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200年企業―成長と持続の条件  綿布団「おたふくわた」再興…日経新聞10月12日14面より

2011年10月12日 19時52分05秒 | 日記
ハニーファイバー、販路開く

「柔らかく、ほどよいコシもある」。10月初め、ネパールを訪れた綿製品製造・加工会社ハニーファイバー(福岡市)の原田浩太郎社長は同国南部で採れた綿に良い感触を得た。

現在日本で人気のあるインド綿はインド国内や中国向けの需要拡大で品薄となり、価格も高騰。ハニーフアイバーが手掛ける「おたふくわた」の次世代素材として、原田社長はネパールをはじめとする他国綿の採用検討に忙しい。

18世紀半ば、筑前博多(現在の福岡市)では綿実を扱う商人の座(特権的な同業者団体)ができた。種油商の「糀屋(こうじや)」は博多で食用油や飼料、燃料の原料となる綿花の実を代々扱っていたが、その糀屋の次男、原田忠右衛門(初代)が1840年に分家をして、下小山町(現在の上呉服町)で弓打ち式による綿の加工業を始めた。

屋号は同じ「糀屋」。忠右衛門は“「山(かぎやま)”の暖簾(のれん)を掲げ、綿花の仲買や布団用の綿販売を本業とした。

綿の実を扱うのは本家、花は分家という分業体制。江戸中期からは博多でも木綿布団が流行し、忠右衛門の商いは繁盛した“「山”糀屋がハニーファイバーの前身。明治に入り「おたふくわた」を商品名とし、国内のほか朝鮮、満州(現中国東北部)などにも工場・支店を開設した。

だが敗戦で海外資産を失い、戦後は廉価な輸入品の増加やベッドの普及などで市場が縮小。1982年には浩太郎氏の父、原田憲明社長(当時)が心筋梗塞で急逝、業績が悪化した。97年には取引銀行から債務圧縮の勧告を受け、綿製品事業からの撤退を迫られた。

当時大学卒業直前の浩太郎氏は、オーナーの母親と銀行の交渉に同席した。「先祖や父が守ってきた『おたふくわた』を失う悔しさでいっぱいだった」と振り返る。

約300人いた従業員の大半を解雇、保有不動産の半分を売却して退職金支払いや債務返済に充てた。残った福岡や東京のビル数棟を子会社ハニービル開発(福岡市)や東京ハニービル(東京・渋谷)など3社が分散して保有、家業は不動産業に業態転換した。

浩太郎氏は大学卒業後、沖電気カスタマアドテック(東京・江東)に入社した。希望の営業部門に配属となり、代理店契約を結んでいた米モトローラ製のルーターを精力的に売り込んだ。

得意だったのは飛び込み営業。コネのない顧客の元に通い詰め、新規契約を取る醍醐味を覚えた。「数年必死で働いた後、独立して事業を起こすつもりだった」という浩太郎氏は2001年に沖電気カスタマを退社。迷った末に「『おたふくわた』を復活させよう」と決意した。

2年間、素材の調達先や綿布団の仕立て職人を探し歩き、03年にネット販売限定で「おたふくわた」ブランドの綿布団を売り出した。最初は全く売れなかったが、得意の飛び込み営業で百貨店などの販路を開拓。

続いて商品化した作務衣(さむえ)や「座布団バッグ」「のび太のお昼寝座布団」などがヒット。「おたふくわた」はよみがえった。「今度はニューヨークで売り出す」と浩太郎氏は夢を膨らませている。

父の憲明氏が亡くなった時、浩太郎氏は9歳。「日曜日に父が運転する車で会社に行き、仕事をする父の周りで遊んでいた」という記憶が残っている。

今回のネパール訪問に浩太郎氏は7歳の長男を連れていった。幼き日の自分と父の姿を重ね合わせていたようだ。(編集委員安西巧)

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