Takahiko Shirai Blog

記録「白井喬彦」

メーデーに思う

2005-05-01 13:20:02 | 国内
2005年5月1日になった。今日はメーデーであるが、日曜日でもある。若い人々は、今日一日、どのような過し方をするのだろうか。

私たちが若かった頃は労働組合の力が強く、組合員にはメーデー参加が義務付けられていたものだ。メーデーには春闘が絡むことが多かった。メーデーがどんな盛り上りになるかはベースアップの金額と結びついていた。組合員たちは一斉休暇を取ってメーデーに参加し、職場には管理職だけが残っていた。

更に遡れば、1952年には皇居前広場で「血のメーデー事件」があった。初めのメーデー会場であった神宮外苑から繰り出したデモ隊が皇居前広場を目指し、これを阻止しようとした警官隊が拳銃や催涙弾などを使ったので、デモ側に2人の死者と大勢の負傷者が出た大事件となった。確か、警官がデモ隊に拳銃を向けて狙撃している報道写真が残されていたと記憶している。

そのとき、デモ隊が掲げていたプラカードには「講和条約反対」というのが多かったという。その頃のメーデーは政治集会の色彩が濃厚だった。デモはいつも革命気分だったのだ。例えば、その後の「日米安全保障条約破棄」を目指した安保闘争(1960)などは、例年のメーデーの拡大版だったといえるだろう。1965年以降の「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)などの活動となると、例年のメーデーの形とは少々違ってきていたかもしれない。

私には1955年のメーデーのデモ行進に初めて加わった経験があり、そのときのことが忘れられない。私は大学に入学したばかりだったが、その3年前の「血のメーデー」はこんな雰囲気だったのかと思いながら、横の人と手を繋いで横列を作って歩いた。「ジクザク行進は違法だ」と大声で注意する者がいてコントロールも効いていたためか、整然とした行進だったと記憶している。大勢の私服警官が私たちを取り巻き、写真を撮り続けていたのが印象的だった。

今回、上海などの反日デモに参加した若者たちはどんな気持だったのだろう? テレビ映像で見る限り、みな一様に屈託ない平和そうな表情だった。ペットボトルを領事館に投げ込む姿も、まるでスポーツでもやっているような感じだった。現在の中国の若者たちには、反日デモもスポーツイベントなどとそう違わないのではないか。反日活動に身を張っているような突き詰めたところは微塵も感じられない。

改めて史料を当ってみると、「対日平和条約("Treaty of Peace with Japan")」は、1951年9月8日、サンフランシスコ市内のオペラハウスで調印され、翌年の1952年4月28日に発効したと記されている。つまり、「血のメーデー」とは、講和条約(対日平和条約)が発効して我国がようやく被占領状態から脱した直後(条約発効4日目)、初めておこなわれたメーデーであり、最初の騒擾事件だったわけだ。警官隊にしても、占領軍の指示を受けずに独自行動をとった最初のケースだったのである。

当時のデモ側と警察側の双方には、戦後日本を律していくべき原点を我々がここに規すのだといった、張り詰めた思いがあったのではなかろうか。どちらにも、それぞれに身を張っているようなところが感じられるのである。

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