論語に「之(これ)を知る者は之を好む者に如(し)かず。之を好む者は之を楽しむ者に如かず」とある。
楽しむ者が1番強い‥‥。正鵠(物事の急所)を得ている。一流スポーツの世界にも度々現れる言葉である。
勉強も本来、娯楽の一つだった。江戸時代の国学者、本居宣長の弟子たちは、出世したい若者ではなく、功成り名を遂げて隠居した豪商たちだった。
彼らは、内発的な好奇心に駆られて、勉強に取り組んだ。が、学校制度が確立すると、将来の目的と結びつき、競争や強制という外発性を帯び、娯楽という本性からかけ離れてしまった。
『舞姫』(森鴎外)の主人公が立った「学問の岐路(分かれ道)」は、そういう、求められる学問と求める学問の乖離(かいり)にきざしている。
本来の価値に気付かないまま、強制された勉強に、本意と無関係に取り組まなければならなくなれば、自己疎外に結びつく。結末が学力不振にとどまれば、まだいい。
ではどうするか。処方箋は決まっている。内発的な主体性を取り戻し、勉強の本質的な娯楽性に気づくことである。ノーベル賞受賞者は、異口同音に「好きなことをしただけ」と言う。
が、勉強の楽しさを教えることはできない。生きる意味と同じで、各人固有のものだから、自分で発見するしかない。私たちには、経験を語るか、手がかりとなりそうな具体例をあげるくらいしかできない。
動物行動学の日高敏隆(1930〜2009)のラジオ番組で聴いた話が忘れられない。動物行動学は、生物学から枝分かれした分野。解剖や分類ではなく、観察を方法とする。
幼い日の発見である。虫を追いかけてばかりいた。あるとき、「チョウの道」に気づく。アゲハチョウが、いつも、人間の道路の同じ側を飛んでいくのだ。
捕虫網をもって追いかけると、いつも同じところで道を渡る。複数の個体が同一の行動をとる。少年は、チョウにも道がある、と思う。観察が始まる。
アゲハが飛ぶのは、木の生えている側。反対の畑側には飛ばない。アゲハの幼虫は、柑橘類の葉を食べるから、ミカンやカラタチの木の生えている方が、成虫同士も出会う確率が高い。
モンシロチョウが好きなキャベツ畑も、アゲハの心はとらえない。柑橘類は陽樹。日陰を嫌い、日なたを好んで生育する。日陰で繁茂する陰樹ではない。
アゲハは、日の当たる木々の上を舞って行き、日陰にさしかかると、道路を渡って日なたに移動していたのである。いま日が当たっているところは、少なくとも1日1度は日の当たる場所。
つまり、陽樹の生える場所を飛ぶことになり、羽化した異性に出会う確率も高くなる。闇雲に飛んでいたわけではなかったのである。少年の素朴な疑問が、一生の研究に繋がった。(ラジオ番組と『チョウはなぜ飛ぶか』岩波書店1998参照)
楽しそうだろう。理学の研究者ではよくあることで、好奇心が研究に昇華する。羨ましいエピソードでもある。
若者も、ただ受験勉強の難行苦行に耐えるのではなく、勉強が内包する楽しさに目を向けてごらん。違った景色が見えてくることだろう。
「知好楽」を実践して、楽しむことである。仕事もそういう部分をできるだけ増やしたいものだ。
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