以下は戦後の世界で唯一無二のジャーナリストである高山正之の最新刊からである。
毎年、朝鮮通信使が文化の運搬役だったみたいな報道をするNHK大阪に巣くっている在日韓国人達或いは朝日新聞を購読して育った左翼小児病患者達は、この章を括目して読まなければならないのである。
盗人がエラそうなことを言うな
前文省略
まだ集合住宅ができる前で、各家庭は家の前にゴミ箱を置いていた。
生ゴミや落ち葉はどこの家庭でも庭で燃した。
金物は別に屑屋がいたから、さてどんなゴミを出したか覚えていないが、そのゴミ箱を浚(さら)うのがバタ屋だった。
命名の根拠は上蓋を開けてばたんと閉じる。
その音からだと言われた。
ほかに乞食もいたはずだが、アコーディオンを弾く傷痍軍人しか記憶にない。
乞食は托鉢が原義で、食べ物を乞うという意味だが、日本の乞食は銭を乞うと室町時代にきた朝鮮通信使が驚きをもって記録している。
そのころの朝鮮はまだ物々交換の時代で、貨幣や商いなど知らなかったからだ。
彼等はメッキの技法や紙漉きの技術、とくに田に水を引く水車の作り方を尋ねた。
その知識を持ち帰るのが使命だった。
日本は喜んで教えた。
例えば水車は模型まで作ってやったが、彼らには難しすぎたのか普及はしなかった。
朝鮮通信使は暫く中断の後、江戸時代に再びやってくるようになった。
18世紀に大坂にきた金仁謙は自国の家の屋根が藁葺(わらぶき)なのに「日本はすべて瓦屋根」だったのに驚き、「中国の伝説に言う楽園は大坂のことだった。漢城(今のソウル)の1万倍の素晴らしさだ。恨めしい」と嫉妬を込めて記録している。
このころ彼等は供応の宴に出された蒔絵の塗り膳や床の間の陶磁器から夜具まで片端から盗んでいった。
見かねた新井白石は通信使の接遇を簡素化し、宴にいい器を出すのを禁じた。
何でも盗んでいったソウルが今頃になって「日本が奪った王朝儀軌を返せ」と言い出した。
李氏朝鮮時代の歴史書だが、日本が持っているのはその写本だ。
同じ李朝の王様が作った諺文も忘れ、日本が復刻してやった。
「儀軌」も同じ。
原本とは別に写本を作り原本に足りない部分も日本が補って保管してきた。
案の定、彼等は原本を散逸してしまった。
日韓基本条約ではお互い文化財も含む請求権を放棄しているが、ここは例の如くというか因縁付けてごねるという竹島方式に出てきた。
正直言えば日本には持っていたところでそれがどうしたみたいなしろものだ。
むしろ日韓基本条約で放棄した京城大に残る大谷光瑞探検隊の考古学資料や対馬の宗家の文書の方がはるかに重要だが、彼らは返さない。
因みにソウル博物館の目玉のミイラも大谷隊が発掘したものだ。
向こうからの返還要求に対しては対馬家文書やミイラだけでなく彼等が江戸時代、日本から盗んでいった蒔絵の塗り膳も取り返すいい機会になるはずだった。
そこに菅直人が出てきた。
友人が孫正義、股肱の臣があちらの帰化人という陣立てだから、あっさり「儀軌」写本を返しますと約束してしまった。
日本からの返還要求はなし。
韓国が強気だったのはサルコジが仏新幹線TGVの売り込みを条件に、奪った朝鮮古文書の返還をOKしたからだ。
フランスはギリシヤからのパルテノンの遺物返還には断固応じていない。
でも朝鮮ものには何の愛着も示さなかった。
そしたらホテルオークラがその庭園にうっそり立つ朝鮮石塔も返すという話になった。
こっちはただでいいと。
みんな捨てられないゴミに悩んでいた。
とてもいい機会だと思ったのだろうか。 (2011年6月16日号)