以下は2018/5/6に発信した章である。
以下は今日の産経新聞6ページに掲載されている連載特集「海峡を越えて「朝のくに」ものがたり、からである。
私が仕方なくこうして文明のターンテーブルを引っ提げてインターネットに登場した頃の韓国の大統領は李明博だった。
朝日新聞の購読者で彼らなどの子会社のテレビ局の報道番組やNHKを見ていた私は、韓国が反日教育を続けている国である事は知っていた…だから私は韓国に行きたいとは全く思う事も無く行かなかったから、朝鮮半島について知る事はなかった。
晩年の彼の異常な言動に呆れ果てた私は、初めて、韓国をネット上で調べ、ものの1時間で朝鮮半島の実態を知った。
その実態が今になって、やっと新聞の紙面に掲載されている、そんな感慨を持った記事だが紛れもない事実を伝える本物の記事で、日本国民全員が必読の記事である事は言うまでもない。
見出し以外の文中強調は私。
京城はなぜ100万都市に
「泥濘」から発展した日本人街
韓国の首都ソウルは人口約1千万人、政治・経済の中心、文化・情報の先端。
今やアジアのみならず世界の主要都市のひとつだ。
この街は、14世紀末以来、李朝の都(漢城)として500年。
日本統治時代(1910~45年)は「京城」と呼ばれ、近代的な都市として発展し、人口(京城府)は終戦前ですでに100万人を超えていた。
京城帝国大教授として、約15年間暮らした哲学者の安倍能成(1883~1966年、後に旧制一高校長、文相、学習院院長)は、この美しくもきらびやかな都を描いたエッセーをたくさん残している。
「京城とアテーネ」(昭和3年)には、こうあった。
《初めて京城に来た時、私はすぐに何処やら希臘のアテーネに似て居るな、と思った…(朝鮮)神宮の前から漢江を見おろした景色は、私には、アクロポリスの上から(略)海を望んだ記憶を呼び起こす…》 安倍が京城に赴任したのは日韓併合から15年以上が過ぎた大正15(1926)年のことだ。
もしも、安倍が「前近代的」な因習や伝統を城壁の中に、そのまま閉じ込めたような李朝末期や大韓帝国時代のこの街に来ていたら、果たしてどう感じただろうか?
日韓併合前の明治38(1905)年、ジャーナリストで後に貴族院議員を務めた加藤政之助がこの街を綴った一文がある。
《大通だけは比較的に清潔なりき、ただし市街の裏通りに至りては道幅8、9尺(2メートル半前後)、車馬通せざる所もあり、下水及び塵芥の腐敗により起こる臭気鼻を衝いてきたり…城内の見るべき建築物は、景福及び昌徳の二宮、日本の兵営、列国公使館位に過ぎず》 (『韓国経営』から)
京城の電気や水道、市内電車を初期に手掛けた欧米人から事業を引き継ぎ、数度の都市計画を経てインフラ(社会資本)を整備し、モダンな大都市に変身させたのは日本人だった。
朝鮮人が敬遠した土地
19世紀末、日本人がこの街に住み始めたとき、最初の居留地となったのが、南山北麓の「チンコゲ」と呼ばれた所だ。
文字通りの低湿地で雨が降れば南山から水が流入し、泥濘になってしまう。
朝鮮人もあまり住んでいない地域だった。
この土地を日本人はせっせと改良して道路をつくり、住宅や商店、公的機関を建てた。
そこを起点に本町(後の忠武路)、明治町(明洞)といった繁華街が広がり、市内を横断する清渓川の南側は日本人、北側は朝鮮人の街として色分けされてゆく。
再び加藤の筆に頼ろう。 《
(日本人居留地の)家屋は西洋作もあり日本風の二階屋もあり、店は広く小綺麗に往来繁く…日本人の移住する者年毎に増加し…明治38年4月の人口は6296人なり…》(同)
日本人街には、三越、丁子屋、三中井といった百貨店が進出、ホテルやレストラン、カフェ、映画館が次々と開業した。
モダンガールーボーイと呼ばれた、おしゃれな若者たちが押し寄せ、中心の繁華街・本町で遊ぶことを、東京や大阪の“銀(座)ブラ”、心(斎橋)ブラになぞらえて「本ブラ」と呼んだ。
父親が朝鮮総督府の建築技師などを務めた正木千代子(91)は、昭和2年京城生まれ、高等女学校を卒業した後は、京城の中心地にあった水産会社に就職している。
「本町は内地にも負けない賑やかな繁華街でね。三越、丁子屋などの百貨店にも、よく買い物に行きました。休日はレコードを聰いたり、昌慶苑の桜見物も覚えている。(終戦までは)物資は豊かだったし、空襲もない。ホントにいい街でしたよ」
*これが本当の日韓併合時の朝鮮半島の実態なのである。日本が統治することになったおかげで朝鮮半島は第二世界大戦とは無縁の平和で豊かな時間を過ごしていたのである。今、朝鮮半島が日本に対して植民地にされた、強制連行されたなどと、「底知れぬ悪」と「まことしやかな嘘を言っている理由は、金一族の独裁国家のプロパガンダと、金日成に対抗するために歴史を偽造し反日教育と言う名の全体主義を始めた李承晩の独裁政治の結果であり、その産物に過ぎない事を、日本国民のみならず、世界中の人たちが知らなければならない時は、とうに来ている。*
この稿続く。