プロレスラーの上田馬之助さん死去 (デイリースポーツ) - Yahoo!ニュース
新日本プロレスなどで活躍したプロレスラーの上田馬之助氏(本名・上田裕司)が21日午前、大分県臼杵市の自宅兼店舗で死去した。71歳だった。通夜は23日、葬儀は24日に、いずれも大分県臼杵市内の葬儀場で、家族葬として営まれる。喪主は妻・恵美子さん。
上田さんは愛知県出身。1958年、大同高校を中退して大相撲の追手風部屋に入門。60年に力士を廃業して日本プロレスに入門。61年デビュー。全日本プロレス、国際プロレス、新日本プロレスなどで活躍した。特に新日本プロレスでタイガー・ジェット・シンとタッグを組み、アントニオ猪木らと抗争を繰り広げたのは語りぐさである。まだらの金髪で「まだら狼」と呼ばれた。
本名 上田裕司
昭和35年 日本プロレス入門
同年入門に猪木寛至、馬場正平がいる
彼はその影に泣きながら
いつしか悪の化身となり
頭を金髪に染め 客の傘まで凶器にする男
考える凶器 その名は 上田馬之助
なぎら健壱の名曲「男は馬之助」はこういう出だしから始まる。
ワタクシはこの曲で、上田馬之助が好きになった。
といっても、応援はできなかった。
交通事故でプロレスができない体になってしまっていたからである。
ワタクシが子どもの頃までは、プロレスが大人気で、
女子からヒンシュクを買うのもお構いなしに、
毎日プロレスごっこに明け暮れていた。
なぜかコブラツイストと卍固めという
いずれも猪木の技の応酬になったり、
スタン・ハンセンのウエスタン・ラリアートをいささか手加減ぎみにかけたこともあった。
今から思えばひどく危険なことなのだが、
逆エビ固めをかけるは、キャメルクラッチをかけるは、
しまいにはフライングクロスアタックまで飛び出して、
よくケガ人が出なかったものだ、と思う。
その頃のワタクシにとって、上田馬之助は、
単なる金髪のアブナイレスラーでしかなかった。
そんな馬之助の、涙ぐましい努力なんて、知るよしもなかった。
試合から試合 旅から旅の
地方の小さな町に来て
スポーツ用品店の店先で
「竹刀を一本ください」と小さな声
その時の馬之助の口から出る
「領収書をください」の男らしさ
またまた「男は・・・」からの引用。
悪役レスラーは悪「役」であって、悪者ではない。
俳優にしろレスラーにしろ、悪役の人で悪人はいない、という話を聞いたことがある。
ある日 地方の町で小さな定食屋に入った馬之助は
そこの店のオヤジに
「ここには悪いけどアンタに食わせるメシはないよ」と言われた
馬之助は怒るでなく 泣くでなく
ほほえみながら その店を出て行ったという
その時 私は 馬之助の
あまりに巨大な器を見た
ああ、上田馬之助。
あなたこそ、本当の男の中の男だ。
皆から嫌われながらも、
分かってもらえなくても、
黙々と悪役を演じ続ける。
これぞプロ。
男はやっぱり馬之助。
ちきしょう、泣けてきたぜ。
負けるな 負けるな 馬之助
男の生き様 見せてやれ
負けるな 負けるな 馬之助
ついてても しょうがないけど
俺がついている