上杉鷹山~200年前の行政改革~ もし今の世に彼が居たなら日本は・・・
この動画は、上杉鷹山(上杉治憲)の生涯と、彼が米沢藩をいかにして立て直したかを描いたものです。鷹山は、困窮した藩の財政を立て直すため、倹約を徹底し、領民を含む全藩士に産業振興への参加を促しました。彼は、家臣の反発や困難に直面しながらも、「民の父母」としての責務を果たすべく、人々の心を動かし、最終的には藩の財政再建と人心の改革を成し遂げました。動画は、彼の教育方針や「興譲館」設立による人材育成、そしてその成果までを史実に基づき紹介しています。
Q 上杉鷹山の藩政改革は、いかにして領民の心と経済を再生させたのか?
A 上杉鷹山(春憲)の藩政改革は、極度の財政破綻と領民の心が荒廃した米沢藩を、経済的にも精神的にも再生させました。
藩の窮状と改革の必要性 上杉家はかつて会津120万石を所領としていましたが、関ヶ原の戦いに敗れて米沢30万石に移され、さらに3代藩主が後継ぎを定めずに急逝したため、領地が半分の15万石に減らされていました。度重なる収入の減少にもかかわらず家臣を減らさなかったため、財政は破綻し、多額の借金を抱え、藩は破産状態にありました。幕府に藩を返上する(大名であることをやめる)という意見まで出るほどの窮地でした。領民も年貢の負担に苦しみ、生まれたばかりの赤ん坊の間引きが行われるほどで、その表情は希望を失い、心も土も死んだ冷たい灰のようだと表現される状況でした。
経済の再生:産業振興と武士の意識改革 鷹山は、この破綻状態から米沢藩を立て直すため、大胆な藩政改革を断行しました。
• 新たな産業の育成
◦ 米沢は東北の地であり、米作りには多くの困難を伴うため、米に代わる新たな農産物の育成を目指しました。
◦ **漆(うるし)、楮(こうぞ)、こんにゃく、藍(あい)、紅花(べにばな)**などの植物の栽培を奨励しました。特に漆は塗料が得られ、大きな利益を生むとされました。
◦ これらの原料を他国に売るだけでなく、米沢藩内で加工し、付加価値の高い最終製品として高く売ることを目標としました。例えば、カラムシ(苧麻)からは縮み(織物)を、楮からは紙を、紅花からは紅を、漆からは漆器を生産するよう計画しました。
◦ 地元の特色ある産業として、笹野観音の前で見かけた面白い彫り物(後の笹野一刀彫)や、小野川の湯の塩分を利用した塩の製造も考案しました。
◦ 必要な技術は、他藩から高い報酬を払ってでも職人を招き入れることを厭いませんでした。これは、経費削減だけでなく、思い切った投資も改革には必要であるという考えに基づいています。
• 人材の活用と意識改革
◦ 新たな産業を担う人手不足に対し、老人や子供、そして武士の妻や母親といった、これまで労働力として十分に活用されていなかった層にも役割を与え、収入を得られるようにしました。鷹山はこれを「人手はある」と表現しました。
◦ さらに、武士に対しても意識改革を求めました。特に重役たちには50本、藩士には30本と、屋敷の広さに応じて漆や桑の苗を植えさせることを命じました。これは、武士自らが率先して行動することで領民が動くという考えに基づくものでした。
◦ 鷹山は、武士とは民の年貢によって養われる「食客」のような存在であり、「民の父母」として「民の願いを民に代わって行う」ことこそが真の武士の権威であると説きました。
◦ 藩士たちが自ら刀を捨てて百姓となり、荒れ地の開墾を行うという申し出を、鷹山は藩士としての身分を捨てさせず、禄も今まで通り与えた上で許可しました。彼らが開墾した土地を神仏に捧げる神聖な「新地」とすることで、嫌がらせや妨害を防ぎ、藩士たちの努力を守る策も講じられました。
• 財政再建の成果
◦ これらの改革の結果、長年藩を苦しめていた11万両あまりの巨額の借財を全て返済し、さらに5000両の備蓄を得ることに成功しました。
心の再生:希望の光と共感の政治 鷹山は経済改革と並行して、人々の心に希望を取り戻すことに力を注ぎました。
• 「民の父母」としての自覚
◦ 鷹山の師である細井平洲は、「楽しき君子は民の父母である」と教え、学問は世に役立たねば意味がないと説きました。鷹山はこれを深く心に刻み、「民の好む所を好み、民の憎む所を憎む」ことが「民の父母」であると解釈しました。この精神が、改革の根本をなしました。
◦ 鷹山自身が、藩主としての生活費を1500両から200両に削減し、質素倹約を率先して実行しました。
◦ 領地入りした際、宿場が廃墟となっている現状を見て絶望しつつも、灰の中に残る「小さな残り火」を見出し、それを新たな火種として領民の心に火をつけようと決意しました。この火種とは、彼自身や選抜した側近たちの改革への情熱でした。
• 教育の普及と人々の育成
◦ 改革の成功には、後に続く若い世代の育成が不可欠であると考え、新たな学校「興譲館(こうじょうかん)」の創設を決定しました。
◦ この学校は、武士の子弟だけでなく、農民や町人の子も分け隔てなく一緒に学べる画期的なものでした。
◦ 鷹山は、自身の師である細井平洲を江戸から招き、難しい内容も分かりやすく教える講座を一般庶民にも開放しました。
◦ 学校建設の資金を募る際、初めは町人からの献金を断りましたが、最終的には「町人が金を出すことで、改革の趣旨がよりよく伝わる」と判断し、受け入れました。これは、武士が町人から金を受け取ることを「恥」とする旧来の考え方を捨て、「人間が自分を変えること」が改革の最も大切な部分であるという彼の信念を示しています。
◦ 興譲館という名前には、「己を磨き、へりくだる心を養い、おごりたかぶる心を除く」という意味が込められており、鷹山自身の学問への姿勢が反映されていました。
• 藩主としての姿勢と信頼の構築
◦ 鷹山は、自らの施策が「誤りて改むるに憚ること勿かれ(誤ったならば、躊躇せずに改めよ)」という信条に基づき、間違いを素直に認め、改めることを恐れませんでした。
◦ 家臣団との対立が生じた際(七家騒動)、彼は足軽を含む全ての藩士を広間に集め、自らの現状認識と改革への思いを正直に語りかけました。これは、身分を問わず意見を言える透明な場を作り、藩士たちに協力を求めるための異例の行動でした。
◦ 重臣たちが改革に反対し、鷹山を藩主の座から降ろそうとした際も、彼は直接藩士たちに意見を求めました。この時、多くの藩士が鷹山の改革を支持し、彼の言葉に涙を流して共感しました。
◦ 彼の決断は時に厳しく(七家騒動での重役への厳罰)、家臣には動揺もありましたが、鷹山の優しさの底にある「筋を通す厳しさ」を知り、かえって畏怖の念を抱き、改革への協力体制が強化されました。
◦ 鷹山は改革において「汚れ役」は不要だと断言し、「いかに道が遠かろうと、清い方法で歩む」ことを重視しました。これは、改革が領民の利益のためであり、その過程で不正や汚職があってはならないという強い意志を示しています。
これらの取り組みにより、米沢藩では「米沢の人間はもちろん、旅で通り過ぎる人も誰一人として、猿の(無人の)中から黙って品物を盗んで行く者がおりません。もう番小屋にさえ嘘をつかないんです」と言われるほどに、人々の心に思いやり、優しさ、信じ合う心がよみがえり、「大食い(大仰)の商い」と他国の人々から呼ばれるほどの精神的再生を遂げました。経済の立て直しと人々の心の再生は、鷹山の一貫したリーダーシップと、藩全体を巻き込む改革への情熱によって密接に結びついていたのです。
Q 財政破綻寸前の藩を救うため、彼はどのようなリーダーシップを発揮したのか?
A 財政破綻寸前の米沢藩を救うため、上杉治憲(後の鷹山)は多岐にわたるリーダーシップを発揮しました。彼の指導力は、絶望的な状況下での強い決意、徹底した自己規律と率先垂範、そして人々の心を動かす深い洞察に基づいています。
具体的には、以下のようなリーダーシップを発揮しました。
• 現状認識と危機感の共有、そして断固たる決意
◦ 米沢藩は過去の失策と度重なる領地削減(30万石から15万石へ)により、莫大な借金を抱え、財政は破綻寸前でした。江戸の豪商からは借金を断られ、年貢の増税も不可能で、藩の返上すら検討されるほどの窮地にありました。
◦ 治憲は藩主就任直後、「この生き地獄を米沢藩にみたてれば」と述べ、家臣団の現状を魚に例えて「泳ぐよりそこに座って怠けている」と厳しく指摘しました。
◦ こうした状況に対し、彼は「藩を潰すくらいならば、もう一度必死の努力をしてみたい」と述べ、藩政改革への強い決意を示しました。彼は、改革の目的を「藩に金を集めること」ではなく、「領民を豊かにすること」であると明確にしました。
• 改革の推進と人材登用
◦ 彼は藩内の「仲間外れにされている者」や「重役たちから嫌われている者」の中から、私欲を離れて現状に怒りや悲しみを抱いている者たちを選び出し、改革案の作成を命じました。
◦ 特に竹俣当綱、莅戸善政、木村高広を抜擢し、彼らに改革案の作成を委ねました。
◦ 彼は藩政改革を「生きるか死ぬかの大病」にかかっている「米沢藩」を救うための「思い切った手術」であると表現し、その必要性を訴えました。
• 率先垂範と徹底した倹約
◦ 自ら率先して倹約を実行し、自身の生活費を1500両から200両にまで削減しました。
◦ 伊勢神宮への参拝使者の廃止、年間行事の中止、行列人数の削減など、藩の虚礼を徹底的に廃止しました。
◦ 衣服は木綿に、食事は一汁一菜とし、砂糖などの贅沢品を一切禁止する厳格な倹約令を自らも実践しました。
◦ 病弱な妻、義姫(天女と呼んだ)のために、側室を置くことを周囲に強く勧められても断固として拒否しました。
◦ 米沢入りした際、藩の困窮を肌で感じるため、あえて廃村同然の宿場に宿泊し、自らの身分を顧みず家臣と同じ粗末な場所で過ごしました。また、新しく架けられた橋を渡る際にも、馬に乗らずに歩いて渡り、家臣との連帯を示しました。
• 情報公開と意見の尊重
◦ 藩に入って最初の家臣集会で、彼は藩の窮状を隠さず全て公開しました。
◦ 身分を問わず(足軽を含む)全家臣を集め、彼らから率直な意見を聞く場を設け、藩政への協力を求めました。これは従来の格式を破る異例の行動でした。
◦ 「誤って改むるに憚ることなかれ(過ちを改めることをためらうな)」という自身の信条を明かし、家臣にも率直な意見を促しました。
• 産業構造の改革と多角化
◦ 米作りに適さない東北の地で、漆、楮、苧麻、紅花などの特産品を育てることを奨励しました。
◦ これらの原料を藩外に流出させるだけでなく、藩内で加工して付加価値を高め、高く売ることを目指しました(例:縮緬、紙、口紅、漆器など)。
◦ 労働力不足に対しては、「人手はある」として、老人、子供、女性を積極的に産業に組み込み、彼らが収入を得て生活を豊かにすることを提案しました。
◦ 武士にも特産品である桑の木を植えることを命じ、「武士は民の年貢で養われる禄を食む人間であり、民のために尽くすことこそ真の武士の権威である」と、従来の武士のあり方を再定義しました。
• 人々の心を育む教育の重視
◦ 「火種を絶やさぬように、人も絶やしてはならぬ」という考えのもと、次世代の育成のため藩校「興譲館」を開校しました。
◦ この学校には、侍の子弟だけでなく、農民や町人の子も身分の別なく学べるようにしました。
◦ 学校建設の資金を全領民に呼びかけ献金を募り、町人からの寄付も受け入れました。これは一見、武士の「恥」とされる行為でしたが、彼は「改革とは制度や政治のやり方を変えるだけではない。何より大切なのは人間が自分を変えることだ」と述べ、古い考えにとらわれず、人々の協力と意識変革を促すことの重要性を強調しました。
• 厳格な人事と公正な姿勢
◦ 藩政に反対する重臣たちから、改革派の罷免や自身の隠居を求める「権限書」を突きつけられた際には、一時的に動揺しながらも、最終的には彼らを厳しく処分し、改革を断行しました(須田・五百川には切腹を命じた)。
◦ 一方で、改革の中心人物であった竹俣当綱が権力を濫用し、私腹を肥やすなどの不正を働き始めた際には、「私の改革に汚れ役はいらない。どれほど道が遠かろうと、清い方法で歩む。それが領民のためだ」と述べ、竹俣を一切の役職から外し、終身禁固の処分を下しました。これは、改革の成功のためには手段を選ばないというのではなく、公正さと清廉さを徹底することの重要性を示しています。
これらの施策とリーダーシップにより、米沢藩は長年の負債(11万両あまり)を全て返済し、さらに5千両の備蓄を築くことに成功しました。経済的な再建だけでなく、領民の心に「思いやり、優しさ、信じ合う心」をよみがえらせ、商いにおいても不正をしない「大食いの商い」と呼ばれる風土を築き上げたことは、彼のリーダーシップの最も顕著な成果と言えるでしょう。
Q 伝統や慣習に縛られず、新しい価値観をどう確立し広めていったのか?
A 上杉鷹山(治憲)は、伝統や慣習に縛られず新しい価値観を確立し広めるために、多岐にわたる改革を実行しました。彼の価値観の根底には、教育者である細井平洲の教えが深く影響しています。
新しい価値観の確立と普及の過程
1. 学問と目的の再定義:
◦ 平洲から「学問は世に役立たねば何にもならない」と教えられ、学問のための学問や文字遊びに陥っていた当時の朱子学を批判しました。
◦ 彼は「楽しき君子は民の父母である」「民のこのぬ所を好み、民のに組むところを憎む」という『大学』の教えを藩主の心得としました。
◦ 治憲は、藩の財政再建の「目的は領民を豊かにすることにあり、藩に金を集めることではない」と明確に掲げました。これは、当時の「藩の存続」が主目的であった価値観を転換させるものでした。
2. 従来の慣習や格式の打破:
◦ 大規模な倹約と生活の簡素化: 財政破綻寸前の藩を救うため、彼は江戸藩邸での「虚礼の廃止」を断行しました。伊勢神宮への参拝を代役とし、年間行事や神仏社次会の行事を全て中止、行列の人数を削減、着用は木綿、食事は一汁一菜、砂糖禁止、建物修理の制限などを徹底しました。
◦ 自ら率先した倹約と模範: 彼は自らの生活費を1500両から200両に削減し、家臣にも同様の倹約を求めました。
◦ 藩主の権威の再定義: 「米沢藩主の座から大川の可愛い米沢藩の家臣にその資格があるのではない。私が藩主としてふさわしくないと裁けるのは米沢藩の領民だけである。年貢を納めるもののみがその資格を持つ」と述べ、藩主の権威の源を家臣ではなく領民に置くという、当時の常識を覆す考えを示しました。
◦ 身分制度への挑戦: 藩内に入った際、伝統に反して足軽を含む全ての藩士を広間に集めて直接対話しようとしました。彼は足軽こそが長く藩を支える大切な人間であると考え、そのしきたりを破ることを躊躇しませんでした。また、藩士の庭や城内に桑などを植えさせ、武士たるものが畑を耕すことの重要性を示しました。彼は武士を「民の年貢で養われると食の人間」とし、真の武士の権威は「民の親となり、民の願いを民に代わって行うこと」にあると語り、武士の役割を再定義しました。
3. 新しい産業と人材の育成:
◦ 産業の多角化: 米作りの困難な東北の地において、漆、楮(こうぞ)、麻、紅花などの栽培を奨励し、これらを原料とした加工品(漆器、紙、縮緬、紅など)を藩内で生産し、高く売ることを目指しました。
◦ 人材の活用: 新しい産業には人手が必要だとし、老人、子供、女性も「人手」として織物や養蚕などに携わることを奨励しました。これにより、これまで生産活動に直接関わらなかった層を巻き込み、家計を潤す機会を与えました。
◦ 教育機関の設立: 身分に関わらず学べる藩校「興譲館」を設立しました。侍の子だけでなく、農民や町人の子も共に学ばせる方針を打ち出し、身分制度の壁を越えた教育の機会を提供しました。学校建設の資金を全領民からの献金で賄うことを提唱し、町人からの寄付も受け入れました。これは、藩の事業に領民を主体的に巻き込む試みでもありました。
4. 反対勢力への対応と理念の徹底:
◦ 改革反対派への毅然とした態度: 治憲は、重臣たちが彼の隠居や養子縁組の解消を求めた「権限書」に対し、彼らを処罰しました。しかし、その処罰に至る手続きは全て藩士たちの前で明らかにすることを望み、最終的には大目付が治憲の改革が正しいと証言したことで、藩士たちは治憲の支持を表明しました。
◦ 改革における清廉さの重視: 彼は、改革推進の重責を担っていた竹俣当綱が権力私物化の兆候を見せた際、厳しく処罰しました。その際に「私の改革に汚れ役は要らない。どれほど道が遠かろうと、清い方法で歩く。それが領民のためだ」と述べ、改革の目的が領民のためであり、その手段も清廉でなければならないという、一貫した理念を示しました。
◦ 藩主の心得三ヶ条: 隠居に際し、後継ぎの治大に「国家は先祖から人々に伝えられるもので、決して私すべきものではないこと」「人民は国家に属するもので、決して私してはならないこと」「国家人民のために立ちたる藩主であって、藩主のために人民があるのではないこと」という藩主の心得三ヶ条を教え、新しい統治理念を確立しました。
これらの改革の結果、米沢藩は財政を再建しただけでなく、「大食い」と呼ばれる、品物を盗む者が一人もいない、お互いを思いやり信じ合う心の通った社会を築き上げたと評価されています。