文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

フルシチョフ夫妻をもてなす歓迎を兼ねた舞台で演じられたのが、フレンチカンカンだったのは、こういうあてつけだった事を、これを読んで理解した。

2018年12月31日 12時31分12秒 | 日記

つまり日本のテレビ局はこのような誰もが見るべき映像をただのいちども放映してこなかったのである。と題して2015-10-30に発信した章が、今、検索数ベスト10に入っている。

以下は前章の続きである。
*~*の文章は私。
しかし今の観光ルートではそんな貴重な体験ができる場所はまずカットされる。
風光明媚と世界遺産さえ見ればいい。
いやなものは見ない、難しいことは避ける。   
あんなに日本人が世界に出かけながら一向に世界が見えないのは、そうした事なかれ主義の結果だろう。   
それでもただの観光にしない工夫はできる。
観察することだ。
例えばベトナムの街では「Nanghi」の看板がやたら目につく。
ガイドに聞けばニャギと読んで、ラブホテルのことだと分かる。
共産主義は教条と道徳性が柱だ。
ふしだらや不謹慎は厳に戒められる。
旧ソ連時代に見たバレエではチュチュの下にズボンをはかせ、女の脚線は見せてもらえなかった。
*昨夜NHK BS放送で「世界のドキメンタリー」、フルシチョフ アメリカを行く、を見た。
戦後アイゼンハワーが米国大統領だった1959年秋、フルシチョフが初めて米国を訪れたときのドキュメンタリー映像だった。
私は思ったのである。
何十年も、テレビを見続けてきて、ただのいちどもこの映像を見たことがないと言うこと。
つまり日本のテレビ局はこのような誰もが見るべき映像をただのいちども放映してこなかったのである。
くだらない番組やワイドショーの類を朝から晩まで流して。
やっと放映したのは昨夜の深夜の12時である。
おかげで貴重な睡眠時間を1時間も減らす羽目になった。
この中で、フルシチョフ夫妻をもてなす歓迎を兼ねた舞台で演じられたのが、フレンチカンカンだったのは、こういうあてつけだった事を、これを読んで理解した。
それにしても、当時の米国人の野卑さもまた際立っていた。
国賓として迎えたフルシチョフが米国内を歴訪する。
ロサンゼルス市長の歓迎晩さん会でのスピーチは、これ以上ない無礼なもので、フルシチョフは終に堪忍袋の緒を切って、猛烈に怒って反論するのである。
この一幕は、明らかにフルシチョフに軍配が上がるやりとりだった。
米国には様々な人がいるわけだが、今だって、この時のロサンゼルス市長のような、知性の足りない、独りよがりな野卑さというものは、至る所に存在しているのだろう。
その事を従軍慰安婦像の設置を決議する米国の地方議会は証明している。*

この稿続く。


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