今日は朝から(関東にしては)すごい雪。
個人的には雪は全然いやではなくて、むしろすごくすきなのだけれど、仕事的にはもうお手上げという感じだ。
関東は劇的に雪に弱いので、これだけの雪が降るともう入店客数が壊滅的に落ち込んでしまう。
売上は単純に言うと「買上客数×客単価」で、買上客数は入店客数の約○割というのがあるので、分母の部分が少なくなるともうどうすることもできない。ということで、今日はかなりスローな1日に。忙しくないのはあまり好きではないので、結構がっかりきてしまう。仕事に関しては忙しくないのは困ってしまう。やれやれ。
帰りは後輩に車で送ってもらう。僕の車は夏タイヤなので雪に弱いのだ(明日の朝も拾ってもらう予定)。
駅まで一緒に乗っていた女の子(今年の初夏に5年遠距離をしていた恋人と結婚予定)は、行きの電車では松の木が雪の重みで線路にどうたらこうたらしたので、徐行運転をしますというようなことを言っていたと話していた。松の木って、いったいここは関東ではないのだろうか?
部屋の近くのコンビニの前でおろしてもらい、てくてくと部屋までの坂道を歩いてく。革靴は北国使用ではないので歩いていると結構つめたい。雪はまだ静かに降り続いていて、舗道に薄く積もった雪にはたくさんの脈絡のない足跡がついている。まるで悩み事でも反芻しながらうろうろしていた人がいたかのようなたくさんの足跡。何度かすべりそうになりながら、足に力を込めて歩く。雪が降っているだけで、アパートまでの道が随分と違って見える。
オイルヒーターのタイマーをセットしていたので、部屋の中は結構暖かい。
ヘッドホンで音楽を聴きながら、旅行のことを考える。計画は全然緻密ではなくて、結構大雑把だ。でも、宿泊先が決まっていて日程に余裕があるので、のんびりとまあ気楽にいこうと考えている。もう少し長くいたいなと思ったら、途中で予約を入れればいいのだし。休みは6日間あって、旅行はそのうちの前半の3日間。伸ばそうと思えば、いくらでもなんとでもなる。
そして、一人暮らしをするようになってから、はじめて旅行にでかけたのはどこだったろう? ということをふいに思ったりする。
学生時代につきあっていた人と、あるアーティストのライブに行くために遠い街へ行ったのがたぶんそうだ。
一人旅なら、3人の友人と新潟に行って、そこから一人別れて当時横浜に住んでいた中学時代の同級生の部屋に遊びに行ったときがたぶんそうだ。
前者では、アルバイトでお金を貯めて旅行に行ったのだけれど、そういうのがすごく新鮮で楽しかったのを覚えている。数年後に、その遠い街に住んでいる別の人と付き合うことになり、この道路は昔通ったことがあるよななどと不思議に思ったのをよく覚えている。
後者ではちょうど夏休みで、有名な長岡の花火大会を観に行ったのだった。川べりにある市営団地の屋上に勝手に入り込んで、その団地に住んでいる人たちと一緒に花火を見上げた。友人の1人の実家(新潟)に泊まって、越の寒梅と久保田をはじめて飲んだ(味がまったくわからず、もったいないと言われた)。
また、横浜で泊めてもらった友人の部屋は、いま僕が住んでいる場所に随分と近い。考えてみると、最寄り駅のひとつ隣の駅だ。その偶然を考えると、なんだか不思議に思う。その友人が仕事に行っている間、一人ではじめて東京に行って、銀座で『恋する惑星』を観て、Bunkamuraでジャン・コクトー展を見てきたのだ。そのときに、東京はすごいなと、やっぱりなんでもあるのだなあと田舎者丸出しの感想を抱いたのだった。
そしていま、自分が横浜に住んでいるのはなんだか随分と不思議な気がする。10年位前にはじめて隣の駅に降り立った自分に、10年後には隣の駅の近くに住むんだぞと言ってもまったく実感がわかないだろう。「え? なんで?」と疑問でいっぱいになるだろう。
今日こうやってぼんやりと思い返すまでそのことをずっと忘れていたけれど、確かに、10年位前に隣の駅で下車しているのだ。修学旅行以外でははじめての関東に、いちいち感動していたのだ。
もちろん、そういうのは多分にこじつけめいたものがある。けれども、個人的にはそういうのが結構大事に思う。たとえば、学生時代に付き合っている人とは、その後別の町にも旅行に行ったのだけれど、社会人になってからなんとその町に配属になったりということもあった。そのときにも随分と不思議に思ったものだ。偶然だなあと。
これからも、そういう偶然はあるのだと思う。意味がないような、あるいはほんの少しくらいの意味がありそうな曖昧な偶然。気に留めなければまったく意味がないけれど、そういうことを気に留めておくことも、まあ彩りのようなものになるんじゃないかと思う。
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お知らせ
明日の朝は道路が凍結しているのでしょうか? やれやれ。