思い知らされ
るのです。

記録された数々の実例は、その血統が、時代をこえ、国をこえ、
人をこえて今、その秘した事を語り、霊界にあるという天法の
前に、今度こそ正しく蘇(よみがえ)ろうとしている様子を
まざまざと見せつけてくれる事でしょう。

「因縁」。この古めかしい言葉は、無視しょうとしても無視
出来るものではありません。
忘れようとしても、忘れられるものでもありません。
自分が今、ここにいるという「この存在」こそが、目に見えない
遠い昔の、さらに昔のはるかな血のつながりの原点からの
結実なのです。

私たちはすでに、生きる意味を持って生かされているのです。
運命は元来、自分の努力や思いで、変えられるものではありますが、
この血脈からくる宿命だけは、いかんともしがたいものであり、
変えることは出来ません。
なぜなら、自分で親や先祖、つまり血統を選んで生まれてきた
わけではないからです。
親も先祖も変えることは、絶対にできないのです。
なぜ?・・・
それを解くカギが、霊人達の語る一つ一つの内容にあるのです。

そしてこの霊人達、とりわけ守護霊達の語った言葉をやはり
三十年近く封じ込めてきました。私は封印したのです。

そんな私が、今ここで皆様方にご紹介する(封印を解く)という事
は、なぜだとお思いですか?
私は皆様と共に知り、学び、あの世への準備をそれも正しく備えたいと
思うからです。
つまり「生きる」という本当の意味を探し求めたいからなのです。
この内容の数々が、明日から生きていく皆様方の糧となれば
幸いに思います。

ようやく長き間の封印から解き放たれた霊人達の思いのたけが、
皆様のお心に届けばこの上ない感謝でございます。
先に行って待つ者と、後から行く者とが常に一つになってこの
「大仕事」を成し遂げる日が近からんことを心から期待して
います。


どんな事が起こっても、
どんなめにあっても、
何を言われても、
何を失っても





>あきらめないで!strong>
死んではなりません!strong>


あの世と、私からのメッセージです。


ブログ立ち上げ一週間・感謝のごあいさつ

2011年10月30日 | 心霊現象
みなさま
本日もようこそ。
いつも読んでいただいて、感謝しています。

10月29日からブログの名前を少し追加
しましたが、お気づきだったでしょうか。

「霊界の門」から「霊界の門・見えないものの力」となっています。
K氏からの助言がありました。
「絶対その方がいい。あなたにはわからないだろうけど」と。

どうぞ、今後ともよろしくお願いいたします。



さて、お詫びをしなければなりません。
今でも誤字や、意味不明な日本語がでてくると
おもいますが、それこそ全く私のいたらなさであり、
時代的な言葉づかいにうとい無知からくるものであり、
はずかしい次第ですが、どうぞお許しください。


さてさて、区切りのいいところで、少しの間
「私」は何者なのか・・・
なんでこんなの書いてるのかを、聞いてください。
正体不明なのも、なかなか面白くていいかもしれませんがね。



私は霊能者ではありません。
記録者です。
一人の霊能者を通して語られた「守護霊」の言葉を
綴ってきた者です。三十年近くにわたり、書きとめた
言葉の数々は、「人」に何かを教えようと必死でした。
二十代の若さで死を体験した私にとって、とりわけ
その言葉の一つ一つは驚きでした。
将来行くべき「死後の世界」で、何がおこっているのか、
また、何を準備すべきなのかを、はっきりと教え、諭すものでした。

世間のブームとなった「スピリチュアル」の広がりのなかで、
守護霊達の語るこの言葉は、ある意味で「異質」なものであります。
つまり、気楽に相対するわけにはいかないのです。

でも私があの時体験した「死の恐怖」は、まさしく「知るべきだった
事」を知らなかったことからくる恐怖であり、「やるべきだった事」
をやらなかったことからくる恐怖でした。「人として」という事です。

「死」の瞬間から今日まで、求め続けた私に霊界人達が教えてくれた
事は、あの世に現然として「ある」という二つの事でした。

一つは「天法」です。
人として絶対にはずせない天法、それも神の法則があるというのです。
そして、人はそれにのっとって生きなければならないというのです。

そして次は、「輪廻転生」についてです。
「無い」というのです。
輪廻転生はないのです。
肉体をもった一回きりの人生であるという事です。
人は何度も何度も生まれかわり、地上に肉体を持ち続けることは
ないのです。

「死」とは何でしょうか。
「死」は、「生きる」という則(のり)にそった時を経れば
来るべき幸福と喜びの「待ちに待った時」の到来でも
あるのです。
この世に生をうけて、肉体をもってやるべき事をやり終わ
ったら、喜んでゆく次なる世界、つまり永遠なる霊界に
住むようになっていたのです。

「いかに生きるべきか」は、「いかに死ぬべきか」につながり、
「いかに死ぬか」は、また「いかに生きるか」にかかっています。
ただそれが何であり、どうしたらいいのかを、知らなかっただけです。