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【べらぼう】田沼意次のルーツを探る

2025-07-25 06:19:59 | 田沼意次・伊能忠敬・浮世絵

【べらぼう】田沼意次のルーツを探る

NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」において、大事な役どころで田沼意次が登場しておりますが、江戸時代における「足軽の子が老中になった!」という出世物語として有名です。今回は「そもそも田沼家とはどのような武家だったのか?」のお話をいたします。


この YouTube 動画では、NHK大河ドラマ「べらぼう」で取り上げられる田沼意次のルーツについて解説されています。田沼家が下野国(現在の栃木県)の武士であったこと、その出自が清和源氏の新田氏流であることが説明され、「新定寛政重修諸家譜」などの史料に基づいています。また、田沼家が戦国時代に上杉氏、武田氏、北条氏といった様々な勢力に従属し、最終的に武田氏の滅亡を経て浪人となった後に、**徳川家康の十男である徳川頼宣(紀州藩初代藩主)**に仕えるようになった経緯が考察されています。特に、頼宣が積極的に旧大名の浪人衆を召し抱えたことが、田沼家が武士としての地位を保ち続けた要因として挙げられています。


Q 田沼意次が足軽から老中にまで出世できた要因は何だったのか?

A 田沼意次が足軽から老中にまで出世できた要因について、提供された情報からは以下の点が挙げられます。
• 異例な出世であったこと [i] 江戸時代において、足軽の身分から老中にまで出世することは非常に珍しい例でした [i]。当時の身分制度は厳しく、足軽の子が家老になるようなことは稀であるとされています [i]。
• 田沼家のルーツと紀州藩への仕官の経緯 [i] 田沼家は元々、下野国(現在の栃木県)出身の武士でした [i]。元は藤原氏流でしたが、後に清和源氏の血統を養子に迎え、下野国麻生郡田沼村(現在の栃木県佐野市田沼町)を称しました [i]。 その後、上杉氏、武田氏、北条氏など、様々な主家を変えながら仕えました [i]。特に田沼正義の代には武田家に仕えていましたが、天正10年(1582年)に織田信長によって武田家が滅亡すると、信濃国を「漂泊」する状態になりました [i]。
• 徳川頼宣による浪人召し抱えの政策 [i] このような状況の中、正義の子である義次(よしつぐ)が初めて紀州藩主である徳川頼宣に仕えることになります [i]。紀州藩初代藩主である徳川頼宣(徳川家康の十男)は、元和5年(1619年)に和歌山城主となりました [i]。頼宣は武道を奨励し、滅亡した戦国大名の浪人をはじめ、諸国の浪人を積極的に召し抱える方針をとっていました [i]。この方針により、元武田家の家臣であった田沼義次も、鉄砲足軽のような形で紀州藩に召し抱えられたと考えられています [i]。 これは、本来であれば武田家の滅亡によって浪人となり、帰農することも多い中で、頼宣の優れた人材確保策によって田沼家が武士として存続できた、極めて重要な要因であるとされています [i]。
• 足軽としての家系存続がその後の出世の基盤となったこと [i] このようにして紀州藩に仕えることになった田沼家は、義次、義茂、義之と続き、意次の父である元之は紀州藩の足軽でした [i]。頼宣の積極的な浪人召し抱えの政策がなければ、田沼家が武士として存続できなかった可能性があり、このことが田沼意次が足軽の子として生まれながらも、後に老中という要職に就く前提条件を作り出したと言えます [i]。
このように、田沼意次が足軽から老中にまで出世できた直接的な要因は、彼の個人の能力や功績ではなく、彼が生まれ育った家系が、厳しい身分制度の中でいかにして「武士」としての身分を維持し、紀州藩に仕えることになったかという、特異な家系の歴史的背景と、徳川頼宣の積極的な人材登用策にありました [i]。



Q 田沼家が武士としての地位を確立し、維持できた背景には何があるのか?

A 田沼家が武士としての地位を確立し、維持できた背景には、以下の点が挙げられます。
• 武士としての出自と苗字の地
    ◦ 田沼家は、元々は藤原氏で佐野の庄の茂俊が祖とされており、その後、清和源氏の新田氏流を自称するようになりました。
    ◦ 茂俊から6代後の茂家が下野国(現在の栃木県)麻生郡田沼村に居住し、初めて「田沼」を称したとされています。この田沼村は現在の栃木県佐野市田沼町にあたり、苗字の地となりました。
• 戦国時代における主君への仕官と流転
    ◦ 田沼家は、戦国時代に上杉氏、武田氏、北条氏といった有力大名の間で主君を変えながら仕えました。
    ◦ 特に、成田親泰や長泰に仕え、田沼正義の代では武田家に仕えました。
    ◦ しかし、天正10年(1582年)に武田勝頼が織田信長に攻め滅ぼされた後、田沼正義は信濃国に漂泊することになり、武士としての地位が危ぶまれる事態に直面しました。
• 徳川頼宣による浪人登用策
    ◦ 武田家滅亡後、浪人となった田沼正義の子である義次は、紀州藩主の徳川頼宣に召し抱えられたことで、武士としての地位を維持することができました。
    ◦ 頼宣は、元和5年(1619年)に駿府から紀州和歌山城主となり、武道を奨励し、人材確保に積極的でした。
    ◦ 頼宣は、福島正則や毛利氏と戦って滅亡した尼子氏のような滅びた戦国大名の浪人をはじめ、諸国の春月武功の浪人を積極的に召し抱えるという方針を持っていました。
    ◦ 田沼義次は、元武田の家臣であり、頼宣が彼を鉄砲足軽のような形で召し抱えたと考えられています。
    ◦ この頼宣による人材確保策があったからこそ、通常であれば浪人から農民になることが多かったであろう田沼家が、武士として存続できたと考えられます。
これらの背景により、足軽の子が老中になったという江戸時代の出世物語として有名な田沼意次の父である元之は、紀州藩の足軽として田沼家が武士の家系として存続できたのです。



Q 徳川義宣がどのようにして田沼家を家臣として取り込んだのか?

A 徳川義宣がどのようにして田沼家を家臣として取り込んだのか、というご質問ですね。資料によると、徳川義宣は武道奨励に積極的であり、滅んだ戦国大名の浪人をはじめ、諸国の浪人を積極的に召し抱えるという方針を持っていました。
具体的には、以下の点が挙げられます。
• 義宣の浪人積極採用政策:徳川義宣は、福島正則や尼子家など、滅亡した戦国大名の浪人をはじめ、諸国から有能な浪人を積極的に召し抱えました。彼は元和5年(1619年)に55万5千石で駿府から和歌山城主となり、その際に人材確保に努めました。
• 田沼義知の背景:田沼家は元々藤原氏でしたが、後に清和源氏に養子を迎え、新田氏流となります。下野国(現在の栃木県)を拠点とし、上杉家、武田家、北条家などの主家を変えながら仕えました。田沼正義の代には武田家に仕えましたが、天正10年(1582年)に武田勝頼が織田信長に攻め滅ぼされた後、正義は信濃国に漂泊しました。
• 義宣による田沼義知の召し抱え:漂泊していた田沼正義の子である田沼義知が、初めて紀州藩主である徳川義宣に仕えることになります。義宣は元武田の家臣であった義知を、おそらく鉄砲足軽のような形で召し抱えたと考えられています。
• 義宣の人材確保の才:武田家滅亡後、本来であれば浪人となり、あるいは帰農して農民となることが多い中で、田沼家が武士として存続できたのは、徳川家康の再来を自任するほど武道を奨励し、人材確保に長けていた義宣の存在があったからだと推測されています。
このように、徳川義宣は武道の奨励と積極的な浪人採用という独自の人材確保策によって、武田家滅亡後に漂泊していた田沼義知を家臣として取り込み、田沼家が武士としてその血脈を繋ぐことになったと考えられます。


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