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文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

以下はリアルタイムのベスト10である。

2019年06月24日 21時51分55秒 | 全般

1

辻元清美の両親の国籍は韓国なんでしょうか? 国籍が韓国である噂は多かったので、 帰化の噂の真相を調べてみますと、

2

以下はアメーバにおける今日の公式ハッシュタグランクイン記事一覧である。

3

合衆国はジャップとの戦いに参加させるために、ロシアを賄賂で釣るようなことをしてしまった。まったく不要なことであった。こんなに意味のない賄賂が、これまでにあっただろうか

4

ルーズベルト大統領の千島列島や北方領土を含む日本領土のソ連への移転を約束した署名がアメリカの大統領権限を越えていること

5

つまり英政府は当初から、ヤルタ密約の法的な有効性に疑問を抱いていました。 しかしチャーチルはそれを知りつつ、ルーズベルトとの関係を円滑にするため自国の内閣にすら知らせず

6

「鉄のカーテン」演説において「西側民主主義国家、とりわけイギリスとアメリカは、際限なく力と思想の拡散を続けるソビエトの動きを抑制しなくてはならない」と述べていますが

7

つまりミイラ取りがミイラになったわけで、アメリカをうまく取り込もうとした大英帝国が逆にアメリカによって潰されたというのが、二十世紀の二つの大戦における世界史的な意義だといえます

8

以下はリアルタイムのベスト10である。

9

CIA(中央情報局)のある論文によれば当時、大使館内の会話は完全に盗聴されており、ルーズベルトの判断がいかに安全保障上、危険で愚かだったかを論じています。

10

スターリンとの「同衾」がどんな結果をもたらすかについて、大戦前からわかりきっていた英国保守派からすれば「いまごろ気付いたのか、馬鹿野郎」と思ったにちがいありません(笑)


CIA(中央情報局)のある論文によれば当時、大使館内の会話は完全に盗聴されており、ルーズベルトの判断がいかに安全保障上、危険で愚かだったかを論じています。

2019年06月24日 20時27分50秒 | 全般

スターリンとの「同衾」がどんな結果をもたらすかについて、大戦前からわかりきっていた英国保守派からすれば「いまごろ気付いたのか、と題して2018-07-17に発信した章である。
以下は日本国民が読むべし月刊誌の一つであるVoice今月号に「ヤルタの不正義をいまこそ正せ、今日のアジアの混乱の元凶」、と題して掲載されている中西輝政(京都大学名誉教授)と渡辺惣樹(日米近現代史研究家)の対談特集からである。
歴史を学んでいる学生を含む日本人全員と世界中の人たちが読むべき特集である。
スターリンとの愚かな「同衾」
渡辺 
1945年2月、ソビエト領のクリミア半島ヤルタでフランクリン・D・ルーズベルト、ウィンストン・チャーチル、J・スターリンの三巨頭による会談が行なわれました(ヤルタ会談)。
秘密協定として「ソビエトがドイツ人捕虜を強制労働に就かせること」や「千島列島および南樺太、満洲における諸権益のソビエトへの割譲」が交わされました。
秘密合意の内容がアメリカ国民に明らかにされたのは翌46年2月のことで、『二ユーヨーク・ワールド・テレグラム』紙は次のように政府を批判しました。
「合衆国はジャップとの戦いに参加させるために、ロシアを賄賂で釣るようなことをしてしまった。まったく不要なことであった。こんなに意味のない賄賂が、これまでにあっただろうか」。  
中西 
ヤルタ密約の不正義については、じつはチャーチル首相もよくわかっていました。
終戦から約半年後の1946年2月、密約の公表直前に英外務省が全在外公館に宛てた公電のなかで、ルーズベルト大統領の千島列島や北方領土を含む日本領土のソ連への移転を約束した署名がアメリカの大統領権限を越えていること、とくに、この協定に対する米議会の批准もない状況下でのヤルタ協定の有効性について深い疑念を示しています。
つまり英政府は当初から、ヤルタ密約の法的な有効性に疑問を抱いていました。
しかしチャーチルはそれを知りつつ、ルーズベルトとの関係を円滑にするため自国の内閣にすら知らせずに署名したのですから、米英とも道義的に見てたいへん大きな問題があったといえるでしょう。  
二十世紀の初頭から、チャーチルらイギリスのエリートは大英帝国の失墜に深刻な懸念を抱きはじめます。
そのなかから生まれてきた潮流の一つが、アメリカを抱き込んでイギリスの覇権を維持しようとする「アングロ・サクソニズム」でした。
しかし、それは大英帝国がパクス・アメリカーナ(アメリカによる支配)に吸収されていく過程でもあった。
つまりミイラ取りがミイラになったわけで、アメリカをうまく取り込もうとした大英帝国が逆にアメリカによって潰されたというのが、二十世紀の二つの大戦における世界史的な意義だといえます。
そしてヤルタ会談はまさに「イギリスの落日」の最後の歴史的瞬間であった、と私は思います。 
渡辺 
ヤルタ会談から約1年後の1946年3月、チャーチルは「鉄のカーテン」演説において「西側民主主義国家、とりわけイギリスとアメリカは、際限なく力と思想の拡散を続けるソビエトの動きを抑制しなくてはならない」と述べていますが、スターリンとの「同衾」がどんな結果をもたらすかについて、大戦前からわかりきっていた英国保守派からすれば「いまごろ気付いたのか、馬鹿野郎」と思ったにちがいありません(笑)。 
中西 
ルーズベルトは(ヨシフ=ジョゼフ・)スターリンに対し、親しみを込めて「アンクル・ジョー(ジョー叔父さん)」と呼んでいました。
しかし、これはあくまでもアメリカ国民にソビエトとの友好をアピールする演出にすぎず、アメリカの支配層はソビエトへの警戒を決して解いてはいなかった。  
では、ヤルタ会談におけるルーズベルトのスターリンに対する異常なまでの譲歩をどう説明したらよいのか。 
ときどき日本の保守論壇で「ルーズベルトは共産主義者に洗脳されていた」という論調を見かけますが、事はそれほど単純な話ではないでしょう。
チャーチルやスターリンほど教養はなかったが、アメリカの世界覇権をめざして第二次大戦への参戦を推進していった手腕など、戦略家としてみれば、ルーズベルトの能力はやはり一級だったと思います。 
渡辺 
そもそも、ルーズベルトは共産主義関連の本を読んだ形跡がいっさいない。
おそらくマルクスやレーニンの基本文献すら目を通したことがないでしょう。
無教養なのに「結果としては一流の戦略家」と思わざるをえないところがルーズベルト解釈の難しさでしょう。 
中西 
共産主義関連の本を熱心に読んでいたのは、むしろ「赤いファースト・レデイ」と仇名された夫人のエレノア・ルーズベルトのほうですね。 
渡辺 
私は、ルーズベルトにはスターリンを意のままに操れる自信というか、過信があったのではないか、と見ています。
1943年11~12月、ヤルタ会談と同じ米英ソの三巨頭が集まったテヘラン会談において、ルーズベルトはソビエト大使館に宿泊しました。
CIA(中央情報局)のある論文によれば当時、大使館内の会話は完全に盗聴されており、ルーズベルトの判断がいかに安全保障上、危険で愚かだったかを論じています。
ルーズベルトはソビエトに対し、政権内の情報をまるで「露出狂」のように晒していました。  
しかし、だからこそ私は「ルーズベルトはスターリンの共産スパイによって操られていた」という見方を取りきれないのです。
逆にルーズベルトとしては機密情報をあえて流出させることで、ソビエトを操っているつもりだったのかもしれない。
スターリンに対してあれほど無警戒だったのも、自らが戦略的に有利な立場である、と信じていたからではないでしょうか。 
中西 
結局のところ、ルーズベルトの狙いは大英帝国を潰してアメリカが世界の覇権を握ることにあり、日本やソビエトはそのための駒にすぎなかった。
そして、この狙いは半分成功しアメリカは大戦後、世界の覇権国となった。
冷戦は、そのためのコストだったといえるでしょう。
日本はうまく取り込んだが、ソビエトには思いのほか手こずったということでしょうか。
その意味でも、ルーズベルトがソビエトに操られていたというのはやはり誤りでしょう。 
この稿続く。


共産主義関連の本を熱心に読んでいたのは、むしろ「赤いファースト・レデイ」と仇名された夫人のエレノア・ルーズベルトのほうですね。 

2019年06月24日 20時26分48秒 | 全般

スターリンとの「同衾」がどんな結果をもたらすかについて、大戦前からわかりきっていた英国保守派からすれば「いまごろ気付いたのか、と題して2018-07-17に発信した章である。
以下は日本国民が読むべし月刊誌の一つであるVoice今月号に「ヤルタの不正義をいまこそ正せ、今日のアジアの混乱の元凶」、と題して掲載されている中西輝政(京都大学名誉教授)と渡辺惣樹(日米近現代史研究家)の対談特集からである。
歴史を学んでいる学生を含む日本人全員と世界中の人たちが読むべき特集である。
スターリンとの愚かな「同衾」
渡辺 
1945年2月、ソビエト領のクリミア半島ヤルタでフランクリン・D・ルーズベルト、ウィンストン・チャーチル、J・スターリンの三巨頭による会談が行なわれました(ヤルタ会談)。
秘密協定として「ソビエトがドイツ人捕虜を強制労働に就かせること」や「千島列島および南樺太、満洲における諸権益のソビエトへの割譲」が交わされました。
秘密合意の内容がアメリカ国民に明らかにされたのは翌46年2月のことで、『二ユーヨーク・ワールド・テレグラム』紙は次のように政府を批判しました。
「合衆国はジャップとの戦いに参加させるために、ロシアを賄賂で釣るようなことをしてしまった。まったく不要なことであった。こんなに意味のない賄賂が、これまでにあっただろうか」。  
中西 
ヤルタ密約の不正義については、じつはチャーチル首相もよくわかっていました。
終戦から約半年後の1946年2月、密約の公表直前に英外務省が全在外公館に宛てた公電のなかで、ルーズベルト大統領の千島列島や北方領土を含む日本領土のソ連への移転を約束した署名がアメリカの大統領権限を越えていること、とくに、この協定に対する米議会の批准もない状況下でのヤルタ協定の有効性について深い疑念を示しています。
つまり英政府は当初から、ヤルタ密約の法的な有効性に疑問を抱いていました。
しかしチャーチルはそれを知りつつ、ルーズベルトとの関係を円滑にするため自国の内閣にすら知らせずに署名したのですから、米英とも道義的に見てたいへん大きな問題があったといえるでしょう。  
二十世紀の初頭から、チャーチルらイギリスのエリートは大英帝国の失墜に深刻な懸念を抱きはじめます。
そのなかから生まれてきた潮流の一つが、アメリカを抱き込んでイギリスの覇権を維持しようとする「アングロ・サクソニズム」でした。
しかし、それは大英帝国がパクス・アメリカーナ(アメリカによる支配)に吸収されていく過程でもあった。
つまりミイラ取りがミイラになったわけで、アメリカをうまく取り込もうとした大英帝国が逆にアメリカによって潰されたというのが、二十世紀の二つの大戦における世界史的な意義だといえます。
そしてヤルタ会談はまさに「イギリスの落日」の最後の歴史的瞬間であった、と私は思います。 
渡辺 
ヤルタ会談から約1年後の1946年3月、チャーチルは「鉄のカーテン」演説において「西側民主主義国家、とりわけイギリスとアメリカは、際限なく力と思想の拡散を続けるソビエトの動きを抑制しなくてはならない」と述べていますが、スターリンとの「同衾」がどんな結果をもたらすかについて、大戦前からわかりきっていた英国保守派からすれば「いまごろ気付いたのか、馬鹿野郎」と思ったにちがいありません(笑)。 
中西 
ルーズベルトは(ヨシフ=ジョゼフ・)スターリンに対し、親しみを込めて「アンクル・ジョー(ジョー叔父さん)」と呼んでいました。
しかし、これはあくまでもアメリカ国民にソビエトとの友好をアピールする演出にすぎず、アメリカの支配層はソビエトへの警戒を決して解いてはいなかった。  
では、ヤルタ会談におけるルーズベルトのスターリンに対する異常なまでの譲歩をどう説明したらよいのか。 
ときどき日本の保守論壇で「ルーズベルトは共産主義者に洗脳されていた」という論調を見かけますが、事はそれほど単純な話ではないでしょう。
チャーチルやスターリンほど教養はなかったが、アメリカの世界覇権をめざして第二次大戦への参戦を推進していった手腕など、戦略家としてみれば、ルーズベルトの能力はやはり一級だったと思います。 
渡辺 
そもそも、ルーズベルトは共産主義関連の本を読んだ形跡がいっさいない。
おそらくマルクスやレーニンの基本文献すら目を通したことがないでしょう。
無教養なのに「結果としては一流の戦略家」と思わざるをえないところがルーズベルト解釈の難しさでしょう。 
中西 
共産主義関連の本を熱心に読んでいたのは、むしろ「赤いファースト・レデイ」と仇名された夫人のエレノア・ルーズベルトのほうですね。 
渡辺 
私は、ルーズベルトにはスターリンを意のままに操れる自信というか、過信があったのではないか、と見ています。
1943年11~12月、ヤルタ会談と同じ米英ソの三巨頭が集まったテヘラン会談において、ルーズベルトはソビエト大使館に宿泊しました。
CIA(中央情報局)のある論文によれば当時、大使館内の会話は完全に盗聴されており、ルーズベルトの判断がいかに安全保障上、危険で愚かだったかを論じています。
ルーズベルトはソビエトに対し、政権内の情報をまるで「露出狂」のように晒していました。  
しかし、だからこそ私は「ルーズベルトはスターリンの共産スパイによって操られていた」という見方を取りきれないのです。
逆にルーズベルトとしては機密情報をあえて流出させることで、ソビエトを操っているつもりだったのかもしれない。
スターリンに対してあれほど無警戒だったのも、自らが戦略的に有利な立場である、と信じていたからではないでしょうか。 
中西 
結局のところ、ルーズベルトの狙いは大英帝国を潰してアメリカが世界の覇権を握ることにあり、日本やソビエトはそのための駒にすぎなかった。
そして、この狙いは半分成功しアメリカは大戦後、世界の覇権国となった。
冷戦は、そのためのコストだったといえるでしょう。
日本はうまく取り込んだが、ソビエトには思いのほか手こずったということでしょうか。
その意味でも、ルーズベルトがソビエトに操られていたというのはやはり誤りでしょう。 
この稿続く。


スターリンとの「同衾」がどんな結果をもたらすかについて、大戦前からわかりきっていた英国保守派からすれば「いまごろ気付いたのか、馬鹿野郎」と思ったにちがいありません(笑)

2019年06月24日 20時25分09秒 | 全般

スターリンとの「同衾」がどんな結果をもたらすかについて、大戦前からわかりきっていた英国保守派からすれば「いまごろ気付いたのか、と題して2018-07-17に発信した章である。
以下は日本国民が読むべし月刊誌の一つであるVoice今月号に「ヤルタの不正義をいまこそ正せ、今日のアジアの混乱の元凶」、と題して掲載されている中西輝政(京都大学名誉教授)と渡辺惣樹(日米近現代史研究家)の対談特集からである。
歴史を学んでいる学生を含む日本人全員と世界中の人たちが読むべき特集である。
スターリンとの愚かな「同衾」
渡辺 
1945年2月、ソビエト領のクリミア半島ヤルタでフランクリン・D・ルーズベルト、ウィンストン・チャーチル、J・スターリンの三巨頭による会談が行なわれました(ヤルタ会談)。
秘密協定として「ソビエトがドイツ人捕虜を強制労働に就かせること」や「千島列島および南樺太、満洲における諸権益のソビエトへの割譲」が交わされました。
秘密合意の内容がアメリカ国民に明らかにされたのは翌46年2月のことで、『二ユーヨーク・ワールド・テレグラム』紙は次のように政府を批判しました。
「合衆国はジャップとの戦いに参加させるために、ロシアを賄賂で釣るようなことをしてしまった。まったく不要なことであった。こんなに意味のない賄賂が、これまでにあっただろうか」。  
中西 
ヤルタ密約の不正義については、じつはチャーチル首相もよくわかっていました。
終戦から約半年後の1946年2月、密約の公表直前に英外務省が全在外公館に宛てた公電のなかで、ルーズベルト大統領の千島列島や北方領土を含む日本領土のソ連への移転を約束した署名がアメリカの大統領権限を越えていること、とくに、この協定に対する米議会の批准もない状況下でのヤルタ協定の有効性について深い疑念を示しています。
つまり英政府は当初から、ヤルタ密約の法的な有効性に疑問を抱いていました。
しかしチャーチルはそれを知りつつ、ルーズベルトとの関係を円滑にするため自国の内閣にすら知らせずに署名したのですから、米英とも道義的に見てたいへん大きな問題があったといえるでしょう。  
二十世紀の初頭から、チャーチルらイギリスのエリートは大英帝国の失墜に深刻な懸念を抱きはじめます。
そのなかから生まれてきた潮流の一つが、アメリカを抱き込んでイギリスの覇権を維持しようとする「アングロ・サクソニズム」でした。
しかし、それは大英帝国がパクス・アメリカーナ(アメリカによる支配)に吸収されていく過程でもあった。
つまりミイラ取りがミイラになったわけで、アメリカをうまく取り込もうとした大英帝国が逆にアメリカによって潰されたというのが、二十世紀の二つの大戦における世界史的な意義だといえます。
そしてヤルタ会談はまさに「イギリスの落日」の最後の歴史的瞬間であった、と私は思います。 
渡辺 
ヤルタ会談から約1年後の1946年3月、チャーチルは「鉄のカーテン」演説において「西側民主主義国家、とりわけイギリスとアメリカは、際限なく力と思想の拡散を続けるソビエトの動きを抑制しなくてはならない」と述べていますが、スターリンとの「同衾」がどんな結果をもたらすかについて、大戦前からわかりきっていた英国保守派からすれば「いまごろ気付いたのか、馬鹿野郎」と思ったにちがいありません(笑)。 
中西 
ルーズベルトは(ヨシフ=ジョゼフ・)スターリンに対し、親しみを込めて「アンクル・ジョー(ジョー叔父さん)」と呼んでいました。
しかし、これはあくまでもアメリカ国民にソビエトとの友好をアピールする演出にすぎず、アメリカの支配層はソビエトへの警戒を決して解いてはいなかった。  
では、ヤルタ会談におけるルーズベルトのスターリンに対する異常なまでの譲歩をどう説明したらよいのか。 
ときどき日本の保守論壇で「ルーズベルトは共産主義者に洗脳されていた」という論調を見かけますが、事はそれほど単純な話ではないでしょう。
チャーチルやスターリンほど教養はなかったが、アメリカの世界覇権をめざして第二次大戦への参戦を推進していった手腕など、戦略家としてみれば、ルーズベルトの能力はやはり一級だったと思います。 
渡辺 
そもそも、ルーズベルトは共産主義関連の本を読んだ形跡がいっさいない。
おそらくマルクスやレーニンの基本文献すら目を通したことがないでしょう。
無教養なのに「結果としては一流の戦略家」と思わざるをえないところがルーズベルト解釈の難しさでしょう。 
中西 
共産主義関連の本を熱心に読んでいたのは、むしろ「赤いファースト・レデイ」と仇名された夫人のエレノア・ルーズベルトのほうですね。 
渡辺 
私は、ルーズベルトにはスターリンを意のままに操れる自信というか、過信があったのではないか、と見ています。
1943年11~12月、ヤルタ会談と同じ米英ソの三巨頭が集まったテヘラン会談において、ルーズベルトはソビエト大使館に宿泊しました。
CIA(中央情報局)のある論文によれば当時、大使館内の会話は完全に盗聴されており、ルーズベルトの判断がいかに安全保障上、危険で愚かだったかを論じています。
ルーズベルトはソビエトに対し、政権内の情報をまるで「露出狂」のように晒していました。  
しかし、だからこそ私は「ルーズベルトはスターリンの共産スパイによって操られていた」という見方を取りきれないのです。
逆にルーズベルトとしては機密情報をあえて流出させることで、ソビエトを操っているつもりだったのかもしれない。
スターリンに対してあれほど無警戒だったのも、自らが戦略的に有利な立場である、と信じていたからではないでしょうか。 
中西 
結局のところ、ルーズベルトの狙いは大英帝国を潰してアメリカが世界の覇権を握ることにあり、日本やソビエトはそのための駒にすぎなかった。
そして、この狙いは半分成功しアメリカは大戦後、世界の覇権国となった。
冷戦は、そのためのコストだったといえるでしょう。
日本はうまく取り込んだが、ソビエトには思いのほか手こずったということでしょうか。
その意味でも、ルーズベルトがソビエトに操られていたというのはやはり誤りでしょう。 
この稿続く。


「鉄のカーテン」演説において「西側民主主義国家、とりわけイギリスとアメリカは、際限なく力と思想の拡散を続けるソビエトの動きを抑制しなくてはならない」と述べていますが

2019年06月24日 20時23分27秒 | 全般

スターリンとの「同衾」がどんな結果をもたらすかについて、大戦前からわかりきっていた英国保守派からすれば「いまごろ気付いたのか、と題して2018-07-17に発信した章である。
以下は日本国民が読むべし月刊誌の一つであるVoice今月号に「ヤルタの不正義をいまこそ正せ、今日のアジアの混乱の元凶」、と題して掲載されている中西輝政(京都大学名誉教授)と渡辺惣樹(日米近現代史研究家)の対談特集からである。
歴史を学んでいる学生を含む日本人全員と世界中の人たちが読むべき特集である。
スターリンとの愚かな「同衾」
渡辺 
1945年2月、ソビエト領のクリミア半島ヤルタでフランクリン・D・ルーズベルト、ウィンストン・チャーチル、J・スターリンの三巨頭による会談が行なわれました(ヤルタ会談)。
秘密協定として「ソビエトがドイツ人捕虜を強制労働に就かせること」や「千島列島および南樺太、満洲における諸権益のソビエトへの割譲」が交わされました。
秘密合意の内容がアメリカ国民に明らかにされたのは翌46年2月のことで、『二ユーヨーク・ワールド・テレグラム』紙は次のように政府を批判しました。
「合衆国はジャップとの戦いに参加させるために、ロシアを賄賂で釣るようなことをしてしまった。まったく不要なことであった。こんなに意味のない賄賂が、これまでにあっただろうか」。  
中西 
ヤルタ密約の不正義については、じつはチャーチル首相もよくわかっていました。
終戦から約半年後の1946年2月、密約の公表直前に英外務省が全在外公館に宛てた公電のなかで、ルーズベルト大統領の千島列島や北方領土を含む日本領土のソ連への移転を約束した署名がアメリカの大統領権限を越えていること、とくに、この協定に対する米議会の批准もない状況下でのヤルタ協定の有効性について深い疑念を示しています。
つまり英政府は当初から、ヤルタ密約の法的な有効性に疑問を抱いていました。
しかしチャーチルはそれを知りつつ、ルーズベルトとの関係を円滑にするため自国の内閣にすら知らせずに署名したのですから、米英とも道義的に見てたいへん大きな問題があったといえるでしょう。  
二十世紀の初頭から、チャーチルらイギリスのエリートは大英帝国の失墜に深刻な懸念を抱きはじめます。
そのなかから生まれてきた潮流の一つが、アメリカを抱き込んでイギリスの覇権を維持しようとする「アングロ・サクソニズム」でした。
しかし、それは大英帝国がパクス・アメリカーナ(アメリカによる支配)に吸収されていく過程でもあった。
つまりミイラ取りがミイラになったわけで、アメリカをうまく取り込もうとした大英帝国が逆にアメリカによって潰されたというのが、二十世紀の二つの大戦における世界史的な意義だといえます。
そしてヤルタ会談はまさに「イギリスの落日」の最後の歴史的瞬間であった、と私は思います。 
渡辺 
ヤルタ会談から約1年後の1946年3月、チャーチルは「鉄のカーテン」演説において「西側民主主義国家、とりわけイギリスとアメリカは、際限なく力と思想の拡散を続けるソビエトの動きを抑制しなくてはならない」と述べていますが、スターリンとの「同衾」がどんな結果をもたらすかについて、大戦前からわかりきっていた英国保守派からすれば「いまごろ気付いたのか、馬鹿野郎」と思ったにちがいありません(笑)。 
中西 
ルーズベルトは(ヨシフ=ジョゼフ・)スターリンに対し、親しみを込めて「アンクル・ジョー(ジョー叔父さん)」と呼んでいました。
しかし、これはあくまでもアメリカ国民にソビエトとの友好をアピールする演出にすぎず、アメリカの支配層はソビエトへの警戒を決して解いてはいなかった。  
では、ヤルタ会談におけるルーズベルトのスターリンに対する異常なまでの譲歩をどう説明したらよいのか。 
ときどき日本の保守論壇で「ルーズベルトは共産主義者に洗脳されていた」という論調を見かけますが、事はそれほど単純な話ではないでしょう。
チャーチルやスターリンほど教養はなかったが、アメリカの世界覇権をめざして第二次大戦への参戦を推進していった手腕など、戦略家としてみれば、ルーズベルトの能力はやはり一級だったと思います。 
渡辺 
そもそも、ルーズベルトは共産主義関連の本を読んだ形跡がいっさいない。
おそらくマルクスやレーニンの基本文献すら目を通したことがないでしょう。
無教養なのに「結果としては一流の戦略家」と思わざるをえないところがルーズベルト解釈の難しさでしょう。 
中西 
共産主義関連の本を熱心に読んでいたのは、むしろ「赤いファースト・レデイ」と仇名された夫人のエレノア・ルーズベルトのほうですね。 
渡辺 
私は、ルーズベルトにはスターリンを意のままに操れる自信というか、過信があったのではないか、と見ています。
1943年11~12月、ヤルタ会談と同じ米英ソの三巨頭が集まったテヘラン会談において、ルーズベルトはソビエト大使館に宿泊しました。
CIA(中央情報局)のある論文によれば当時、大使館内の会話は完全に盗聴されており、ルーズベルトの判断がいかに安全保障上、危険で愚かだったかを論じています。
ルーズベルトはソビエトに対し、政権内の情報をまるで「露出狂」のように晒していました。  
しかし、だからこそ私は「ルーズベルトはスターリンの共産スパイによって操られていた」という見方を取りきれないのです。
逆にルーズベルトとしては機密情報をあえて流出させることで、ソビエトを操っているつもりだったのかもしれない。
スターリンに対してあれほど無警戒だったのも、自らが戦略的に有利な立場である、と信じていたからではないでしょうか。 
中西 
結局のところ、ルーズベルトの狙いは大英帝国を潰してアメリカが世界の覇権を握ることにあり、日本やソビエトはそのための駒にすぎなかった。
そして、この狙いは半分成功しアメリカは大戦後、世界の覇権国となった。
冷戦は、そのためのコストだったといえるでしょう。
日本はうまく取り込んだが、ソビエトには思いのほか手こずったということでしょうか。
その意味でも、ルーズベルトがソビエトに操られていたというのはやはり誤りでしょう。 
この稿続く。


つまりミイラ取りがミイラになったわけで、アメリカをうまく取り込もうとした大英帝国が逆にアメリカによって潰されたというのが、二十世紀の二つの大戦における世界史的な意義だといえます

2019年06月24日 20時21分56秒 | 全般

スターリンとの「同衾」がどんな結果をもたらすかについて、大戦前からわかりきっていた英国保守派からすれば「いまごろ気付いたのか、と題して2018-07-17に発信した章である。
以下は日本国民が読むべし月刊誌の一つであるVoice今月号に「ヤルタの不正義をいまこそ正せ、今日のアジアの混乱の元凶」、と題して掲載されている中西輝政(京都大学名誉教授)と渡辺惣樹(日米近現代史研究家)の対談特集からである。
歴史を学んでいる学生を含む日本人全員と世界中の人たちが読むべき特集である。
スターリンとの愚かな「同衾」
渡辺 
1945年2月、ソビエト領のクリミア半島ヤルタでフランクリン・D・ルーズベルト、ウィンストン・チャーチル、J・スターリンの三巨頭による会談が行なわれました(ヤルタ会談)。
秘密協定として「ソビエトがドイツ人捕虜を強制労働に就かせること」や「千島列島および南樺太、満洲における諸権益のソビエトへの割譲」が交わされました。
秘密合意の内容がアメリカ国民に明らかにされたのは翌46年2月のことで、『二ユーヨーク・ワールド・テレグラム』紙は次のように政府を批判しました。
「合衆国はジャップとの戦いに参加させるために、ロシアを賄賂で釣るようなことをしてしまった。まったく不要なことであった。こんなに意味のない賄賂が、これまでにあっただろうか」。  
中西 
ヤルタ密約の不正義については、じつはチャーチル首相もよくわかっていました。
終戦から約半年後の1946年2月、密約の公表直前に英外務省が全在外公館に宛てた公電のなかで、ルーズベルト大統領の千島列島や北方領土を含む日本領土のソ連への移転を約束した署名がアメリカの大統領権限を越えていること、とくに、この協定に対する米議会の批准もない状況下でのヤルタ協定の有効性について深い疑念を示しています。
つまり英政府は当初から、ヤルタ密約の法的な有効性に疑問を抱いていました。
しかしチャーチルはそれを知りつつ、ルーズベルトとの関係を円滑にするため自国の内閣にすら知らせずに署名したのですから、米英とも道義的に見てたいへん大きな問題があったといえるでしょう。  
二十世紀の初頭から、チャーチルらイギリスのエリートは大英帝国の失墜に深刻な懸念を抱きはじめます。
そのなかから生まれてきた潮流の一つが、アメリカを抱き込んでイギリスの覇権を維持しようとする「アングロ・サクソニズム」でした。
しかし、それは大英帝国がパクス・アメリカーナ(アメリカによる支配)に吸収されていく過程でもあった。
つまりミイラ取りがミイラになったわけで、アメリカをうまく取り込もうとした大英帝国が逆にアメリカによって潰されたというのが、二十世紀の二つの大戦における世界史的な意義だといえます。
そしてヤルタ会談はまさに「イギリスの落日」の最後の歴史的瞬間であった、と私は思います。 
渡辺 
ヤルタ会談から約1年後の1946年3月、チャーチルは「鉄のカーテン」演説において「西側民主主義国家、とりわけイギリスとアメリカは、際限なく力と思想の拡散を続けるソビエトの動きを抑制しなくてはならない」と述べていますが、スターリンとの「同衾」がどんな結果をもたらすかについて、大戦前からわかりきっていた英国保守派からすれば「いまごろ気付いたのか、馬鹿野郎」と思ったにちがいありません(笑)。 
中西 
ルーズベルトは(ヨシフ=ジョゼフ・)スターリンに対し、親しみを込めて「アンクル・ジョー(ジョー叔父さん)」と呼んでいました。
しかし、これはあくまでもアメリカ国民にソビエトとの友好をアピールする演出にすぎず、アメリカの支配層はソビエトへの警戒を決して解いてはいなかった。  
では、ヤルタ会談におけるルーズベルトのスターリンに対する異常なまでの譲歩をどう説明したらよいのか。 
ときどき日本の保守論壇で「ルーズベルトは共産主義者に洗脳されていた」という論調を見かけますが、事はそれほど単純な話ではないでしょう。
チャーチルやスターリンほど教養はなかったが、アメリカの世界覇権をめざして第二次大戦への参戦を推進していった手腕など、戦略家としてみれば、ルーズベルトの能力はやはり一級だったと思います。 
渡辺 
そもそも、ルーズベルトは共産主義関連の本を読んだ形跡がいっさいない。
おそらくマルクスやレーニンの基本文献すら目を通したことがないでしょう。
無教養なのに「結果としては一流の戦略家」と思わざるをえないところがルーズベルト解釈の難しさでしょう。 
中西 
共産主義関連の本を熱心に読んでいたのは、むしろ「赤いファースト・レデイ」と仇名された夫人のエレノア・ルーズベルトのほうですね。 
渡辺 
私は、ルーズベルトにはスターリンを意のままに操れる自信というか、過信があったのではないか、と見ています。
1943年11~12月、ヤルタ会談と同じ米英ソの三巨頭が集まったテヘラン会談において、ルーズベルトはソビエト大使館に宿泊しました。
CIA(中央情報局)のある論文によれば当時、大使館内の会話は完全に盗聴されており、ルーズベルトの判断がいかに安全保障上、危険で愚かだったかを論じています。
ルーズベルトはソビエトに対し、政権内の情報をまるで「露出狂」のように晒していました。  
しかし、だからこそ私は「ルーズベルトはスターリンの共産スパイによって操られていた」という見方を取りきれないのです。
逆にルーズベルトとしては機密情報をあえて流出させることで、ソビエトを操っているつもりだったのかもしれない。
スターリンに対してあれほど無警戒だったのも、自らが戦略的に有利な立場である、と信じていたからではないでしょうか。 
中西 
結局のところ、ルーズベルトの狙いは大英帝国を潰してアメリカが世界の覇権を握ることにあり、日本やソビエトはそのための駒にすぎなかった。
そして、この狙いは半分成功しアメリカは大戦後、世界の覇権国となった。
冷戦は、そのためのコストだったといえるでしょう。
日本はうまく取り込んだが、ソビエトには思いのほか手こずったということでしょうか。
その意味でも、ルーズベルトがソビエトに操られていたというのはやはり誤りでしょう。 
この稿続く。


つまり英政府は当初から、ヤルタ密約の法的な有効性に疑問を抱いていました。 しかしチャーチルはそれを知りつつ、ルーズベルトとの関係を円滑にするため自国の内閣にすら知らせず

2019年06月24日 20時19分09秒 | 全般

スターリンとの「同衾」がどんな結果をもたらすかについて、大戦前からわかりきっていた英国保守派からすれば「いまごろ気付いたのか、と題して2018-07-17に発信した章である。
以下は日本国民が読むべし月刊誌の一つであるVoice今月号に「ヤルタの不正義をいまこそ正せ、今日のアジアの混乱の元凶」、と題して掲載されている中西輝政(京都大学名誉教授)と渡辺惣樹(日米近現代史研究家)の対談特集からである。
歴史を学んでいる学生を含む日本人全員と世界中の人たちが読むべき特集である。
スターリンとの愚かな「同衾」
渡辺 
1945年2月、ソビエト領のクリミア半島ヤルタでフランクリン・D・ルーズベルト、ウィンストン・チャーチル、J・スターリンの三巨頭による会談が行なわれました(ヤルタ会談)。
秘密協定として「ソビエトがドイツ人捕虜を強制労働に就かせること」や「千島列島および南樺太、満洲における諸権益のソビエトへの割譲」が交わされました。
秘密合意の内容がアメリカ国民に明らかにされたのは翌46年2月のことで、『二ユーヨーク・ワールド・テレグラム』紙は次のように政府を批判しました。
「合衆国はジャップとの戦いに参加させるために、ロシアを賄賂で釣るようなことをしてしまった。まったく不要なことであった。こんなに意味のない賄賂が、これまでにあっただろうか」。  
中西 
ヤルタ密約の不正義については、じつはチャーチル首相もよくわかっていました。
終戦から約半年後の1946年2月、密約の公表直前に英外務省が全在外公館に宛てた公電のなかで、ルーズベルト大統領の千島列島や北方領土を含む日本領土のソ連への移転を約束した署名がアメリカの大統領権限を越えていること、とくに、この協定に対する米議会の批准もない状況下でのヤルタ協定の有効性について深い疑念を示しています。
つまり英政府は当初から、ヤルタ密約の法的な有効性に疑問を抱いていました。
しかしチャーチルはそれを知りつつ、ルーズベルトとの関係を円滑にするため自国の内閣にすら知らせずに署名したのですから、米英とも道義的に見てたいへん大きな問題があったといえるでしょう。  
二十世紀の初頭から、チャーチルらイギリスのエリートは大英帝国の失墜に深刻な懸念を抱きはじめます。
そのなかから生まれてきた潮流の一つが、アメリカを抱き込んでイギリスの覇権を維持しようとする「アングロ・サクソニズム」でした。
しかし、それは大英帝国がパクス・アメリカーナ(アメリカによる支配)に吸収されていく過程でもあった。
つまりミイラ取りがミイラになったわけで、アメリカをうまく取り込もうとした大英帝国が逆にアメリカによって潰されたというのが、二十世紀の二つの大戦における世界史的な意義だといえます。
そしてヤルタ会談はまさに「イギリスの落日」の最後の歴史的瞬間であった、と私は思います。 
渡辺 
ヤルタ会談から約1年後の1946年3月、チャーチルは「鉄のカーテン」演説において「西側民主主義国家、とりわけイギリスとアメリカは、際限なく力と思想の拡散を続けるソビエトの動きを抑制しなくてはならない」と述べていますが、スターリンとの「同衾」がどんな結果をもたらすかについて、大戦前からわかりきっていた英国保守派からすれば「いまごろ気付いたのか、馬鹿野郎」と思ったにちがいありません(笑)。 
中西 
ルーズベルトは(ヨシフ=ジョゼフ・)スターリンに対し、親しみを込めて「アンクル・ジョー(ジョー叔父さん)」と呼んでいました。
しかし、これはあくまでもアメリカ国民にソビエトとの友好をアピールする演出にすぎず、アメリカの支配層はソビエトへの警戒を決して解いてはいなかった。  
では、ヤルタ会談におけるルーズベルトのスターリンに対する異常なまでの譲歩をどう説明したらよいのか。 
ときどき日本の保守論壇で「ルーズベルトは共産主義者に洗脳されていた」という論調を見かけますが、事はそれほど単純な話ではないでしょう。
チャーチルやスターリンほど教養はなかったが、アメリカの世界覇権をめざして第二次大戦への参戦を推進していった手腕など、戦略家としてみれば、ルーズベルトの能力はやはり一級だったと思います。 
渡辺 
そもそも、ルーズベルトは共産主義関連の本を読んだ形跡がいっさいない。
おそらくマルクスやレーニンの基本文献すら目を通したことがないでしょう。
無教養なのに「結果としては一流の戦略家」と思わざるをえないところがルーズベルト解釈の難しさでしょう。 
中西 
共産主義関連の本を熱心に読んでいたのは、むしろ「赤いファースト・レデイ」と仇名された夫人のエレノア・ルーズベルトのほうですね。 
渡辺 
私は、ルーズベルトにはスターリンを意のままに操れる自信というか、過信があったのではないか、と見ています。
1943年11~12月、ヤルタ会談と同じ米英ソの三巨頭が集まったテヘラン会談において、ルーズベルトはソビエト大使館に宿泊しました。
CIA(中央情報局)のある論文によれば当時、大使館内の会話は完全に盗聴されており、ルーズベルトの判断がいかに安全保障上、危険で愚かだったかを論じています。
ルーズベルトはソビエトに対し、政権内の情報をまるで「露出狂」のように晒していました。  
しかし、だからこそ私は「ルーズベルトはスターリンの共産スパイによって操られていた」という見方を取りきれないのです。
逆にルーズベルトとしては機密情報をあえて流出させることで、ソビエトを操っているつもりだったのかもしれない。
スターリンに対してあれほど無警戒だったのも、自らが戦略的に有利な立場である、と信じていたからではないでしょうか。 
中西 
結局のところ、ルーズベルトの狙いは大英帝国を潰してアメリカが世界の覇権を握ることにあり、日本やソビエトはそのための駒にすぎなかった。
そして、この狙いは半分成功しアメリカは大戦後、世界の覇権国となった。
冷戦は、そのためのコストだったといえるでしょう。
日本はうまく取り込んだが、ソビエトには思いのほか手こずったということでしょうか。
その意味でも、ルーズベルトがソビエトに操られていたというのはやはり誤りでしょう。 
この稿続く。


ルーズベルト大統領の千島列島や北方領土を含む日本領土のソ連への移転を約束した署名がアメリカの大統領権限を越えていること

2019年06月24日 20時16分34秒 | 全般

スターリンとの「同衾」がどんな結果をもたらすかについて、大戦前からわかりきっていた英国保守派からすれば「いまごろ気付いたのか、と題して2018-07-17に発信した章である。
以下は日本国民が読むべし月刊誌の一つであるVoice今月号に「ヤルタの不正義をいまこそ正せ、今日のアジアの混乱の元凶」、と題して掲載されている中西輝政(京都大学名誉教授)と渡辺惣樹(日米近現代史研究家)の対談特集からである。
歴史を学んでいる学生を含む日本人全員と世界中の人たちが読むべき特集である。
スターリンとの愚かな「同衾」
渡辺 
1945年2月、ソビエト領のクリミア半島ヤルタでフランクリン・D・ルーズベルト、ウィンストン・チャーチル、J・スターリンの三巨頭による会談が行なわれました(ヤルタ会談)。
秘密協定として「ソビエトがドイツ人捕虜を強制労働に就かせること」や「千島列島および南樺太、満洲における諸権益のソビエトへの割譲」が交わされました。
秘密合意の内容がアメリカ国民に明らかにされたのは翌46年2月のことで、『二ユーヨーク・ワールド・テレグラム』紙は次のように政府を批判しました。
「合衆国はジャップとの戦いに参加させるために、ロシアを賄賂で釣るようなことをしてしまった。まったく不要なことであった。こんなに意味のない賄賂が、これまでにあっただろうか」。  
中西 
ヤルタ密約の不正義については、じつはチャーチル首相もよくわかっていました。
終戦から約半年後の1946年2月、密約の公表直前に英外務省が全在外公館に宛てた公電のなかで、ルーズベルト大統領の千島列島や北方領土を含む日本領土のソ連への移転を約束した署名がアメリカの大統領権限を越えていること、とくに、この協定に対する米議会の批准もない状況下でのヤルタ協定の有効性について深い疑念を示しています。
つまり英政府は当初から、ヤルタ密約の法的な有効性に疑問を抱いていました。
しかしチャーチルはそれを知りつつ、ルーズベルトとの関係を円滑にするため自国の内閣にすら知らせずに署名したのですから、米英とも道義的に見てたいへん大きな問題があったといえるでしょう。  
二十世紀の初頭から、チャーチルらイギリスのエリートは大英帝国の失墜に深刻な懸念を抱きはじめます。
そのなかから生まれてきた潮流の一つが、アメリカを抱き込んでイギリスの覇権を維持しようとする「アングロ・サクソニズム」でした。
しかし、それは大英帝国がパクス・アメリカーナ(アメリカによる支配)に吸収されていく過程でもあった。
つまりミイラ取りがミイラになったわけで、アメリカをうまく取り込もうとした大英帝国が逆にアメリカによって潰されたというのが、二十世紀の二つの大戦における世界史的な意義だといえます。
そしてヤルタ会談はまさに「イギリスの落日」の最後の歴史的瞬間であった、と私は思います。 
渡辺 
ヤルタ会談から約1年後の1946年3月、チャーチルは「鉄のカーテン」演説において「西側民主主義国家、とりわけイギリスとアメリカは、際限なく力と思想の拡散を続けるソビエトの動きを抑制しなくてはならない」と述べていますが、スターリンとの「同衾」がどんな結果をもたらすかについて、大戦前からわかりきっていた英国保守派からすれば「いまごろ気付いたのか、馬鹿野郎」と思ったにちがいありません(笑)。 
中西 
ルーズベルトは(ヨシフ=ジョゼフ・)スターリンに対し、親しみを込めて「アンクル・ジョー(ジョー叔父さん)」と呼んでいました。
しかし、これはあくまでもアメリカ国民にソビエトとの友好をアピールする演出にすぎず、アメリカの支配層はソビエトへの警戒を決して解いてはいなかった。  
では、ヤルタ会談におけるルーズベルトのスターリンに対する異常なまでの譲歩をどう説明したらよいのか。 
ときどき日本の保守論壇で「ルーズベルトは共産主義者に洗脳されていた」という論調を見かけますが、事はそれほど単純な話ではないでしょう。
チャーチルやスターリンほど教養はなかったが、アメリカの世界覇権をめざして第二次大戦への参戦を推進していった手腕など、戦略家としてみれば、ルーズベルトの能力はやはり一級だったと思います。 
渡辺 
そもそも、ルーズベルトは共産主義関連の本を読んだ形跡がいっさいない。
おそらくマルクスやレーニンの基本文献すら目を通したことがないでしょう。
無教養なのに「結果としては一流の戦略家」と思わざるをえないところがルーズベルト解釈の難しさでしょう。 
中西 
共産主義関連の本を熱心に読んでいたのは、むしろ「赤いファースト・レデイ」と仇名された夫人のエレノア・ルーズベルトのほうですね。 
渡辺 
私は、ルーズベルトにはスターリンを意のままに操れる自信というか、過信があったのではないか、と見ています。
1943年11~12月、ヤルタ会談と同じ米英ソの三巨頭が集まったテヘラン会談において、ルーズベルトはソビエト大使館に宿泊しました。
CIA(中央情報局)のある論文によれば当時、大使館内の会話は完全に盗聴されており、ルーズベルトの判断がいかに安全保障上、危険で愚かだったかを論じています。
ルーズベルトはソビエトに対し、政権内の情報をまるで「露出狂」のように晒していました。  
しかし、だからこそ私は「ルーズベルトはスターリンの共産スパイによって操られていた」という見方を取りきれないのです。
逆にルーズベルトとしては機密情報をあえて流出させることで、ソビエトを操っているつもりだったのかもしれない。
スターリンに対してあれほど無警戒だったのも、自らが戦略的に有利な立場である、と信じていたからではないでしょうか。 
中西 
結局のところ、ルーズベルトの狙いは大英帝国を潰してアメリカが世界の覇権を握ることにあり、日本やソビエトはそのための駒にすぎなかった。
そして、この狙いは半分成功しアメリカは大戦後、世界の覇権国となった。
冷戦は、そのためのコストだったといえるでしょう。
日本はうまく取り込んだが、ソビエトには思いのほか手こずったということでしょうか。
その意味でも、ルーズベルトがソビエトに操られていたというのはやはり誤りでしょう。 
この稿続く。


合衆国はジャップとの戦いに参加させるために、ロシアを賄賂で釣るようなことをしてしまった。まったく不要なことであった。こんなに意味のない賄賂が、これまでにあっただろうか

2019年06月24日 20時14分00秒 | 全般

スターリンとの「同衾」がどんな結果をもたらすかについて、大戦前からわかりきっていた英国保守派からすれば「いまごろ気付いたのか、と題して2018-07-17に発信した章である。
以下は日本国民が読むべし月刊誌の一つであるVoice今月号に「ヤルタの不正義をいまこそ正せ、今日のアジアの混乱の元凶」、と題して掲載されている中西輝政(京都大学名誉教授)と渡辺惣樹(日米近現代史研究家)の対談特集からである。
歴史を学んでいる学生を含む日本人全員と世界中の人たちが読むべき特集である。
スターリンとの愚かな「同衾」
渡辺 
1945年2月、ソビエト領のクリミア半島ヤルタでフランクリン・D・ルーズベルト、ウィンストン・チャーチル、J・スターリンの三巨頭による会談が行なわれました(ヤルタ会談)。
秘密協定として「ソビエトがドイツ人捕虜を強制労働に就かせること」や「千島列島および南樺太、満洲における諸権益のソビエトへの割譲」が交わされました。
秘密合意の内容がアメリカ国民に明らかにされたのは翌46年2月のことで、『二ユーヨーク・ワールド・テレグラム』紙は次のように政府を批判しました。
「合衆国はジャップとの戦いに参加させるために、ロシアを賄賂で釣るようなことをしてしまった。まったく不要なことであった。こんなに意味のない賄賂が、これまでにあっただろうか」。  
中西 
ヤルタ密約の不正義については、じつはチャーチル首相もよくわかっていました。
終戦から約半年後の1946年2月、密約の公表直前に英外務省が全在外公館に宛てた公電のなかで、ルーズベルト大統領の千島列島や北方領土を含む日本領土のソ連への移転を約束した署名がアメリカの大統領権限を越えていること、とくに、この協定に対する米議会の批准もない状況下でのヤルタ協定の有効性について深い疑念を示しています。
つまり英政府は当初から、ヤルタ密約の法的な有効性に疑問を抱いていました。
しかしチャーチルはそれを知りつつ、ルーズベルトとの関係を円滑にするため自国の内閣にすら知らせずに署名したのですから、米英とも道義的に見てたいへん大きな問題があったといえるでしょう。  
二十世紀の初頭から、チャーチルらイギリスのエリートは大英帝国の失墜に深刻な懸念を抱きはじめます。
そのなかから生まれてきた潮流の一つが、アメリカを抱き込んでイギリスの覇権を維持しようとする「アングロ・サクソニズム」でした。
しかし、それは大英帝国がパクス・アメリカーナ(アメリカによる支配)に吸収されていく過程でもあった。
つまりミイラ取りがミイラになったわけで、アメリカをうまく取り込もうとした大英帝国が逆にアメリカによって潰されたというのが、二十世紀の二つの大戦における世界史的な意義だといえます。
そしてヤルタ会談はまさに「イギリスの落日」の最後の歴史的瞬間であった、と私は思います。 
渡辺 
ヤルタ会談から約1年後の1946年3月、チャーチルは「鉄のカーテン」演説において「西側民主主義国家、とりわけイギリスとアメリカは、際限なく力と思想の拡散を続けるソビエトの動きを抑制しなくてはならない」と述べていますが、スターリンとの「同衾」がどんな結果をもたらすかについて、大戦前からわかりきっていた英国保守派からすれば「いまごろ気付いたのか、馬鹿野郎」と思ったにちがいありません(笑)。 
中西 
ルーズベルトは(ヨシフ=ジョゼフ・)スターリンに対し、親しみを込めて「アンクル・ジョー(ジョー叔父さん)」と呼んでいました。
しかし、これはあくまでもアメリカ国民にソビエトとの友好をアピールする演出にすぎず、アメリカの支配層はソビエトへの警戒を決して解いてはいなかった。  
では、ヤルタ会談におけるルーズベルトのスターリンに対する異常なまでの譲歩をどう説明したらよいのか。 
ときどき日本の保守論壇で「ルーズベルトは共産主義者に洗脳されていた」という論調を見かけますが、事はそれほど単純な話ではないでしょう。
チャーチルやスターリンほど教養はなかったが、アメリカの世界覇権をめざして第二次大戦への参戦を推進していった手腕など、戦略家としてみれば、ルーズベルトの能力はやはり一級だったと思います。 
渡辺 
そもそも、ルーズベルトは共産主義関連の本を読んだ形跡がいっさいない。
おそらくマルクスやレーニンの基本文献すら目を通したことがないでしょう。
無教養なのに「結果としては一流の戦略家」と思わざるをえないところがルーズベルト解釈の難しさでしょう。 
中西 
共産主義関連の本を熱心に読んでいたのは、むしろ「赤いファースト・レデイ」と仇名された夫人のエレノア・ルーズベルトのほうですね。 
渡辺 
私は、ルーズベルトにはスターリンを意のままに操れる自信というか、過信があったのではないか、と見ています。
1943年11~12月、ヤルタ会談と同じ米英ソの三巨頭が集まったテヘラン会談において、ルーズベルトはソビエト大使館に宿泊しました。
CIA(中央情報局)のある論文によれば当時、大使館内の会話は完全に盗聴されており、ルーズベルトの判断がいかに安全保障上、危険で愚かだったかを論じています。
ルーズベルトはソビエトに対し、政権内の情報をまるで「露出狂」のように晒していました。  
しかし、だからこそ私は「ルーズベルトはスターリンの共産スパイによって操られていた」という見方を取りきれないのです。
逆にルーズベルトとしては機密情報をあえて流出させることで、ソビエトを操っているつもりだったのかもしれない。
スターリンに対してあれほど無警戒だったのも、自らが戦略的に有利な立場である、と信じていたからではないでしょうか。 
中西 
結局のところ、ルーズベルトの狙いは大英帝国を潰してアメリカが世界の覇権を握ることにあり、日本やソビエトはそのための駒にすぎなかった。
そして、この狙いは半分成功しアメリカは大戦後、世界の覇権国となった。
冷戦は、そのためのコストだったといえるでしょう。
日本はうまく取り込んだが、ソビエトには思いのほか手こずったということでしょうか。
その意味でも、ルーズベルトがソビエトに操られていたというのはやはり誤りでしょう。 
この稿続く。


以下はアメーバにおける今日の公式ハッシュタグランクイン記事一覧である。

2019年06月24日 19時57分43秒 | 全般

公式ハッシュタグランクイン記事一覧


以下はリアルタイムのベスト10である。

2019年06月24日 14時34分17秒 | 全般

1

辻元清美の両親の国籍は韓国なんでしょうか? 国籍が韓国である噂は多かったので、 帰化の噂の真相を調べてみますと、

2

Il dopoguerra è iniziato con la violazione della Dichiarazione di Potsdam

3

L'après-guerre a commencé par la violation de la déclaration de Potsdam

4

Même si les stocks étaient épuisés, la plupart d'entre eux se sont battus sur le champ

5

La posguerra comenzó con la violación de la Declaración de Potsdam.

6

Послевоенный период начался с нарушения

7

O pós-guerra começou com a violação da Declaração de Potsdam

8

即使耗材耗尽,他们中的大多数人都在远处的战场上作战,

9

Die Nachkriegszeit begann mit der Verletzung der Potsdamer Erklärung

10

포스트 전은 포츠담 선언을 어 기고 시작되었다.


以下はリアルタイムのベスト10である。

2019年06月24日 13時21分04秒 | 全般

1

辻元清美の両親の国籍は韓国なんでしょうか? 国籍が韓国である噂は多かったので、 帰化の噂の真相を調べてみますと、

2

Il dopoguerra è iniziato con la violazione della Dichiarazione di Potsdam

3

L'après-guerre a commencé par la violation de la déclaration de Potsdam

4

報道したのは会場外に集った少数のトランプ反対派のインタビューだったのである。それどころか例によってNHKはトランプがアメリカを分断していると報道した

5

Même si les stocks étaient épuisés, la plupart d'entre eux se sont battus sur le champ

6

彼に「日本の報道機関の自由が侵されている」等と噴飯物の報告をさせている…その類の連中に情報を流しているのが福島瑞穂の旦那である弁護士達等のグループである

7

先日、大統領選挙への出馬を何万人もの支持者を集めた大会で正式に発表したトランプのスローガンが、これだった事の意味を、NHKのwatch9等は全く報道しなかった。

8

日本社会党や共産党に対してKGBがどれだけ直接的な支援を行ってきたか、政府の外務省の中にどういう工作員を潜入させ、その工作員の活動によって、日本の政治に

9

La posguerra comenzó con la violación de la Declaración de Potsdam.

10

Послевоенный период начался с нарушения


要はマスコミに騙されず、きちんと男系男子による皇位継承の意味がわかる人が増え、声をあげていくことが重要なんです。

2019年06月24日 11時48分04秒 | 全般

Y系天皇論
深田 
とは言え、上野さんの頭の中は「性」だけで占められすぎ。男子学生に対して「ナプキン」「タンポン」の話を吹っかけてくるんですから(笑)。
「おまんこと言え」に続いて羞恥プレイが続く。
それ、本当に学問なの?
竹内 
上野さんは2012年のツイートで「皇室典範は国連女性差別撤廃条約に違反している」とイチャモンをつけています。
深田 
男系であることがおかしいと。
竹内 
決して性差別によって男系が継承されてきたわけではありません。
性染色体の「Y」をつないでいるのです。
生殖細胞がつくられるとき、メスの「XX」は対になっているので、途中で「交差」という現象が起きます。
染色体のどこかにランダムに切れ目が入り、互いの中身を交換してから次のステップに進みます。
でも、「XY」は対ではないので、多くの場合はそのままの形で受け継がれていきます。 
極端なことを言えば、現天皇は神武天皇の「Y」をそのままほとんど変化することなく受け継いでいるのです。
その他の染色体に乗っている遺伝子については、ほんの数世代でほぼ消え去るのに対して、男系でつなげれば「Y」は永久といっていいくらいに元のままに保存されるのです。
深田 
そういうことでしたか!
竹内 
「Y」を一貫してつなげているのは、まさに日本の皇室だけ。世界の王室を見渡しても、存在していません。
だから羨望の的になるわけです。
マスコミは女性天皇論や女系天皇論を盛んに取り上げていますが、おかしな話です。
深田 
過去、確かに女性天皇は存在しました。
推古天皇や持統天皇、元明天皇、孝謙天皇(称徳天皇)などがそうです。 
でも、それは新しい男系天皇が立つまでのつなぎの役割だった。
竹内 
後継者問題で権力争いが激しかったため、それを抑えるために、独身女性が天皇になったのです。
もしくはお世継ぎの皇子が幼いから成人するまでのつなぎの場合もありました。
女性天皇が男系ではない男性、つまり皇室の「Y」を持たない男性と結婚し、その子供が天皇の位につくことは一度たりともなかったのです。
深田 
ヨーロッパの王室では、そんなことありません。
竹内 
イギリスの王室も女王が立つと、その息子が次の王となります。
つまり、息子には女王の夫の「Y」が受け継がれているから、「Y」がぶつ切りになる。 
王朝名も、たとえばヴィクトリア女王が亡くなり、長男のエドワード七世が王となったとき、女王の夫君のアルバート公のドイツの実家の名にちなみ、「サクス=コバーグ=ゴータ」と変わりました。
ただ第一次世界大戦で英独が敵国となったため、城の名をとり、「ウィンザー」となりました。
つまり、無意識的にしろ、「Y」が乗っ取られたことがわかっているんですよ。
深田 
今こそ「Y系天皇論」で考えるべきですね。
竹内 
皇室の代々の「Y」を持っている男子を皇位に立てる。
現在、次の継承者は秋篠宮皇嗣殿下と悠仁親王殿下だけ。
戦後、GHQは11の宮家を廃絶させました。
その中で「Y」を持った宮家は現在、4家です。
宮家を復帰させるのは、一つの方法だと思いますが。 
それからある国会議員の先生に伺ったのですが、旧宮家の復活を望むとか、皇室典範を改正して皇族が養子を、つまり旧宮家の男子を養子にとれるようにしてほしいという国民の声さえ大きくなれば、いくらでもそうさせる方法はあるそうです。
要はマスコミに騙されず、きちんと男系男子による皇位継承の意味がわかる人が増え、声をあげていくことが重要なんです。