郷が杜備忘録

旅行や読書と日々の行動の記録。
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運命の人(三) (山崎豊子著)

2020-02-02 | 読書
弓成記者の裁判があった昭和47年(1982年)は、連合赤軍のあさま山荘事件やテルアビブ空港での

日本人ゲリラの自動小銃乱射事件があった年であった。

また2月には札幌オリンピック開催、7月に田中内閣発足などもあり、きわめて事件などが多かった

年かも知れない。



弓成記者と三木事務官の裁判は、外務省関係者の尋問や弁護側証人の喚問などがあり、被告人の

主尋問、弁護側最終弁論があり、翌年1月の判決となった。

1審の判決は、三木被告は「懲役6月、執行猶予1年」、弓成被告は「無罪」であった。

本山裁判長は判決理由を述べ、三木被告は沖縄返還交渉の電信文3通を漏示した「国家公務員法100条違反」

弓成被告は、秘密保護と取材の自由を比較衡量し、辛うじて無罪となった。

しかし、判決翌日三木昭子は「週刊潮流」に「外務省機密文書漏洩事件 『私の告白』三木昭子」を

出していた。週刊誌記者が半年以上のインタビューを続けて記事にしたものであり、痛烈な週刊誌判決

であった。記事には三木の言い分といい弓成を貶める記述があり、弓成の心中を暗くした。



1審は無罪であったが、検察側は黙って引き下がることはなく、控訴審議会が開かれ、控訴審に進むことになった。

控訴審最終公判日、東京高裁第六刑事部法廷において、三木昭子の供述調書が朗読された。

その内容は、「現在は離婚したこと、秘密書類を持ち出したのは弓成記者と特殊な関係に陥っていたからで

弱みがあったから逃げ出せなかったこと、男女関係に陥った女性は何事につけ束縛される。」ということで、

か弱き女性を演じ続けていた三木昭子は、弓成への攻撃を緩めることなく、苦しめ続けた。



昭和51年7月20日、控訴審判決がくだった。「原判決破棄、被告人、弓成亮太を懲役4月に処する」

判決理由で、木柿裁判長は「そそのかし」を解釈し、「公務員の自由な意思決定を不可能とする程度の

手段、方法による秘密漏示の慫慂行為が該当する」「指定秘とされる情報を最良の判断者の立場にない

報道機関が『そそのかし』の手段で取得し報道した場合は違法である」「三木の供述調書により、

弓成の行為は『そそのかし』に該当する」


密約論を取り上げず、「そそのかし」で報道の自由を裁いた判決に、弁護団は即刻上告を決定した。

最高裁に上告されたが、最高裁は5人の裁判官の全員一致で「上告棄却」を決定し、報じられた。

弁護団は「容認できぬ判断」と声明を出したが、弓成は「言い分はあるが、差し控える」と所感を発表した。

この間に、弓成の実家の青果店は、父が亡くなり弓成が継いだが、他会社に吸収され消滅した。




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