Sun Set Blog

日々と読書と思うコト。

懐かしい短編

2007年11月13日 | Book

 今日は朝7時台の新幹線に乗って岡山から東京へ。3時間強の移動時間。
 移動中に『ぬるい眠り』読了(江國香織著。新潮文庫)。帯に文庫オリジナル短編集と書かれていたので手に取ったのだけれど、半分くらいの作品は以前に読んだものだった。昔出ていたムックなどに掲載されていた作品の再録なのだろう。確かに帯には『きらきらひかる』の十年後を描く作品などを含むと書かれていたので、いくつかは読んだことがあるやつだろうなと思っていたのだけれど、想像以上に既読率が高かった。
 初期の頃の作品が多く収められていて、昔よく馴染んだ文章はやっぱり気持ちがよい。かなり好きな作家の独特のリズムというのは、昔の友人と久しぶりに会ってもすぐ話をし続けることができるように、あっという間に“のる”ことができる。個人的に好きな系統の話は少なかったけれど、随所に独特の視線があって、何度もはっとさせられた。うまいなあと思う。「災難の顛末」だけは読んでいてかゆくなってしまったけれど、「夜と妻と洗剤」なんかは読み終わった後思わずにやけてしまう。
 日中は働き、帰り道で久しぶりに会う人と一緒に駅まで歩く。今度飲みに行きましょうという話をする。
 22時少し前に部屋に帰ってくる。明日の夜には広島県にいる予定。やれやれ。


―――――――――

 お知らせ

 パソコンを購入したときのキャンペーンで、全員もらえる『スパイダーマン3』のブルーレイディスクが早くも届いていたのでした。

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run

2007年10月25日 | Book

 火曜日の夜に10日ぶりに部屋に帰ってきた。
 自分の部屋はやっぱり落ち着くなと、当たり前のようなことを当たり前に思う。

 水木と休日で、金曜日から再び4泊5日(予定)の出張。

 水曜日は買物。ラゾーナ川崎に行き、109シネマズで『インベージョン』を観る。ニコール・キッドマン主演のSFホラー。B級テイストがところどころに散りばめられていて、突っ込みどころも満載。それでもそれなりに怖く、あっという間に終わる。

 川崎からJRで横浜へ。横浜では東急ハンズとLOFTを回り、手帳のリフィールとボールペンの替え芯を購入する。紀伊国屋で本を買い、HMVでCDを買う。
 スポーツ・オーソリティで冬用のジャージを新調する。NIKEのやつで、紺にエンジのラインが入っているやつ。ドライ・フィットで乾きやすいのに、寒さから身体を守るため熱は逃がさないのだそうだ。都合がいいなあ。

 村上春樹の新刊『走ることについて語るときに僕の語ること』(文藝春秋)を読了。
 これは、タイトルの通り、村上春樹が走ることについて語っているエッセイ(のような)作品。村上春樹がずっとジョギングを続け、フル・マラソンに何度も参加したりトライアスロンに参加したりしていることは以前から知っていた。他の(いくつかの)エッセイでもそれらのことについては触れられていたし、長編に取り組むときの持続力が、健全な体力の維持をベースにしているということも確かにそうなのだろうなとずっと思っていた。

 僕も1年半くらい前からジョギングをはじめていたので、村上春樹がどのような考えの元で、あるいはどのような理由に基づいて走り続けているのかを知ることにはとても興味があった。

 読了して思ったのは、走ることと人生に対する態度(スタンス)のようなものが有機的に結びついている人なのだということだ。そんなことは前から思っていたことなのだけれど、村上春樹は自分で自分の目指す場所を決めて、そこに向けて着実に進んでいる。そこにはプロフェッショナルとしての明確な意思があり、高みを目指すのだという静かな決意がある。そして、それを目指すのだからある種自分を律するのは当然のことだと、当たり前のように考えてそれを実践している。
 なかなかそうはいかない。改めてすごいよなと感心する。僕も走ってはいるけれど、何だかんだで1年以上走っているけれど、そこに明確な意思はあまりないような気がする。年とともに体力が落ちてきていたし、それをカバーすることができるのであればと思っているだけだ。もちろん、単純に走るのが楽しいということもあるけれど。自分のミッションを達成するための構成要素のひとつ、というような感じでは全然ない。

 そういう意味ではいろいろと考えさせられるところが多い本だった。
 印象に残ったところは、たとえばこういうところ。

 たしかに寒い日には、ある程度寒さについて考える。暑い日には、ある程度暑さについて考える。悲しいときには、ある程度悲しさについて考える。楽しいときには、ある程度楽しさについて考える。前にも書いたように、昔起こった出来事を脈絡なく思い出すこともある。(……)でもそれにもかかわらず、実際にはまともなことはほとんど何も考えていない。
 僕は走りながら、ただ走っている。僕は原則的には空白の中を走っている。逆の言い方をすれば、空白を獲得するために走っている、ということかもしれない。(31~32ページ)

 これは、走っているときに何を考えているのかという質問に対しての答えの一部。うまく言い表しているなと思った。走っているときに考えていることは、他の人はどうかわからないけれど、ここに書かれているように「ある程度」のことばかりだ。

 そして、特徴的だと思ったのはこの部分。

 どんなに走るスピードが落ちたとしても、歩くわけにはいかない。それがルールだ。もし自分で決めたルールを一度でも破ったら、この先更にたくさんのルールを破ることになるだろうし、そうなったら、このレースを完走することはおそらくむずかしくなる。(152ページ)

 この考え方は、村上春樹のベースにいつもあるのだろうなと思う。小説家としてもおそらく同じスタンスで、質を高めていくために自らにルールを課し、それを継続的に実践していく。実際、最初のほうにはこう書いてある。

 走ることは僕にとっては有益なエクササイズであると同時に、有効なメタファーでもあった。僕は日々走りながら、あるいはレースを積み重ねながら、達成基準のバーを少しずつ高く上げ、それをクリアすることによって、自分を高めていった。(23ページ)

 最近は出張から帰ってきたときにしか走っていなかったのだけれど、この本を読んでまた走ることに対してのモチベーションが高まった。出張先でもどうにかこうにか走るようにしようと思う。

 木曜日は雑用。いつものようにクリーニングに行き、洗濯機を2度回す。片付けをして、次の出張の準備をする。

 水曜日と木曜日の夜にそれぞれ5キロずつ走る。1キロ5分くらいのペース。10日間の出張あけなので、やや苦しい(出張の間は走っていないからだ)。
 でも、最近ずっと現在の出張から帰ってきたときに走るというペースにストレスを感じていたので(帰ってきたときに雨ということもあったし、そもそも出張から帰ってきたときには大分疲れている。時間だって23時過ぎで遅い)、この本を読んだのはとてもよいタイミングだった。別に出張先でも走ればいいんだと思えたし、適度に身体を動かすことは悪いことでは絶対にないのだし。

 とりあえず明日からの出張には、ニュージャージ(かなりお気に入り)とシューズを持っていこう。


―――――――――

 お知らせ

 ハンズやLOFTでは来年度の手帳売場が大きく展開されていますが、(もう持っているのに)あれもこれもと目移りしてしまうのでした。

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移動中には読書

2007年08月26日 | Book

 月曜日から土曜日まで働いていて、日曜日は休日。
 月曜日は東京、火曜日は神戸、水曜日は大阪にいて、木曜日からは3日間東京でセミナー。
 毎日朝が早く、特に最後の3日間は毎日5時起きだったので、なんだか随分と消耗する。
 けれども収穫もあって、移動距離が長い分本を読むことができた。

 今週は4冊。

『成功はゴミ箱の中に レイ・クロック自伝』レイ・クロック著。プレジデント社。
『辺境・近況』村上春樹著。新潮社。
『暴かれた9.11疑惑の真相』ベンジャミン・フルフォード著。扶桑社。
『さくら』西加奈子著。小学館。

 レイ・クロックはマクドナルドの創業者。帯にはユニクロの柳井社長と、ソフトバンクの孫社長の写真が並んでいて「これが僕たちの人生のバイブル!」と書かれている。世界ナンバーワンのフードサービスを築いた男の自伝だけあって、示唆に富み魅力的。ダイエーの中内功ではないけれど、一代で劇的に事業を拡大させたカリスマ創業者と呼ばれる人は、やっぱりどこかにロマンチストなところがあるなと思う。

 2冊目は再読。朝出発前に今日は何かエッセイを読みたいなと思い、村上春樹の文章に久しぶりに触れたくなったので手に取った。『シドニー!』にしようかどうかちょっと迷ったのだけれど、長さ的なところからこちらにする。読み終えるとやっぱり香川でうどんを食べたくなったし、三宮から神戸まで歩いてみたいなと思ってしまう(しかもちょうどいまの職場は神戸だし!)。

 3冊目は9.11が実はアメリカ政府の手による自作自演の陰謀だったという本。この手の意見というのは割合当初から語られていて、メディアの規制が厳しいこともあって特にインターネットでよく語られていたみたいだ。飛行機がぶつかったくらいでは貿易センタービルがあのように崩壊まではしないだとか、飛行機がぶつかる直前に爆発のような光が見えただとか、信憑性がありそうでなさそうな、微妙なところを真剣に書き連ねている。読んでみても本書で語られているような内容が正しいのか、それとも全然そんなことがないのかはよくわからないのだけれど、正も裏も、どちらも同じような重さで有り得ることなのだということを感じられればいいかなと思う。

 最後の4冊目は、出張の移動中にちょうど手持ちの本がなくなったときに、大阪の高槻市という街の書店で手に取った本。出張中には読まずに、今日読み終えることになった。前から気になっていて、なんとなく買っていなかった作家の本だった。そういう本はたくさんあって、今回もその出張中の小さな書店に興味をそそる本がほとんどなくって、だったらと思って手に取らなければ、またしばらく読むことがなかったのだと思う。そして、そういう本に限って、実際に読んでみると結構気に入るのだ。その予感めいたものはちゃんと的中して、印象的な小説だった。帯には「5人と一匹の、まっすぐで、まっすぐでまっすぐ物語」と書かれているけれど、それもとても納得することができるやさしくて確かにまっすぐな物語だ。僕は犬を飼っていたことがないのでたぶん本質的にわかっていないようなところがあるのだと思うのだけれど、自分でも犬を飼っていた人は、たぶん僕以上にこの物語に感情移入することができるのだろうなと思う。
 機会があれば、同じ作家の別の小説も読んでみたいなと思う。

 また、今日はセミナーの最終日で18時頃に開放されたので、そのまま帰りに映画を観て帰ってくる。観たのは『トランスフォーマー』。元々が子供向けのアニメなのだからまあそういうストーリーであることにも文句は言えないけれど、CGによるトランスフォームの動きには驚かされた。いまの映画は、ここまでできてしまうのだ。できないことはなさそうなくらい。
 川崎で途中下車してチネチッタで観たのだけれど、土曜日の19時過ぎにスーツ姿で映画を見ている人は他には全然いなくて、なんだかちょっとだけむむむと思う。でも、働いた日に映画まで観て帰るなんて時間を有効に使ったような気がして、嬉しくなってしまうのも事実。

 部屋に帰ってきてから、23時前から5kmジョギングする。そしてお風呂に入って、いまこの日記を書いている。
 明日はとりあえず時間を気にせず眠ることができるので、久しぶりにゆっくりと眠ろうと思う。


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 お知らせ

 明日は久しぶりに【Travel】を更新しようと思っています。

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3冊

2007年06月15日 | Book

 先週から今週にかけて読書は3冊。江國香織『がらくた』、恩田陸『朝日のようにさわやかに』、本多孝好『FINE DAYS』を読む。
 それとは別に小売業の専門誌を1冊読み進めていて(特集記事は組織運営の原則)、電化製品の新製品ばかりが掲載されたよくあるような雑誌をぱらぱらとめくっている。

『がらくた』の帯には「愛の歓びと怖さ、その光と影を描き尽くす、完璧な恋愛小説。」と書かれている。
 こんなひねりのない紹介文(それこそどんな物語にも適用できてしまうような)が書かれてしまうあたりに、この作品の微妙な位置づけが明らかになってしまっているようで少しだけかなしい。
 もちろん、これは駄作というわけではなくて、登場人物たちの狭い世界の中の物語を過剰に凡庸に描くことで、諦めと執着の持つある種の真実を浮かび上がらせているのだと思う。
 柊子も美海も、メインストリートから外れたという意味で特殊な、いわゆる世間の人たちからは浮いた存在だ。けれども、その浮き方はどこかステレオタイプで、空回りした雰囲気をまとっている。
 現実の時間の中で特別であることは瞬間的なもののはずなので、特別な時間を引き延ばそうと懸命な柊子は燃料がほとんどないのに飛び続けている飛行機のように痛々しい。
 また、「私を私としてだけ見て、知って、理解してくれた」なんて頭で考えた理屈にすがらなくてはならない美海も、相当に痛々しい。若さゆえの自意識をうまくいなしてくれる外部との接触があまりにも少なすぎるから、自意識を純粋培養してしまっているのだ。
 登場人物たちに感情移入をさせず、いわゆる「痛い」様を穏かに見せつける最近の作風は段々と昇華されてきていて、セレブ的なキーワードが多用されることなんかも、なんだかここまでくると確信犯的なような気がする。別にすべての作家がハッピーエンドで感情移入することができる物語を書く必要はなくて、これはこれでどうしようもないくらい現実を映し出している。もちろん、その現実が滑稽に見えるきらいはあるけれど、だからこそよりリアルに近いということもできると思う。
 個人的にはやっぱり好きな作家なので、初期の頃のどこか壊れた感受性の持ち主たちが出ていた「若い」作品を期待してしまうけれど、これもある種の成熟の形なのだろう。言ってしまえば、好きな作家には好きなタイプの作品を書き続けていてもらいたいという子供じみた希望を捨てきれないだけで、割り切って読んでみれば、やっぱりうまいのは事実。

 何だかんだ言っても、久しぶりに江國香織の文章に触れているのは、もちろんとても楽しいことだった。
 ただ、「私は言った」とか、「嬉しそうに言う」、「私は言ってみた」などの会話の後の文章が随分と増えた気がするのだけれど。

 恩田陸のは短編集。あっという間に読み終える(引き出しがたくさんあるとあらためて思う)。本多孝好は少しだけ不思議な舞台装置を持った短編集。タイムスリップや超能力とか。ロングセラーになっているのをようやく手に取ってみたのだけれど、売れ続けているのも納得。才気があって、うまい。


 携帯電話の新機種なんかが載っている雑誌をめくり、どれにしようかなと思っている。
 異動をしたら出張生活になるので、とりあえずノートパソコンと新しい携帯電話を購入しようと考えているのだ(予定外の出費……)。
 ノートパソコンはもちろん会社から支給されるのだけれど、ビジネスホテルで暮らす間、インターネットや文章を書くことなんかは自分のパソコンでやりたいのだ。だとしたらパソコンを2台持って移動することになるので小さいやつがいいな……とか思っている。
 携帯電話はもう2年以上同じやつを使っているので、さすがにそろそろ買い換え時期になっている。電車の中で、ワンセグを見ることができるやつがいいなとか。
 他愛のないことだけれど、そういう雑誌を見ながらこれがいいなとか思っているのは、やっぱり楽しいことだと思う。


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 お知らせ

 それにしても、携帯電話に「これ!」という機種がなくて迷ってしまいます。

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『Q&A』

2006年05月24日 | Book

『Q&A』読了。恩田陸。幻冬舎(ネタバレあります)。

 本の裏にはこう書かれている。


 2002年2月11日午後2時過ぎ、都内郊外の大型商業施設において重大死傷事故発生。死者69名、負傷者116名。未だ事故原因を特定できず――。


 質問とその返答によって進められていく物語。質問をされる側の言葉は「」つきで語られ、質問者の言葉は地の文になっている。
 それぞれの章の質問を受ける面々も、事件を調査している記者や、事件の渦中におり怪我をした者、あるいは事件現場にいた少女や、事件の弁護士、事件の際に渦中に飛び込んだ消防士など多岐に渡る。彼らのインタビューを通じて、はっきりとした原因が見えてこない事件が徐々にその全体像を浮かび上がらせていく。また、関わった面々に残るいびつな影響(後遺症のようなもの)が見えてくる。
 最後まで読み終えると、ある程度その中で起こっていたことがはっきりとではなくても、見えてくるような気はする。けれども、そこに残されているのは漠とした不安のようなものだ。犯人のいない災害というような表現が作中で使われているけれど、大多数の人間が死んだ類を見ない大災害であるにも関わらず、そこには明確な原因は見えてこない。ある種の出来事が意図的に(あるいは偶然に)発生し、結果として集団心理からくる大パニックが発生し、パニックによる群衆の行動により多数の死傷者が出た。そして、ニュースで見てしまうと日々の災害のひとつでしかないものも、その渦中にいた人々には色濃い影を残す。その影はまたどこかステレオチックかもしれないけれど、人間の闇の部分や、普段は覆い隠しているような部分に属しているようなものだ。
 それなので、読み進めていると、ちょっと背筋が寒くなってしまうようなところはある。地震や火事である場合、人々は団結し、連帯感の中で個人というよりはひとつの集団として危機を乗り越えてきた。そうすることにより、個々人の傷は全体の中に薄められ、もちろん傷がなくなるわけではないけれど、なんとか耐えしのぐことができる。けれども、原因がはっきりとしない、誰に、あるいは何のせいにすればいいのかがわからない災害の中にあって、人々は一致団結する理由のようなものを奪われているような印象を受ける。それが天災であれ人災であれ、人にはある意味仮想敵のようなものが必要なのだ。けれども、今回の災害にはその原因がなく、結果として取り残された人々はそれぞれで事件と向き合わなければならなくなる。そうなってくると、どうしても災害対個人は分が悪く、個人の側に様々ないびつな影響が出てくる。その影響には現代的なものも多く、読んでいると自分たちにも起こりえることなのだとちょっと考えてしまう。日常が危ういバランスの中でかろうじて成り立っているものだということを考えさせられてしまう。

 結局、それぞれの人がどのように個々の影響を消化していったのかについては書かれていない。あくまでも、断片を列記することで浮かび上がってくる全体像を感じさせるような内容となっている。そこには釈然としない莫とした不安のようなものが残る。けれども作中でも時間が経過していくように、時間だけがただ過ぎて、曖昧なまま多くのことは背後へと忘れ去られていく。

 それにしても、恩田陸は興味を惹かれるような設定の物語を作るのが巧いなあと思う。


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 お知らせ

 カバーの絵はちょっと怖いですね。

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『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』

2006年03月16日 | Book

『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』再読。文・村上春樹、絵・安西水丸。朝日新聞社。

 最近エッセイ集の再読をよくしている。『人生激情』や『ゆっくりとさよならをとなえる』がそうなのだけれど、一度読んだことのある、好きな作家の、大体どういうトーンなのかが事前に分かるエッセイ集を朝や夜のちょっとした時間に、少しずつ読み進めているのだ。ここまで書いてみていまは結構忙しいのだろうなと自分で思う。忙しいときには得てしてそうしてしまうことが多かったからだ。未知のものよりは、既知のものに触れようとしてしまうこと。意識的にせよ無意識的にせよ、変に消耗したくないのだとどこかで思っているのかもしれない。もちろん、他の本(未知の本)も読んではいるけれど、それでもその一方でバランスを取るためになのか、昔からのなじみの作家(しかもエッセイ集)に立ち返ってしまう。

 この本もそんな流れの中で再び手にした一冊。僕は村上春樹がとても好きで、個人的に特別な位置を占めているのだけれど、小説だけではなくエッセイ集もとても好きで繰り返し読んでいる。『やがて哀しき外国語』も読み返しているし、以前の村上朝日堂だってそうだ。小説のシリアスさとはまた別ののほほんとした味わいがあって、エッセイを読むことは村上春樹的に言う小確幸だよなと思う。

 再読してみて、もちろん既知の内容ばかりなのだけれど、楽しんで読むことができた。個人的に笑ったのが「この前どこかで「『マディソン郡の橋』を読ませていただきました」って言われたけど、すいません、あれムラカミが書いた本じゃないんすよ。(261ページ)」というところ。
 そして、『マディソン郡の橋』か……と思う。『村上朝日堂~』が発行されたのは1997年6月1日で、僕が手に入れたのは6月15日の第二刷発行版。連載自体は1995年から1996年で、『マディソン郡の橋』の本の出版が1993年で、映画が1995年なので、確かに時期的にかぶっている。本の中で、この作品名を見つけて随分と昔のことのように思えてしまった。もう10年くらい経つのだなと。

 学生のときにあまりにもベストセラーになっていたので読んだのだけれど、いまいち入り込むことができなかったのをいまでも覚えている。年代的に相容れないものがあったのかもしれないし、世界をまたにかける孤独でタフなカメラマン的なマッチョな人物像になじめなかったのかもしれない。あるいはただ単にウォラー的なセンスのようなものに浸かれなかったのかもしれない。いずれにしても、それなのに僕は映画まで観に行って(当時としてはめずらしいシネマコンプレックスで観た)、イーストウッドの手にかかるとあの小説がこうなるのかと思った記憶がある。最後の方の町の交差点のシーンだけは、なんとなくいまでも思い返すことができる。10年位前に観た映画でそんなふうにシーンを思い出せるのだから、ある種の印象は残っているのだと思う。

 当時はまだ若くて、ものすごくたくさん売れたのだから、もちろんよい作品なのだろうというようなことにあまり疑いを抱いていなかったのだ。
 もちろん、まだ10年しか経っていないし、いまなら随分と成長したとか言うつもりもないのだけれど、それでも年をとってきてそれなりの自分なりの基準のようなものができてきた部分はある。世間的に大ブームでも、相容れないものは相容れないし、なんとなく好みの作品というものをある程度はわかるようになっている。人生で手に触れることのできる作品には限りはあるのだし、ある程度の基準のようなものはちゃんと持ちたいなと(徹底はしていないけれど)どこかでは思っている。けれども若い頃というのは、そういうものがまだぐにゃぐにゃと固まっていなかったのだ。少なくとも、いまになって考えてみるとそう思う。もちろんそれはとても必要な時期であるとも思うのだけれど、思い入れや過度の繊細さのようなものがたくさんあって、大変だったかもなあと思う。

 でも、大体がそれまでの遍歴の積み重ねなので、そういう時期は本当に必要だったのだと思う。たとえば、ある作家を、あるいはある映画監督を好きになるときに、そこにはある種の思い入れが必要になってくる。そして、そういう思い入れは若いときの方が持ちやすい。たとえば僕がいまアーヴィングの作品をはじめて読んで、あるいはキェシェロフスキの作品をはじめて観たとしたら、もちろん感動はするけれど、いまの自分の中での特別な位置とは違うところにあるのじゃないかと思えるのだ。そういうのって運だし、タイミングだし、ものすごく幸福なことなのだと思う。個人的に(あくまでも個人的に)たぶん一番いいタイミングで出会うことができた作家や監督。感受性のようなものがどうしたって過敏になっている時期に、バットが真芯でボールを捉えたときのように、ジャストミートした作家や作品たち。

 そういうのってとても個人的なことだ。人によってその対象は違うし、バイクやサッカー選手や、ロックにそのような思い入れをこめる人もたくさんいるだろう。いずれにしても、そういう思い入れのある何かがあるということは、ありがたいことだよなと思う。


――――――――

 お知らせ

 この本を読み返して、このエッセイ集を読んでから映画のエンドロールを最後まで見なくてもいいんだと思うようになったことを思い出しました。
 元旦にはじめる日記は続かないというような言葉を忘れられないように、村上春樹のエッセイにもかなり影響を受けているのだなあと思います。

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『ザ・サーチ グーグルが世界を変えた』

2006年03月08日 | Book

『ザ・サーチ グーグルが世界を変えた』読了。ジョン・バッテル著。中谷和男訳。日経BP社。
 多くの人と同じように、僕も検索をするときにはグーグルを使っている。最初はシンプルなグーグルホームページを使って、その内にツールバーができてからはそこからたくさんの検索をするようになった。毎日のように検索をするわけではないけれど、ちょっと何かについて疑問を抱いたり調べる必要が出てきたりしたときには、何とはなしにツールバーの中に単語を入力してクリックをしている。難しい準備や操作も必要ない、当たり前の行為のひとつとしてそれを行っている。
 書店でこの本を見つけたとき、普段よく利用している企業であるわりにグーグルのことはほとんど何も知らないなと思って読んでみることにした。『アマゾン・ドット・コム』とか、『デルの革命』とかその手の本のひとつだと思ったのだ。

 けれども、思っていた内容とは少し違っていた。本書の主要テーマはグーグルの成功物語というわけではなく、「検索」それ自体についてだ。もちろん、現在「検索」を語る上で避けて通ることができるはずもなく、グーグルについてはかなりのページを割いて書かれてはいる。けれども、どちらかと言うとよくある成功企業の内側に迫るというようなものではなく、ウェブ黎明期からの「検索」の歴史を紐解きながら、未来の「検索」(SFのように人工知能の問題に踏み込んでいく)にまで推測を投げかけているような内容だ。それは著者がワイアード誌の共同創刊者だからかもしれないし、安直なテーマは書きたくなかったという著者にとって、今後のウェブにとっての「検索」が非常に魅力的なテーマと映ったためかもしれない。

 マイクロソフト、ヤフー、ライコス、エキサイト、オーバーチュア、そのどの企業ともグーグルは一線を画している。多くのネット企業がポータルサイト展開を推進していたときに、グーグルだけが検索を中心に据えていた。そして、多くの人たちはポータルではなく検索を特に意識せずに選び取った。その結果、グーグルはネットの世界でトラフィックを制するようになっていく。グーグルの元には多くの人が流れ、それに付随して広告などによる利益がそこから生み出されていく。アルタビスタやゴートゥードットコムなどが目の前の果実を得る前に離脱していったのを尻目に、いまでは誰にもその歩みを止めることができないみたいだ。
 あと数年もしたら、グーグル(=「検索」)は世界のありようを変えてしまうかもしれない。
 人々は、いま以上に欲しい物、知りたい情報へと直接的にアクセスすることができるようになるかもしれない。

 未来予測の中で、ショッピング行動についての描写がある。より精度の高いマッチングが行われるようになり、企業は検索結果と一緒に表示される広告を利用して、優良顧客と成り得る個人と直接コンタクトを取ることができるようになる。そうなると効果が曖昧なマーケティングは現在のような力を弱め、企業はいままで以上にテレビへの広告費をネットに移し変えてしまうだろう。
 あるいは、携帯電話などの端末から、欲しいと思う商品が、近所のどの店で一番安く売られているのかを即座に知ることができるようになるのかもしれない。
 未来の検索を軸とした購買行動を描写した章では、こう書かれている。


「これから10年と言うのなら、大手も中小もすべての広告主が、デジタル化した手段を持つことになるでしょう。ですから彼らが市場で取引するすべてが、それに対する属性を備えてデジタル化されます。彼らは絶えず、またあらゆる場所で、インバウンド・アウトバウンドで情報を交換し合います。(……)ウェブの広告主は具体的に対象顧客を特定してオファーできます。(……)考えられる広告システムとしては、多様なプラットフォームやメディア全体での投資収益率を考慮するものとなるでしょう」(255ページ)


 また、未来は様々なチップやタグに溢れ、ウェブを離れてより多くのものが「検索」の対象となる。たとえば、小学生の子供たちのランドセルにはチップが付けられ、「検索」することでいまどこにいるのかをネットの地図で明らかにすることができる。子供の帰りが遅いことを心配する親たちは、「検索」を随分と重宝することだろう。
 または、夫が不倫をしているのではないかと疑う妻は、夫の持ち物にタグを埋め込み、「検索」することで場所を明らかにする。逢瀬の場所に突然妻が怒鳴り込んできて、修羅場が展開される……そんなシリアスでどこか滑稽な出来事さえも、充分に起こりうる可能性があるのだ。
 もちろん、プライバシーの問題が大きく立ちはだかってくるだろう。誰だって、自分が知りたい情報を持つ一方で、知られたくない情報を多数抱えているのだ。「検索」はともすればそのすべてを白日の下にさらすことになる。それに懸念を表明しない人がいるだろうか?

 そして、現在は単語の組み合わせでしかない「検索」は、最終的には自然語を理解するようになる人工知能のようなものへと行き着くかもしれないと言及している。質問の言葉に対して、正確で的確な返答を返すようになるかもしれないというのだ。もしそうなったら、たとえばよくSF映画などにある、機械に支配された未来のようなものになってしまうんじゃないかと思ってしまうのだけれど。

 いずれにしても、「グーグルなどの検索エンジン企業の目標は、人々に情報を供給し、役に立つ情報にすることです(……)この目標を達成するには人間並みの理解力が必要かどうかですが、わたしはそう思います」(30ページ)という言葉は、これからの「検索」の方向性を緩やかに定めているのだとは思う。


 興味深いところをいくつか引用。


 検索の20%は催し物などのエンターテインメント情報を求めており、15%は基本的に営業目的だが、約3分の2の65%は情報全般を探して検索している。
 また、ケルシーグループの調査によると、検索の25%は地元の情報で、その大部分が歯科医院やレストラン、水漏れ修理など日常生活に関わる営業情報が多い。
 さらにハリスの世論調査によると、検索の40%は「見栄の検索」と呼ばれるものだという、検索エンジンに自分の名前を打ち込んで、インデックスに載っているかどうかを探すのである。(……)自分の名前以外には、20%が昔の恋人、36%が昔の友だち、また29%は家族の情報を探していた。(46ページ)


 オーレイ・スタインマンの例をあげると、この17歳の少年はグーグルに自分の名前を打ち込んでみた。すると今も一緒に暮らしている母親が、オーレイがよちよち歩きの赤ん坊の頃に、自分を誘拐したことが分かった。検索の結果によると母親は、離婚の際に親権をめぐって夫と争いとなったが、無断でオーレイを連れてカナダの家からカリフォルニア南部へ逃げ、これまで母と子はなにごともなく平穏に暮らしてきた。
 ところが父親はこれまで15年間も、息子のオーレイを探しているという。このことをオーレイは先生に話し、学校は当局に通報した。母親は誘拐の罪で投獄され、それ以来息子は母親と会っていない。(282ページ)


 彼女はラショーン・ペタス=ブラウンという男性と、初めてデートすることになり、レストランで会う約束だった。しかしグーグルで検索するとその男がFBIに追われていることが分かり、彼女は当局に通報した。張り込んでいた捜査員が男を逮捕する。(283ページ)


 AOLもマイクロソフト、それにヤフーもウェブ上での音楽販売に取り組んでいるが、なぜグーグルがこの分野に進出しないのかとシニアマネジャーに聞くと、返ってきた返事は、「サーゲイ(創業者)があまり音楽を聴かないからです」だった。(341ページ)


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 お知らせ

 最近、竹仲絵里の「gerbera」をよく聴いています。

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『9.11 生死を分けた102分 崩壊する超高層ビル内部からの驚くべき証言』

2006年02月19日 | Book

『9.11 生死を分けた102分 崩壊する超高層ビル内部からの驚くべき証言』読了。ジム・ドワイヤー&ケヴィン・フリン著。三川基好訳。文藝春秋。

 帯にはこう書かれている。


 1機目が激突してからツインタワーが崩壊するまでの102分。
 126人の死者を含む、ビル内にいた352人の証言でいま初めて明かされる、
 大災害真っただ中の超高層ビル内で起きた
 混乱と助け合い、悲劇と幸運、そして生と死の分かれ道


 以前広告か書評でこの本のことを知ったときに、読んでみたいと思いながらもなんとなく二の足を踏んでしまっていた。この、今世紀最初の大災害については当時から多くのことが語られ、あまりにも深い痕跡を様々な場所に残し続け、数年が過ぎたいまも余韻のようなものはおそらくそこここに残っているのだろうと思う。それに中途半端な気持ちで触れてしまうことさえ悪いことのように思えていたところは確かにあったのだ。でもまえがきにも書かれているように、「歴史から生きる指針を得ようとするなら、何にもひるむことなく事実を直視しなければならないと。」ということもまた必要なのだとは思う。
 読んでみてよかったと思う。あの大災害の渦中に、ふたつのビルの中で、いったいどのような出来事が発生していたのか、どのような状況だったのかを、かなり鮮明に知ることができた。たった102分。一機目が北タワーに突入してから、それだけの時間しか残されていなかった。南タワーに続き、102分後には北タワーも崩壊した。そして、二つのビルに残っていた多くの人たちには、ビルが崩壊するという可能性については伝達されていなかった。

 本書は、米国でも2005年に出版されている。事件から3年以上が経過しての出版には様々な理由があり、その大きな要因のひとつは数多くの人の証言を丹念に追っていったからだ。一人の視点ではとても捉え切れないその大災害を、様々な立場の、様々な人たちの証言を借りて立体的に再構築しているのだ。読み進めていくと、膨大な数のインタビューをこなし、緻密な資料の付けあわせを行ったのだということがよくわかる。
 ある程度の時間が経過し、けれどもまだ傷口が乾ききっていない時期に、あのときいったい何が起こっていたのかということを再構築することにはおそらく意味があるのだと思う。当事者たちにとっても、当事者でない人たちにとっても。

 もちろん、膨大な数と言ってもインタビューは352人だ。当時ふたつのビルには1万5千人近い人たちがいた。つまり、抽出する352人が異なれば、別の角度からの生死を分けた102分が描かれることだろう。けれども、本書はそのうちの紛れもないひとつではある。そして、そこに書かれた内容は様々なことについて考えさせられる。

 読んでいて、強く感じたことのひとつは、大災害時における情報の大切さだ。たとえば、南タワーのA階段は飛行機の突入後上層階に取り残された人々が脱出することのできる唯一のルートだったが(実際、その階段からわずかな人数が助かっている)、そのことは上層階にいる多くの人たちには知らされていなかった。地上にいる消防たちもその情報を掴んでおらず(地上は地上で混乱していたのだ)、まだ火も回っていない階にいて119番に電話をした人たちにもその情報は伝えられなかった。もし地上の様々なセクションの連携が取られその情報を掴んでさえいれば、119番などをしてきた人たちに助言することができ、さらに多くの人が助かったかもしれないのだ。
 同様に、南タワーが崩壊し、北タワーが崩壊するまでの間にも少しの猶予があった。その際に北タワーからの撤去命令が出ているが、警察と消防の無線の周波数が違う、最新型の無線が使用されておらず増幅器が必要にもかかわらずその設備が稼動していないなどの理由で、多くの人たちがタワーからの撤去行動に移ることができなかった。状況を知らされず階段の途中で休んでいる人たちも多くいた。
 どちらもある部分では人為的な災害に巻き込まれてしまったということができるだろう。

 災害時における混乱状態というのは、頭が切れ、普段は冷静な人たちをも混乱させる。そして状況は刻一刻と予想外の方向へと次々と形を変えていく。そのビルで働いている人たちの多くはいわゆるエリートたちで、知恵や行動力に関しては並々ならぬものがあったはずだ。けれども、必要な情報がなく、分断された極限状況の中では、現実や常識が理解できる形では機能せず、翻弄され続けるしかなかったのだ。また、過去に地下が爆弾テロに遭っていたときに影響が軽微だったこともあって、中にいる人たちの多くはワールド・トレード・センターが崩壊するということを思ってもみなかったと考えられている。現に、ビルを管理する港湾公社の職員たちは、消防がくるまで持ちこたえようと、自分たちで多くの人たちを助けている。けれども上層階へと向かいながら閉じ込められた人たちを助けていった職員たちも、数十分後に自分たちの足場ごとビルが崩壊するとは思っていなかったはずなのだ。もしその可能性について認識していたら、人命を救助しながらも、下へ下へと移動していたはずだからだ。

 102分の間の、多くの人たちの行動。その中には自己犠牲を厭わない英雄的な行動があり、傷を受けながらも見知らぬもの同士が助け合う状況があり、パニックに陥る者がおり、愛する家族に最後のメッセージを送る者がいる。必死に走り続ける者も、諦めて倒れこむ者も、運に恵まれた者も運に見放された者もいる。そして、現実は冷徹に最後の時を刻んでいく。

 もし自分がその中にいたら。本書を読んだ人はどこかでそう考えるだろう。自分はこんなふうに行動することができるだろうか? 冷静に考えることができるだろうか? 諦めるときの心境はどのようなものなのだろう? あるいは、そんなことを考える瞬間すら与えられないとしたら?
 最初電車の中で読み始めて、部屋に帰って食事をしてから最後まで読み続けてしまった。途中でやめられなかった。そんなことはひさしぶりだった。
 そしていろいろと考えさせられた。あまりにも大きな規模の出来事と、その中での個人の行動。
 最後にぱらぱらともう一度前書きをめくっていたときに、「歴史から生きる指針を得ようとするなら、何にもひるむことなく事実を直視しなければならない」という文章がもう一度目に飛び込んできた。確かにそうなのだろうなと思う。


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 お知らせ

 帯には映画化決定とも書かれているのですが、絶対に観に行きますが、重い映画になるのだろうなと思います。

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『ムンクを追え! 『叫び』奪還に賭けたロンドン警視庁美術特捜班の100日』

2006年02月19日 | Book

『ムンクを追え! 『叫び』奪還に賭けたロンドン警視庁美術特捜班の100日』読了。エドワード・ドルニック著。河野純治訳。光文社。

 表紙をめくると、こう書かれている。

 ムンクの『叫び』が盗まれた!
 美術館に残されていた絵葉書には、こんなメッセージが……
「手薄な警備に感謝する」
 レンブラントもフェルメールもピカソも盗まれた。
 巨額な犯罪市場と化した盗難絵画ネットワークの実像とは?
 わずか数人のロンドン警視庁特捜班が挑む
 華麗な美術の世界に秘められた闇社会の謎。
 知能犯と囮捜査官との息詰まる駆け引き。
 これはミステリーより面白い、渾身のトゥルー・ストーリーだ。

 あおりの文章がうまいなあと思う。こんなふうに書かれていたら、思わず手にとって読みたくなってしまう。
 新聞か雑誌の書評で見かけて、気になっていた本。さっそく購入して読み始めてみたのだけれど、これは想像以上におもしろい本だった。実話だというのに、登場人物たちがまるで映画の中から飛び出してきたかのように魅力的なのだ。
 たとえば、本書の主人公であるロンドン警視庁特捜班に所属するチャーリー・ヒル。彼は様々な二面性(たとえば、絵を愛する心とスリルを求める破壊的な衝動)を持っているのだけれど、囮捜査官としての直観力と行動力が超一流であることに疑いの余地はない。また、悪人にしか見えない(本物の殺し屋より殺しの依頼を受けた数が多い)ヒルの師匠ウォーカーや、ギャングやマフィア、あるいは強盗としての名声を欲して名画を盗む悪人たち。ギャングにテロリストに果てはケチなこそ泥まで、様々な登場人物が名画の周りを舞う蝶のように揺らめいている。
 また、名画をめぐる様々な薀蓄――たとえば、大多数の名画には保険がかけられていないという事実や、繰り返し強盗に入られる美術館ラスバラ・ハウスをめぐるエピソードなど――も知ることもでき、そういった本編の支流的なエピソードも興味深い。本書は『叫び』奪還を軸に、随所にそのような美術的なサイド・ストーリーやヒルたちの過去の捜査についての言及などを交えながら緊迫する奪還のシーンに向かっていく。事実は小説より奇なりというか、ヒルの行動も台詞も、まさに映画的だ。

 囮捜査官がこのようなノンフィクションで詳細に語られるケースはおそらく少ないはずで、しかもその主人公が様々な名画を取り返してきた人物。そう考えるとすごいと思う。もしヒルが機転をきかせ、絵を奪還できなければ、世界的な名画のいくつかは永遠に闇に(あるいは裏社会に)葬り続けられていたのだろう。

 印象に残ったところをいくつか。


 思うように描けないときは、絵を鞭で打つこともあった。こうした絵に対する制裁を、ムンクは“お仕置き”と呼び、そうすることによって作品の完成度が高まると信じていた。
 その他の点でも、絵画をまるで生き物のように扱った。自分は他の画家たちに嫉妬を抱くようなことはないが、作品は他の作品を嫉妬する。だから、他の画家の作品の近くに展示してはらない、とムンクは述べている(150-151ページ)。


 ロンドンの美術品競売会社サザビーズの会長を、二十年以上も務めたピーター・ウィルソンは、「自分が大ボラを吹いていることは、よく承知している」と語った。「誰かに絵を売るように説得するときは、売るなら今しかありません、あなたが夢にも見たことがない巨額の利益が手に入るんです、今を逃したら二度とチャンスはありません、と言う。それが嘘だということを、私は百も承知だ。ほんとうなら、持っていたほうがいいですよとアドバイスするべきなんだ。なぜなら、買い手側にはそういって売りつけるからだよ。投資のチャンスとしては今が最高の時期です、今買わなかったら一生後悔しますよ、とかなんとか」(217-218ページ)。


 逮捕されたデイズリーは裁判官から、向こう十二ヶ月間、悪さをしないようにという警告を受けただけで釈放された。そればかりか、盗みたくなるほどの好きな作品ならぜひ見にきなさいと、バーミンガム美術館の館長から公式に招待されたのである(237ページ)。


 一年前、ヒルはアントワープの駐車場に、ギャングといっしょに立っていた。フェルメールの『手紙を書く女と召使い』をほんの一瞬だけ手にしたが、そのときのことを、ヒルはこう語っている。
「本物の名画を手にしたとき、凄い絵だということが瞬時に理解できる。絵そのものが教えてくれるんだ。優れた絵画は、見る者にそれだけ強い衝撃を与えるものだ」(367ページ)


 読み応えあり。


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 お知らせ

 ここ数年は、メジャーどころの画家で好きなのはゴッホとムンクとクレーなのです(メジャー過ぎるけれど、ゴッホの『ローヌ川の星月夜』が一番好きです)。

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『ダ・ヴィンチ・コード』

2006年02月10日 | Book

『ダ・ヴィンチ・コード』(上・下)読了。ダン・ブラウン著。越前敏弥訳。角川書店。
 トム・ハンクス主演で5月20日から映画化もされる超ベストセラー。
 遅ればせながら手にとって読んでみた。ちょうど出張に行く予定があって、移動中にぴったりかなと思ったのだ。
 読み終わってみて思うのは、映画みたいだということ。実際映画化もされるのだけれど、ストーリー展開がまさにハリウッド映画的なのだ。いやおうなく事件に巻き込まれる主人公。ともに謎を解明しようとするヒロイン。次から次へと登場してくる裏のありそうな怪しげな登場人物たち。そして、主人公たちを執拗に追い続ける警部……ノンストップで次々と進んでいく展開に、頭の中で映像が随分と重なってくる。

 また、物語を彩る謎の方も、スケールが大きく、途中で外観が明らかになったときにはかなり驚いてしまった。キリスト教的な知識のバックボーンがなくても、衝撃を覚えてしまう。真偽のほどはさておき、かなり丹念な調査の末に用意された薀蓄を、ストーリーの中に見事に消化していく様には驚いてしまう。暗号や象徴の知識の深さに彩られた、一級のエンターテインメントだ。

 映画はぜひ観てみたいと思う。好きな監督の一人であるロン・ハワードが監督だし、ヒロイン役はオドレイ・トトゥだ。ジャン・レノがファーシュ警部というのも納得。
 それにしても累計販売数2000万部というのは、すごい。


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 お知らせ

 ワールドカップのチケット抽選は外れてしまいました。がっくり。

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