今からおよそ40年以上も昔。
日本が高度経済成長まっただ中にいたころ、
学生運動もまた、熱く展開していた。
その学生運動の一グループ、
赤軍派と京浜安保共闘が合同し、誕生したのが
連合赤軍。
1972年2月19日。
長野県は軽井沢、
当時河合楽器の保養所として使われていた「浅間山荘」に、
連合赤軍のメンバー5人が管理人の妻を人質にしてたてこもり、
警察や機動隊と壮絶な銃撃戦を繰り広げた。
これが世に言う「あさま山荘事件」である。
この事件を中継したテレビ視聴率は「89.7%」というものすごい数字を記録した。
当時警察官だったワタクシのおじが、
この事件で浅間山荘に駆けつけていたという話は、
以前このブログで紹介した。
さて、10日間という空前の籠城事件が収束したのが1972年の今日。
そのときの様子をウィキペディアから引用する。
2月28日午前10時に警視庁第二機動隊(以下「二機」)、同第九機動隊(以下「九機」)、同特科車両隊(以下「特車」)及び、同第七機動隊レンジャー部隊(七機レンジャー)を中心とした部隊が制圧作戦を開始。まず、防弾改造したクレーン車に釣った重さ1トンの鉄球にて犯人が作った山荘の銃眼の破壊を開始。直後に2枚重ねの対弾盾を持った二機が支援部隊のガス弾、放水の援護を受けながら犯人グループが立てこもる3階に突入開始(1階に九機、2階に長野県機動隊が突入したが犯人はいなかった)。
それに対し、犯人側は12ゲージ散弾銃、22口径ライフル、38口径拳銃を山荘内から発砲した。突入した二機四中隊(中隊長・上原勉警部)は築かれたバリケードを突破しつつ犯人グループが立てこもる部屋に接近した。作戦は当初順調に進んだが、作戦開始から1時間半後から2時間後にかけて、鉄球攻撃及び高圧放水攻撃の現場指揮を担当していた特車中隊長・高見繁光警部(2階級特進・警視正)、二機隊長・内田尚孝警視(2階級特進・警視長)が犯人からの狙撃を頭部に受け、数時間後に殉職。さらに山荘内部で上原二機四中隊長が顔面に散弾を受け後退したのを皮切りに突入を図った隊員数名が被弾して後退した。その他、ショックによる隊員達の混乱、犯人側の猛射、クレーン車の故障による鉄球の使用不能等が重なり、作戦は難航した。
途中、拳銃使用許可が下りたものの、現場の混乱もあって命令が伝達されず、結局数名の隊員しか発砲しなかった(威嚇発砲のため犯人には当たらず)。その後、犯人側は鉄パイプ爆弾を使用するなどして隊員達の負傷者は増えた。作戦開始5時間半後、作戦本部の意向により、隊長や中隊長が戦線を離脱し指揮系統が寸断させた二機を1階2階を担当とし、無傷の九機で3階に突入することを決定。また、放水の水が山荘中にかかったため、夜を越すと犯人と人質が凍死する危険があったため、当日中の救出を決定した。また当初は士気に関わるとして機動隊指揮官の意思を尊重する形で、狙撃対象の区別がしやすいヘルメットの指揮官表示を取っていなかったが、指揮官が次々と狙撃されていったことから、途中からヘルメットの指揮官表示を外すことを決定した。
作戦開始から7時間半後の午後5時半から、放水によって犯人が立てこもる部屋の壁を破壊する作戦が取られ、午後6時10分、九機隊長・大久保伊勢男警視から一斉突入の命令が下り、数分の後、犯人全員検挙、人質無事救出となった。
逮捕時、犯人側には多くの銃砲や200発以上の銃弾、水で濡れて使用不能になった3個の鉄パイプ爆弾、M作戦(金融機関強盗)などで収奪した75万円の現金が残っていた。
この事件では、警視庁の高見繁光警部と内田尚孝警視の2人、そして不用意に山荘に近づいた民間人1人が死亡した。また、機動隊員と信越放送のカメラマン計16人が重軽傷を負った。重傷者の中には、失明など後遺症が残った者もいる。また、坂東國男が逮捕される直前、彼の父親が自宅のトイレで首を吊って自殺している。遺書では人質へのお詫びと残された家族への気遣いが書かれていた。