以下は前章の続きである。
「言葉のチカラ」で反安倍宣伝を繰り返す
いま安倍氏が置かれている状況には既視感がある。
現財務相の麻生太郎氏が首相時代、私は長谷川三千子氏に乞うて、編集長を務めていた『正論』(平成19年9月号)に「難病としての民主主義」と題する一文を寄せていただいた。
長谷川氏は〈悪い政府を罰する〉こと、これこそが〈二千数百年前の古代アテナイにおける民主政以来、終始一貫して変ることのない民主主義イデオロギイの核心〉であるとし、肝心なことは、人々が「悪い」「良くない」と感じる、その感じ方はくまつたく気まぐれなもの〉で、〈それに従って「良い政府を実現する」ことができるなどと期待してはならない〉と述べた。
そして、人々の感じ方に関わることとして〈民主主義イデオロギイの内側において、政府を罰する役割をになった聖なる仕事と考へられてゐるのが、ジャーナリズムといふものである。そのことは、時とするとジャーナリスト自身によって、高らかに宣言されたりもするのである〉と述べ、こう続けた。
〈朝日新聞が、「ジャーナリスト宣言」なるものを出したことがあった。(略)「不偏不党の地に立って言論の自由を貫き」「一切の不法と暴力を排して腐敗と闘う」といふ、「朝日新聞綱領」にうたはれてゐる「その原点を今一度見つめ直」すためになされた宣言である。(略)その第一弾は、こんな「宣言」だったのである―「言葉は感情的で、残酷で、ときに無力だ。それでも私たちは信じている、言葉のチカラを」。
これはどう見ても、「不偏不党の地に立って」客観的な正しい報道を目指してゐる人間の言葉ではあり得ない。
これは明らかに「宣伝者」の宣言であって、ここに語られてゐる「言葉のチカラ」は、宣伝における言葉の力と考へるほかはない。
宣伝とは、たくみに人々の恐怖やあこがれといった感情をかきたてるための仕事である。(略)
おそらくこの宣言を起草した人間は、ただ漫然とジャーナリストの一般的使命を語らうとしたのではなくて、現実に自分たちの言葉をどんな風に使ふかといふ計画を念頭に置いてゐたのに相違ない。
といふのも、平成18年1月に「ジャーナリスト宣言」が発せられた、その半年あまり後に成立した安倍内閣に対して、朝日新聞はまさにこの宣言どほりの仕方で「言葉のチカラ」を用ゐたのだからである。
安倍首相に対する朝日新聞の「言葉」は、徹頭徹尾「感情的」であり、ハイエナの群れが、これぞと狙ひをさだめた獲物の、腹といはず足といはず、手あたり次第のところにかじり付き、食い破っていくのを思はせる、「残酷」さに満ちてゐた〉
長谷川氏のこの文章は、「モリカケ問題」を使って安倍叩きの「大衆の世論」をつくりあげている現在の『朝日新聞』の姿を描いたものと読んで不自然ではない。
『朝日』は「言葉のチカラ」によって、反安倍の宣伝を繰り返している。
それにテレビのワイドショーが後追いし、コメンテーターなる人びとが気まぐれなことを口にする。
さらには週刊誌が「安倍首相夫妻の罪と罰」というような見出しを掲げて総出で安倍批判に列し、かくて本当に悪いかどうか吟味のないまま、罰したいという「大衆の世論」は刺激され、一層膨らんでいく。
『朝日新聞』の綱領には〈不偏不党の地に立って言論の自由を貫き〉とか、〈真実を公正敏速に報道し、評論は進歩的槫神を持してその中正を期す〉とかの言葉が並ぶ。
いまさらながら、安倍首相に反省を求め続ける『朝日新聞』は、自らを省みたことはあるのか。
「不偏不党」、評論は「中正を期す」というのなら、民主党政権時代にいかにそれを怠ったかを少しは思い出してみるがよい。
たとえば、平成22年9月に沖縄・尖閣諸島沖で起きた中国漁船のわが海上保安庁の巡視船への体当たり事件で、時の菅直人首相は中国の強硬姿勢に事実上屈し、勾留期限を待たずに“超法規的”に中国人船長を釈放させた。
そしてそれを「検察当局が事件の性質などを総合的に考慮し、国内法に基づいて粛々と判断した結果」であると那覇地検に責任を転嫁した。
これは〈民主主義の根幹を掘り崩す行為〉ではないのか。
当時、『朝日新聞』は中国人船長の釈放に関し〈日中関係の今後を見据えた大局的な判断〉と書き、中国に対し〈大国の自制を示すべきだ〉としつつも〈平和的な手段こそ、日本のとるべき道だ〉と説いた。
法を犯したのは中国側であるにもかかわらず、これが「中正」だろうか。
中国はこのとき報復措置として日中の閣僚級交流を停止し、日本向けレアアース(希土類)の輸出を全面的に差し止め、中国国内で働いていた建設会社フジタの社員四人を拘束した。
『朝日』綱領には〈一切の不法と暴力を排し〉ともあるが、その姿勢にのっとって中国を批判したか。
森友問題で安倍氏への財務省の「忖度」を問題視する『朝日』は、このとき那覇地検に責任を転嫁した菅氏を厳しく批判したか。
那覇地検は菅政権と中国を「忖度」したのではないのか。
東日本大震災から約2ヵ月後の平成23年5月6日、菅首相は突然記者会見を開いて中部電力に浜岡原子力発電所の運転停止を「要請」したことを明らかにした。
菅氏自ら「行政指導であり、政治判断だ」と述べ、法的根拠のないまま原子力安全委員会や経産省原子力全・保安院にもいっさい相談せずに決めたものだが、中部電力は「要請」を受け入れざるをえなかった。
このとき『朝日』は、首相の要請は「妥当」で、中部電力の決定も「当然」とし、〈浜岡の停止を、「危ない原発」なら深慮をもって止めるという道への一歩に〉と主張したが、菅氏の決定に「深慮」があったとは思えない。
こうした強引な手法は『朝日』の批判するところではなかったのか。
突き詰めれば、菅氏も『朝日』も目的は「反原発」にあり、原発への不安という「大衆の世論」を利用してれを推し進め、潜在していたはずの「原発容認」という「庶民の輿論」を一顧だにしなかったということである。
その後、どれほどの「国富」が流出を続けているか。
この稿続く。