今でも鮮明に憶えている。本を読むという行為がどれほど面白いことか、読書を薦めてくれた友人が同じクラスで中学2年の夏休み前である。
昔は夏休みの宿題に決まって「読書感想文」なるものがあった。この課題を消化するために何か本を読まなくてはいけないと、興味のない本でもページ数の少ないやさしそうな本を選んだものだ。
自分は運動好きで体育会系の部活に精を出すタイプであって、それまで落ち着いて読書するなんて経験がなかった。その友人は文化系の色白イジメられるタイプで、勉強も非常によくできて、何故か彼の人柄に興味をもった。
2人で話すようになって彼の家に遊びに行って驚いた。文学や歴史関係の本が部屋の書棚にたくさん詰まっていた。いつしか彼の薦める小説や戦争史について興味深く耳を傾けるようになった。
そんな彼に、夏の読書感想文のために読みやすく書きやすい本はないかなと聞いたところ、井上靖の「夏草冬濤」(なつくさふゆなみ)の文庫本を貸してくれた。
文庫本であるのに500ページを超える長編小説である。こんな分厚い本は無理だよと思ったのだが、彼はニコリと笑って面白い物語(井上靖の少年時代の自伝小説)だからあっという間に読み終えるよと。
この友人と出会ってなければ文学の世界や小説を読むという行為にのめり込むことはなかったかも知れない。
若い時の読書は「濫読」がいい。自分の好き嫌いで判断するのではなく、他人の「これ面白いよ」と薦められた選書に耳を傾けてみることである。
私は大学まで典型的な理系人間であったから、文学や音楽に目覚めた十代後半の体験は20代以降の人生をとても豊かにしてくれたと感じている。仕事上でもプラスに作用してくれたと思う。
というわけで前置きが長くなり過ぎたが、忘れもしない22歳の時、村上春樹のデビュー作「風の歌を聴け」を読んで衝撃を受けた。
大袈裟にいうなら、これまでの日本文学史上誰も書いたことのない手法で、有り得ない小説の物語を風が駆け抜けるが如く面白く描いていた。
読み始めて何時間だったろうか、時が経つのを忘れて一気に最後まで中断なく読み終えてしまった。もう終わり?もっと続きを読みたいのだけれど‥‥。
村上春樹の小説はいつも終わり方がはっきりしない。ものすごく説明の丁寧な上手い文章を書くのだが、物語の結論はわざとぼやかして読者の想像や価値観に委ねている。
どうやったらこんな奇想天外のストーリーが次から次へと生まれるのだろうか?
その疑問に明確な答え(仮説)を提示してくれたのが、内田樹のこの本である。
概して日本の文学批評家たちは、村上文学に否定的な人が多い。村上春樹の小説が売れれば売れるほどお偉い批評家さんたちは村上文学を辛辣に否定する。村上春樹はそれに本気で嫌気がさして、海外移住生活を始めた。もう30年くらいの月日が過ぎた。
内田樹の村上春樹論を読んでいたら強烈に面白くてまた村上春樹の小説を読みたくなった。ねじまき鳥クロニエル以降の20年くらい、村上文学から離れた。
というよりこの20年くらいは小説らしいものをじっくりと読んでいない。隙間時間にちょこまかと自分の好きな系列テーマ本ばかりである。時間を忘れるほど、物語の時間に没入してワクワク想像力かりたてられる小説を読みたい。