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【どこでもドアのパラドクス】における同一性についての思考実験/哲学チャンネル

2021-06-16 06:10:47 | 哲学の窓

哲学チャンネルより 【どこでもドアのパラドクス】における同一性についての思考実験を紹介します。

ここから https://www.youtube.com/watch?v=2UaSiTZHRew

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【関連した過去動画】
【ヒューム】西洋哲学史解説【人間本性論】【知覚の束】 https://youtu.be/5pBjEuN_lbs
【書籍】 みんなのトニオちゃん https://amzn.to/3fDimly
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今から数十年後の未来では、当たり前のようにどこでもドアが使われていました。 どこでもドアの機能を簡単に解説します。 まず、どこでもドアに入る物体をスキャンします。 次いで、スキャンされた物体は消滅し、 その後、その対象と全く同じ物体をドアの出口から排出します。 これによって、事実上の瞬間移動が可能となったのです。 例えば、ドアに鉛筆を投げ込んだ時のことを考えてみましょう。 ドアを通る瞬間に鉛筆はスキャンされ、全てのデータが明らかになります。 その後、その鉛筆は完全に消滅しますが、 ドアの出口から入った鉛筆と全く同じ鉛筆が排出される為、 私たちにとってはどこからどうみても同じ鉛筆が別の場所に瞬間移動したように見えます。 実際は鉛筆のコピーが別の場所で生成されているだけですが、 起きている現象としては瞬間移動となんら変わりません。 では、このどこでもドアに人間が入った場合、 入る前の人間と、出てきた人間は同一人物だと言えるでしょうか? と、その前に、 もう少しわかりやすく考えてみましょう。 もしあなたがどこでもドアの前に立っていた場合、 そのドアに入ろうと思いますか? きっと、多くの方は「怖くて入れない」と答えると思います。 だって、入ったら自分の体は消滅するんです。 それはつまり『死』です。 死んでしまうことは確定しているわけですね。 理論としてはあなたがドアに入った瞬間にドアの向こうで 自分のクローン人間が生成されるわけです。 そのままだと同じ人間が二人いることになってしまうので コピー元のあなたはこの世から消去されてしまいます。 しかし、それはドアに入ったあなたの話であって、 ドアから出たあなたには関係のないことです。 ドアから出たあなたはこれまでのあなたの記憶を全て持っているし、 当然、今ドアに入る前に恐怖を感じていた気持ちも全て覚えています。 きっとドアから出たあなたはこう思うでしょう。 「なんだ。めちゃくちゃ便利な道具じゃん」と。 しかし、ドアに入ったあなたは確実に死を迎えている。 本題に戻ります。 仮にドアに入った自分と、出てきた自分が両方とも同一人物だとしたら、 言い換えると連続した存在だとしたら。 唯一無二な『自分』と言う存在の複製ができることになります。 自我が二つ発生してまうことになるわけですね。 逆にお互いの自分が同一人物でないのなら、 後から生成された自分は何か全く別のもので、 自我が継続されていることが説明できなくなってしまいます。 どちらにしてもちょっと納得がいかない結果になるわけです。 これがいわゆるどこでもドアのパラドクスです。 前回の動画でも解説しましたが、 私たちの体は、毎日1兆個ほどの細胞が消滅と生成を繰り返しています。 1ヶ月もすれば、体の中の細胞が丸々入れ替わってしまうのです。 そうして変化を繰り返して成長をしていくわけですね。 つまり、このことすらも言い換えれば、 ゆっくりと自分が消滅して新しい自分が生成されているとも捉えられます。 どこでもドアの話ではそれが一瞬で起きただけであって、 実はゆっくりと私たちは生成と消滅を繰り返しているのです。 私たちを私たちたらしめるもの。 今回はそれを【自我】と呼ぶこととします。 では私たちの自我は一体どこにあるのでしょうか。 今触れた話で考えると、どうやら自我は体ではなさそうです。 体は常に変化をしていて、過去の自分とは全く違う構成になったりするので 連続して存在しているとは言い難いですよね。 ではそれは心でしょうか? 体は変化していっても、心がどこかに格納されていて、 それが自我を担保してくれている。 確かにこう考えると一応辻褄は合いますね。 しかし、どこでもドアの思考実験を考えると、 ドアから出た自分が平然と生きていける場合、 それは心を生成したと言っても良いはずです。 心ってどうやって生成するんでしょう? と、考えればキリがないほど疑問が出てきてしまいます。 そこで、ヒュームです。 ヒュームは 『自我とは単に知覚の束である』 と言いました。 生まれた時から知覚によって様々なことを経験した人間は それを蓄積したり、結合したり、加工することによって、様々な観念を想像します。 それによって、多くのことを認識することができるし、 それらの束が自分自身、つまり自我なのです。 心なんて曖昧なものはどこにもなくて、 1分前の自分と今の自分は同一な存在ではない。 ただただ、知覚を積み重ねることで自我と思われるものが 自分を同一だと判断しているだけだ。と考えたんですね。 その理論でどこでもドアのパラドクスを見てみると、 意外にも簡単に解決してしまうことがわかります。 どこでもドアがスキャンした人間のデータを完全にコピーできるならば、 それまでの経験を記憶した脳細胞も完全にコピーできるはずです。 と言うことは、ドアから出てきた自分は、 それまでの【知覚の束】を持っていることとなり それは以前の自分と同じ自我が存在していると言っても良いのです。 ですから、全く同じ自我を持った自分が二人いることは不思議じゃないし、 なんの矛盾も生じない結果が現れるわけです。 私たちは普通に生きていると、 自分には何か確固たる『自分自身』を示す『心』があると思っています。 しかしヒュームは、そんなものはどこにもなく、 単に経験の蓄積を心として捉えているだけだと言っているのです。 あ、そうなんですね! と簡単に受け入れることのできない考え方です。 しかし、論理的に考えてみるとなかなか説得力があるし、 今回みたいな思考実験をすると、 むしろヒュームの言っていることの方が正しいんじゃないか? と思えてくるのです。 ちなみに、私が想像するに、ポケモンも同じシステムによって、 管理されています。 パソコンに転送できたり、モンスターボールで捕まえたりできるのは、 一旦ポケモンをデータとして圧縮するからです。 次に出てきたポケモンは圧縮する前と全く同じポケモンであり、 使用者はなんの疑問もなくそのポケモンと友情を深めていくのです。 圧縮された元のポケモンはどうなっているか考えもせずに・・・
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