Sun Set Blog

日々と読書と思うコト。

冬休み終了

2006年01月29日 | Days

 今日で冬休み終了。
 休んだ分、休ませてもらった分、明日からまた頑張って働こう。

 ホームページを更新。
 【Text】→【Travel】で、休みの間に出掛けてきた旅行の写真をアップ。


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 お知らせ

 旅行中に『私が語りはじめた彼は』と『ユージニア』を読んで、帰ってきてから『ホテル・ルワンダ』を観てきました。

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荷造り。

2006年01月23日 | Days

 明日(というか今日)から冬休み。
 ついさっき荷造りが終了したところ。

 持ち物。

 キャリーバッグ、ノートパソコン、衣類、本、DVD、iPod、シェーバー、システム手帳、ノート、カイロ、携帯、デジタルカメラの充電器、散策用の小さいバッグ、るるぶ他。

 できるだけ荷物は少なくと思いながら、結構入っている。
 でもまあ、これくらいならいいかと思う。キャリーバックに入るし。

 明日は8時台の飛行機に乗るので、とりあえず6時起き。
 あと4時間……


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 お知らせ

 荷造りとかしていると楽しくなってきます。

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いくつかの旅

2006年01月22日 | Days

 今日は朝から(関東にしては)すごい雪。
 個人的には雪は全然いやではなくて、むしろすごくすきなのだけれど、仕事的にはもうお手上げという感じだ。
 関東は劇的に雪に弱いので、これだけの雪が降るともう入店客数が壊滅的に落ち込んでしまう。
 売上は単純に言うと「買上客数×客単価」で、買上客数は入店客数の約○割というのがあるので、分母の部分が少なくなるともうどうすることもできない。ということで、今日はかなりスローな1日に。忙しくないのはあまり好きではないので、結構がっかりきてしまう。仕事に関しては忙しくないのは困ってしまう。やれやれ。

 帰りは後輩に車で送ってもらう。僕の車は夏タイヤなので雪に弱いのだ(明日の朝も拾ってもらう予定)。
 駅まで一緒に乗っていた女の子(今年の初夏に5年遠距離をしていた恋人と結婚予定)は、行きの電車では松の木が雪の重みで線路にどうたらこうたらしたので、徐行運転をしますというようなことを言っていたと話していた。松の木って、いったいここは関東ではないのだろうか?

 部屋の近くのコンビニの前でおろしてもらい、てくてくと部屋までの坂道を歩いてく。革靴は北国使用ではないので歩いていると結構つめたい。雪はまだ静かに降り続いていて、舗道に薄く積もった雪にはたくさんの脈絡のない足跡がついている。まるで悩み事でも反芻しながらうろうろしていた人がいたかのようなたくさんの足跡。何度かすべりそうになりながら、足に力を込めて歩く。雪が降っているだけで、アパートまでの道が随分と違って見える。

 オイルヒーターのタイマーをセットしていたので、部屋の中は結構暖かい。
 ヘッドホンで音楽を聴きながら、旅行のことを考える。計画は全然緻密ではなくて、結構大雑把だ。でも、宿泊先が決まっていて日程に余裕があるので、のんびりとまあ気楽にいこうと考えている。もう少し長くいたいなと思ったら、途中で予約を入れればいいのだし。休みは6日間あって、旅行はそのうちの前半の3日間。伸ばそうと思えば、いくらでもなんとでもなる。

 そして、一人暮らしをするようになってから、はじめて旅行にでかけたのはどこだったろう? ということをふいに思ったりする。

 学生時代につきあっていた人と、あるアーティストのライブに行くために遠い街へ行ったのがたぶんそうだ。
一人旅なら、3人の友人と新潟に行って、そこから一人別れて当時横浜に住んでいた中学時代の同級生の部屋に遊びに行ったときがたぶんそうだ。

 前者では、アルバイトでお金を貯めて旅行に行ったのだけれど、そういうのがすごく新鮮で楽しかったのを覚えている。数年後に、その遠い街に住んでいる別の人と付き合うことになり、この道路は昔通ったことがあるよななどと不思議に思ったのをよく覚えている。

 後者ではちょうど夏休みで、有名な長岡の花火大会を観に行ったのだった。川べりにある市営団地の屋上に勝手に入り込んで、その団地に住んでいる人たちと一緒に花火を見上げた。友人の1人の実家(新潟)に泊まって、越の寒梅と久保田をはじめて飲んだ(味がまったくわからず、もったいないと言われた)。

 また、横浜で泊めてもらった友人の部屋は、いま僕が住んでいる場所に随分と近い。考えてみると、最寄り駅のひとつ隣の駅だ。その偶然を考えると、なんだか不思議に思う。その友人が仕事に行っている間、一人ではじめて東京に行って、銀座で『恋する惑星』を観て、Bunkamuraでジャン・コクトー展を見てきたのだ。そのときに、東京はすごいなと、やっぱりなんでもあるのだなあと田舎者丸出しの感想を抱いたのだった。

 そしていま、自分が横浜に住んでいるのはなんだか随分と不思議な気がする。10年位前にはじめて隣の駅に降り立った自分に、10年後には隣の駅の近くに住むんだぞと言ってもまったく実感がわかないだろう。「え? なんで?」と疑問でいっぱいになるだろう。
 今日こうやってぼんやりと思い返すまでそのことをずっと忘れていたけれど、確かに、10年位前に隣の駅で下車しているのだ。修学旅行以外でははじめての関東に、いちいち感動していたのだ。

 もちろん、そういうのは多分にこじつけめいたものがある。けれども、個人的にはそういうのが結構大事に思う。たとえば、学生時代に付き合っている人とは、その後別の町にも旅行に行ったのだけれど、社会人になってからなんとその町に配属になったりということもあった。そのときにも随分と不思議に思ったものだ。偶然だなあと。

 これからも、そういう偶然はあるのだと思う。意味がないような、あるいはほんの少しくらいの意味がありそうな曖昧な偶然。気に留めなければまったく意味がないけれど、そういうことを気に留めておくことも、まあ彩りのようなものになるんじゃないかと思う。


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 お知らせ

 明日の朝は道路が凍結しているのでしょうか? やれやれ。

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うれしいニュース。

2006年01月20日 | Days

 うれしいニュース

 SINGER SONGERのときからもうすぐなのかなとは思っていたのだけれど、やっぱりソロ名義でも復活するんだ、という感じ。
 早速サイトの予告編を見たのだけれど、なんだかとてもいい感じで期待してしまう。
 2月22日。まだ1ヶ月くらいあるけれど、楽しみなことがあるというのはとてもしあわせなことだと思う。
 Maxi Singleの3曲のタイトルを見ていても、やっぱり期待してしまうし。
 それにしても、もう5年経つのだと思うと結構早い。
 聴き出すようになったのは引退してからだったので個人的には5年も聴いていないけれど、それでももう結構昔なのだなと驚いてしまう。

 偶然だけれど、昨日よしもとばななの『なんくるない』を読みながら、沖縄と言えばやっぱりとか思いながらiPodでCoccoを聴いていた。
 結構ひさしぶりに。
 その翌日にこのニュースを知ったのだから、もちろん深い意味はないにしても、個人的には結構タイミングいいなあと思ってしまう。

 そしてどんなことでも、タイミングとか偶然と言うのは結構大切なことだと思うので、こういうのは地味にうれしい。


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 お知らせ

 タイトル曲は、「つきぬけ度300%の超ド級ハイパー・ダンス・ロック・チューン」なのだそうです。

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『エンド・ゲーム』

2006年01月19日 | Book

『エンド・ゲーム』読了。恩田陸。集英社。

 帯にはこう書かれている。

 裏返されたら、どうなる?

 正体不明の存在「あれ」と戦い続けてきた一家。最後のプレイヤーとなった娘が誘い込まれたのは、罠と嘘の迷宮だった。


 恩田陸の本は数冊しか読んでいなくて、ただ『常野物語』シリーズの2冊(『光の帝国』、『蒲公英草紙』)は読んでいて、結構というかかなり好きな話だった。不思議な能力を持つ常野一族の様々なエピソードは、それぞれに雰囲気は異なったけれどそれぞれに魅力的だった。
 この『エンド・ゲーム』はその常野物語のシリーズの最新作ということになる。しかも、様々な一族の紹介版のような第1作の短編集『光の帝国』の中でも、そのおそろしさと引き込み具合については1、2を争っていた『オセロ・ゲーム』の続編なのだからなおさら期待してしまっていた。

 結果としては、その期待は微妙に裏切られてしまったということになる。もちろん、それは悪い意味ではなくて、勝手な想像として「あれ」と常野の一族との激しい戦いについて描かれていると思い込んでしまっていたのだ。裏返される恐怖と裏返し続けること。その果てに姿を消した夫を、父親をこの手に取り戻し家族が再び揃うこと――そういう話を想像していたのだ。

 その想像は、大きく裏切られることになる。前作の「裏返し」についてのエピソード自体が、そうだったのかと思わされるような結末が待っている。
 結構賛否両論が分かれる作品なのだろうなと思う。個人的には、常野物語のスケールの大きさに惹かれていたのだけれど、この作品については広がっていくというよりは、箱庭的な身の処し方について描かれた感じになっている。もちろん、能力を有している少数派の一族のささやかな抵抗は、大きなうねりの中ではもう意味すら見出せなくなってしまっているというある意味リアルな状況を描いているのだとは思ったけれど。

 先へ先へとページをめくらせる展開は相変わらず魅力的だったし、あっという間に読めてしまったのだけれど、最後のまとめ方はそうくるんだ……という感じだった。でもこれはこれでありなのだよなとも思う。最初の想像と乖離していたのでそう思ってしまうだけなのだ。

 でも、この「裏返す」という言葉については、よくこんなことを思いつくよなと思う。抽象的だけれど、その恐ろしさがよく伝わってくる、何か得体の知れない恐怖を感じる言葉だと思う。
 たとえば誰かにあなたを裏返すわと言われたら、ちょっとというか、かなりこわい感じがする。


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 お知らせ

 このシリーズはでもまだまだ続くとのことなので、それはとても楽しみです。

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『ALWAYS 3丁目の夕日』

2006年01月19日 | Movie

 オフィシャル・サイト

 たぶんこの映画のことはたくさんの場所で、語り尽くされるくらい語られているのだと思う。
 一つ前の『なんくるない』での引用の部分で抜き出したようなかつてあった家族がここでは描かれている。人情のようなもの、夢や希望といったもの。そういうものがまだ確かに当たり前のようにあった時代を描いた物語。

 僕はこの映画で描かれている時代にはまだ生まれていなかった。それでも、冒頭のいくつかのシーンを見ていると、自然と感極まってしまうようなところがあった。たとえば青森から集団就職で希望を胸に上京してくる学生たち、テレビが家に来るのを毎日楽しみにしている子供、家族をいつも優しく見守っている母親、ちょっと乱暴だが情にもろい父親、そういう誰の中にも原風景として共有されているものが描かれているからだと思う。失ってしまったものやもう得られないものは時として美しくより得難いものとして思われがちだけれど、なんだか宝石のような何と引き換えにこういうものを失ってしまったのだろうと思わされるようなものが描かれていた。

 もちろん、別にそれを完全に失っているわけではないのだけれど、それでも圧倒的な密度で描かれた「家族」や「助け合う心」や「優しさ」を見せ付けられたら、自分たちの周囲にあるそれらが随分と薄いものであるように思えてしまうのだ。
 決してそんなことはないはずなのに。でも思ってしまうのだ。なぜか。

 かつてはあの濃度が当たり前だったのだ。物が増え、情報が増え、部屋が増え、扉が増え(場合によっては鍵も増え)、顔を突き合わせずともコミュニケーションが可能な方法が増え、濃度はゆっくりと薄められていった。けれどもその原液の名残はちゃんと残っているから、その部分が反応して感情を揺らされてしまう。

 号泣はしなかったけれど、3度ほど泣いてしまった。先の見える展開ばかりだというのに、それでも別にいいやと思っていた。かつて経験したことを、過去にタイムスリップして俯瞰的に覗き見しているようなところがあって、だからこそむしろお約束の展開になってくれと思っていた。そのほうが納得できたし、満足できた。どんでん返しとか予想外の展開を求めるような映画ではなくて、もしそうだったら逆に裏切られたような気持ちになったんじゃないかとさえ思う。かつて大切にしていたものを、思い返させてくれるような映画なのだろうなということだ。

 繰り返しにはなってしまうけれど、この作品で描かれていたものは、濃度こそ違えど完全に失っているわけではないと思う。そして濃度というものは、いくらでも変え得ることができるものだとも思う。


 ★★★
(★=1点、=0.5点。満点5点)。



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 お知らせ

 東京タワーも建てられている途中の時期があったのですね。当たり前ですが、そのことが不思議だったりしたのでした。

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『なんくるない』

2006年01月19日 | Book

『なんくるない』読了。よしもとばなな。新潮社。

 沖縄という場所は、表紙に描かれた絵のように、その人の本質をありのままに映し出す場所なのだろう。
 僕は霊感なんてないし、不思議な体験だってしたことがないけれど、それでもそういうものがないとは思わない。それは宇宙人に遭ったことがないけれど、存在は信じているというのと同じ程度の重さの話だ。この世界には自然の気のようなものが特に強く息づく場所はあるだろうし、そういう場所にいけば霊感のない人だって何かをかすかに感じることができるかもしれないとは思う。

 よしもとばななの作品の中には、そういう不思議な力のようなものについて書かれたものが多い。前面には出てきていなくても、影のように常に主人公の足元から伸びていたり、風のように周囲を吹きぬけている。考えてみれば、初期の作品からこちら側とあちら側の曖昧な接点について語られていて(たとえば『ムーンライト・シャドウ』ですでに語られていた)、その後も繰り返し結構踏み込んでそういうものについて書かれている。それはやっぱり作家の方向性の話なのだろうし、大きな力であるとか、人間がありのままに生きるということについてとか、作家のテーマというのはそう大きく変わらないものなのだろうなと思う。

 印象に残ったのはこの文章。


 そんなふうに家族が家族として安全だった時代が、もう変わって行きつつある……それは日本中のどこにいっても同じだ。みんながいっしょに住んで、お父さんとけんかしたらおばあちゃんのところに行ったり、夫婦げんかはおじいちゃんの一言でおさまったり、うまくいかないこともみんなでごはんを食べたらいつの間にかなくなってしまったり、子供が産まれてもみんなで育てていけばよくて、誰かの欠けている性質を必ず誰かが持っていて、誰かを失えば誰かを得て、みんなの力を合わせてやっとひとりの大きな人間みたいなものが成立していく実感……それが失われていく時代に私たちは生きていた。そしてまた、大きな自然の中に小さな家族があり、そこで生かされているという畏敬の念も、毎日の雑事に追われてわからなくなっていく。(16ページ)


 もちろん、人は根本的にはそんなに変わるはずがないとも思う。けれども、現実問題として、多くのことが変わっていっている。サザエさん的な、そしてちびまる子ちゃん的な家族でさえすでに少なくなり始めているのかもしれないのだ。そのうち、核家族の子供が主人公のアニメが当たり前のように放映されるようにさえなるかもしれない。鍵っ子で、進学塾に通い、携帯メールでメル友とチャットをする小学生が主人公のアニメ。日曜日の夜にそういうのをあるあると見るような時代が来るかもしれないのだ。

 繰り返しになるけれど、人は根本的にはそんなに変わるはずがないとも思う。家族はやっぱり大切だし、人と人との触れ合いは空気のようなものだからなくなったらきっと死んでしまう。けれども、表面上の変化が当たり前になって、底の方を流れているものを普段は忘れてしまうことは考えられないことではないのだ。

 必要なのは想像力なのだとときどき思う。情報化が進み様々なものが頭でっかちになっていく中で、情報で状況が変化していく世界の中で、それでもリアルな肉体感覚を持つこと。頭と身体を繋ぎとめるための想像力を持つこと。言葉や、行動が相手にどう届くのかと考え痛みを感じたりすることができるようでいること。
 それはきっと難しいことじゃないと思うのだけれど、難しく考えすぎているケースはとても多いのだろうなと思う。


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 お知らせ

「なんくるない」のトラとピンキーちゃんの出会いのところはいいシーンだと思います。

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『プルーフ・オブ・マイ・ライフ』

2006年01月19日 | Movie

 オフィシャル・サイト

 サイトの説明文を読むと、この映画はピューリッツァー賞、エミー賞などを受賞した演劇の映画化なのだそうだ。
 しかも、グウィネス・パルトロウはイギリスでこの作品の演劇の方に主演もしている。満を持しての映画化というわけだ。

 映画は、天才数学者だった父親を亡くし哀しみにくれる女性が、その喪失から再生していく物語だ。
 天才ゆえに狂気にふれてしまった父親を見て、自分も同じように狂気を受け継いでいるのではないかと疑っているキャサリンは、父親が死んだ後、魂が抜けたような生活を送っている。ニューヨークに住んでいる姉が葬式のために戻ってきてキャサリンを引き取ると言うが、その申し出にも心が動かされない。大学も中退し自分の人生を犠牲にしてまで父親の面倒をずっと見てきたキャサリンは、深い哀しみに覆われているのだ。
 そして、父親の教え子だったハルは、父親のノートを毎晩のように見に来ている。天才の遺した成果があるのではないかと考えているのだ。
 やがて、ハルは数学の非常に貴重な証明が書かれたノートを発見する。しかし、その証明を解いたのは父親ではなく、キャサリンだった――

 というような話。グウィネス・パルトロウの演技が非常にうまかった。悲嘆にくれた、絶望した気難しい女性を過不足なく演じ、たとえば頬杖をついた姿勢が非常にさまになっていた。過去と現在のエピソードをミックスして配することで核心を最後まで引っ張る手法も効を奏していて、ラスト周辺で真相が明らかになるのもうまいという感じだ(演劇のバージョンでは、どうなっているのだろうとは思うけれど)。

 あんまりにも悲嘆にくれてしまった人は、まるでからまった糸のようになってしまっている。それを元に戻すためには非常に慎重に事を運ばなくてはならないし、根気も(少しばかりの)運もいる。けれども、決して不可能なことではないのだ。ひとつずつ、順番に道筋を辿っていけば必ずなんとかなる。そのときには最初に比べたら糸が弱くなっていたりするかもしれないけれど、それでも別の糸と寄り添わせることで同じかそれ以上の強さも持つことができる。たとえ、一本のままだったとしても、ぴんとはっていることが必ずしも必要ではないということがわかるようになっているかもしれない。

 いずれにしても、物語をたどることで、そういうことを信じることはできる。


 ★★☆
(★=1点、=0.5点。満点5点)。



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 お知らせ

 あらためて書くようなことではないですが、グウィネス・パルトロウは芯が強そうな感じがします。

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『彼女を信じないでください』

2006年01月19日 | Movie

 オフィシャル・サイト

 それほど多くの韓国映画を見ているわけではないのだけれど、ラブ・コメディー系が多いような気はする。というか、韓国映画ではシリアスなラブ・ストーリー(『冬のソナタ』など)とラブ・コメディー(『猟奇的な彼女』など)がヒットしたので、似たような作品ばかりが多く日本に入ってきて目に触れる機会が多いだけなのかもしれない。
 個人的にはいかにもな設定の話が結構好きなので、詐欺師の女と気の弱い男のラブ・ストーリーという大まかなストーリーが面白そうに思えたのだけれど、ちょっと微妙な感じではあった。Mr.唐辛子コンテストのエピソードも笑えるのだけれど、さすがにどうなんだろう……とちょっと考えてしまったり。
 けれども、ヒロインのキム・ハヌルはコメディエンヌとしてはやっぱり実力があるのか、ユーモラスな表情を見せていた。お約束の展開も、俳優が魅力的だと結構許せてしまう(映画館だったら許せないかもしれないけど)。2時間のテレビドラマのようなゆるい映画だなと思いつつ、すべての映画が「総制作費○○億!」で「全米が熱狂!」「アカデミー賞最有力!」である必要もないのだとも思う。
 こういう肩の凝らないでも笑えて最後にちょっとじーんとくるような作品はどうしたって必要だ、たぶん。

 ★★
(★=1点、=0.5点。満点5点)。


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 お知らせ

 韓国映画を見ていると、この俳優って日本なら誰にあたる人なんだろう? って考えたりしてしまいます。

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DVD→映画→読書→映画→読書

2006年01月19日 | Days

 今日は休日。
 前日は朝から夜まで働いて、帰宅は22時30分。以前見そびれていたのを再度借りてきたDVD『彼女を信じないでください』を見る。韓国映画ってどうしてベタなのが多いのだろうと思いつつ午前1時前に見終わって、車で閉店間際のレンタルショップに返却に行く。レンタルしたものを返しに行くのは結構面倒になってしまうことが多いので、先に返しておきたかったのだ。
 部屋に帰ってかなんだかんだで2時過ぎに眠る。
 朝は8時過ぎに起きて、部屋でこまごまとしたことを片付けてから外出の準備をして、バスと電車を乗り継いで川崎に向かう。
 少し早い昼ごはんを食べてから、映画館へ。
 DICEにあるTOHOシネマズでやっている『プルーフ・オブ・マイ・ライフ』を観たかったのだ。
 映画を観終ってから、ちょっと迷ってせっかくだからと『3丁目の夕日』も観ていくことにする。今週までだったし、店のアルバイトが観て号泣したという話を聞いていたので、興味があったのだ。
 映画のスタートまでは1時間くらいあったので、近くにあったスターバックスで紅茶を飲みながら映画までの時間を待つ。
 読んでいたのはよしもとばななの『なんくるない』。以前に購入していたのになんとなく積読になってしまっていたのをカバンの中に入れてきていたのだ。行きの電車の中や、最初の映画の待ち時間などにも読み進めていたので、全部読了する。
 DICEに戻って『3丁目の夕日』を観る。期待をしすぎていたせいか、号泣とまではいかなかった。もう完全に号泣する心構えでいたので、それがいけなかったのかもしれない。でも3回くらいは普通に泣いてしまったし、いい映画だったとは思う。
 書店を覗くと、なんと恩田陸の『エンド・ゲーム 常野物語』を見つけてしまう。帯には「裏返されたら、どうなる?」と書かれていて、『光の帝国』の中でも特に気になっていた「オセロ・ゲーム」の続編なのだとすぐに購入してしまう。
 帰りの電車(混雑)、帰りのバス(超混雑)でもう読みはじめ、部屋に帰ってきてからも読んでついさっき読了。

 で、今日のDaysを書いている。
 少しおなかいっぱいな感じだ。1日でいろんな物語に触れたので、ちょっと混乱しているような感じもする。
 でももちろんこういうのって決して悪くないことだと思うし、たとえば学生の頃なんかにはよくやっていたようなことだ。
 物語に浸かる愉しみ、というようなもの。時間や明日の仕事を気にしないでいられるのであればなおさらいいのかもしれないけれど、時間が限られているからこそ密度濃く感じられる部分もあるのだろうし、ようやまあ、捉え方の問題だ。
 いずれにしても、こういうのって、やっぱりいくつになっても愉しいのかもしれないなと思う。


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 お知らせ

 それぞれについては、これから更新。

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