Sun Set Blog

日々と読書と思うコト。

『ランド・オブ・ザ・デッド』

2005年09月04日 | Movie

「DIME」のCinema欄で「必見どころの騒ぎではない。これは何度見るかが問題となる、間違いなく今年最も重要な作品。これこそが本物の映画なのである。」と書いていて、そんなに言うのならと観に行ってきた。平日の夕方のシネマコンプレックス。客は全部で15人くらい。雑誌の評者は2人いて、一人は満点の☆5つ。もう一人が☆4つ。

 映画史的に言うと”ゾンビ”シリーズの20年ぶりの新作ということなのだけれど、個人的にはそれまでのシリーズをひとつも観ていないので比較することもできないし、思い入れもほとんどない。ただ、確かに「リアルな残酷描写の中に強烈な風刺や社会批判を込めた社会派SF」というのはある程度納得できるものではあって、貧富の差であるとか、そこに鬱積するある種の怒り、行き場のない集団などがモチーフとして印象的に配されていた。

 物語の舞台は、ある日突然死者がゾンビとして蘇り、食料として生者を食べるようになった世界だ(こう書いてみると随分とひどい未来だ)。大都市のいくつかはバリケードを築きゾンビの進入を避けるようにした街をつくり、その街の中でも貧富の差によって居住地域が異なっている。富める者は高層ビルで享楽の日々を過ごし、貧しき者はスラム化した地上や地下で不便な生活を強いられている。
 主人公たちは、金持ちのためにバリケードの外側の街から食料の残りを強奪してくる仕事をしているスラムに住むメンバーで、改造された装甲車に乗りゾンビの群れの中に飛び込みつつ仕事をしている。

 街の外側ではいつもと同じようにゾンビたちが怠慢な動きで徘徊している。けれども、主人公はゾンビたちの様子が普段とは微妙に異なっていることに気が付く。うめき声をあげて、コミュニケーションを取っているのだ。
 ゾンビたちの進化は、やがて武器の使用にさえ及び、知能の発達したリーダー格のゾンビに率いられた軍勢は、人間たちの住む街を目指して行進をはじめる。

 一方、主人公の弟分はこれまでの貢献を条件にスラム街からビルへの移動を求めるが、街の実力者にそれを断られ、なおかつもう用済みだと命も狙われる。なんとか逃げおおせた弟分は装甲車を奪い、実力者に反旗を翻す。テロリストと化し、ロケット砲でビルを破壊すると脅し大金を要求するのだ。
 その少し前に主人公はちょっとした事件に巻き込まれ投獄されており、解放の条件として弟分の逮捕を仕事として請け負うことになる。実力者は自らの手を汚すことなく、相変わらず主人公たちに泥をかぶせようとしているのだ。

 主人公はビルの破壊を阻止するために装甲車を目指し、知恵をつけたゾンビたちはバリケードを超えてビルを目指す。

 PG-12の作品であり残虐描写が目立ったけれど、シルエットになっているケースも多く、気持ち悪くはあったけれど怖くはなかった。パニック映画としてよくできていたし、何かを守るために必死になっていて、いわゆるゾンビ映画としてのお約束をちゃんと守っている作品なのだろうなと思う。

 ただ、個人的にはそれほど入り込むことができなかった。基本的にホラー映画やスプラッター映画があまり好きではないので、お約束がよくわからなかったせいかもしれない。

 ☆☆★

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 お知らせ

 最近は予告編を観ていて面白そうな映画が多く、楽しみだったりします。

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『NANA』

2005年09月04日 | Movie

 今日は仕事が終わった後7人で『NANA』を観に行く。男2人に女5人で、女の子たちはちゃんとコミックスを持っている(予習もバッチリだそうだ)。僕も初期の頃は読んでいたので話にはちゃんとついていける。というか、ついていけないのならたぶんいかなかっただろうし。というか、初日にこの映画を観る男というのはどうなのだろうと思いつつ。

 シネマコンプレックスのレイトショー。館内は普段以上の若い女の子比率(しかもかなり気合いを入れたような格好の女の子が多い)。スクリーンの中に入っても結構大きな会場が4分の3ほど埋まっていて、この漫画の勢いを実感してしまう。通路を挟んだ隣の席に座っている若い女の子(どう見ても高校生)は座席の上で膝を立てて座っていて、その子にとってはそれが楽な姿勢なのか、その格好のまま画面の方をずっと凝視していた。まるで本当にライブの前の熱心なファンのような真剣なまなざしで。

 映画はとても原作に忠実に作られていた。漫画のカットを想起させるようなシーンに、漫画そのままの台詞。よく漫画や小説が映画化される際に取られるようなアレンジはほとんどなくて、かなり忠実に原作をなぞってみましたという印象。やっぱり、原作に思い入れの強いファンが多いだろうことに配慮したのか、あるいは漫画の方が映像をイメージさせるカットに溢れているということなのかもしれない。

 観たメンバーの感想として(原作を知らないとついてこられないだろうけれど)、

・レンはもっと格好よくあって欲しかった(これは全員が言っていた)。

・章司はだめっぷりが原作通りで、演技の下手ささえだめっぷりを強調するためかと思った。

・中島美嘉のナナははまりすぎていた。

・宮崎あおいのハチは思いがけずかなりかわいかった。

・シンはもっと少年の設定じゃないのか。

 いずれにしても、原作のキャラクターが立ちすぎていたので、そのギャップにいちいち反応してしまうのだろう。それぞれのキャラクターの初登場シーンではいちいちざわめきがあって、たとえばシンの初登場シーンでは、「シンだよ」と囁く声が周囲から聞こえてもいた。それはニュアンスとしては、「あれがシンなの?」というような感じ。ヤスなんてビジュアル的に原作そのままで、実写でヤスの格好をするとなんだか妙におかしいのだなと実感してみたり。

 映画は原作に忠実だけれど、その一方で映画単体としての繋がりのようなものはあまり求められてはいない感じだった。原作の名場面を破綻のない順番にまとめあげていった感じ。もちろん、それでストーリーは繋がるのだけれど、原作を知っているからこそわかるような面は確かにあったと思う。映画だけをいきなり観た人は、ストーリーの連なりに入っていきづらいようなところがあるのかもしれない。
 でもまあ、ファンにとってみれば、様々な名シーンの再現を観ているだけで嬉しかったと思うのだけれど。そして、説明されていないシーンを頭の中で補完して、それで物語を追認していくというような感じ。

 ただ、映像なんかももう少し凝る監督に撮らせて透明度の高い作品に仕上げたら、より意外な驚きがあって印象的だったのではないかと思う。マンションのセットとか、北国のロケのシーンとか、どことなく低予算風な感じが垣間見えたような気がするし(実際はそうではないはずなのに)。変な話、ミニシアターでやっている映画のような感覚をもっと出してみたほうがよかったのではないかと思う。

 他では、TRAPNESTの歌がとてもよかった。作中にライブのシーンがあって、レイラ役に抜擢された新人アーティスト伊藤由奈の歌唱力がさすがな感じだったのだ。楽曲もキャッチーなものと、しっとりとした切ないバラードで、それぞれのバンドがどんな曲を歌うのだろう? というのは興味のひとつだったので、それに関してはとても印象に残るいい曲だったと思う。

 メンバーに話を聞くと、原作はまだ続いていて、様々な登場人物が出てきていて収拾がつかないような感じにもなっているとのことだった。まだまだ終わる気配もなく、どう着地するのかが興味深いというようなことを言っていた。最近は読んでいないのでついていけないけれど、毎話最初と最後に挿入されていたモノローグがどのような状況でのものなのか、いつかちゃんと聞いておきたいと思う。

 ☆☆★


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 お知らせ

 伊藤由奈のCDは買う予定です。
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草刈り

2005年09月02日 | Days

 今日は休日だったのだけれど朝早く起きて、店に行って草刈りをしてきた。
 草刈り。
 駐車場の敷地の周辺など、放っておくとすぐに雑草が伸びてしまうのだ。もちろん除草剤はシーズンはじめに撒いていたし、すでに数回草を刈ってもいる。けれども僕の住んでいる地域特有の永遠に繰り返される夕立と夏の強烈な日差しの連続コンボにより、雑草はどんどん(あり得ない速度で)生い茂ってしまうのだ。それで、天気予報を見ると天気もよいみたいだし、草刈りをしよう! と朝から車に乗って店に向かったのだ。
 刈払機に混合ガソリンを入れて、右から左へと腰に力を入れて草を刈る。最近の雑草はなかなかにしぶといので、その動作をまるで何かの振り付けを練習しているみたいに執拗に繰り返す。
 グレーのTシャツにジーンズという格好でやっていたのだけれど、ものすごく汗をかいて、Tシャツが濡れてしまう。
 途中、いつも来る段ボールなどのゴミ処理のおじさんがやってきて、「店長自ら草を刈るのかい!」と大きな声で言ってくる。「刈りますよー」と大きな声で答える(刈払機の音が大きいのだ)。おじさんはペットボトルのお茶をおごってくれて、ありがたくいただく。ちなみに、店長だからこそ自分で草を刈るのだとなんとなく思う。もちろん、毎回はやらないけれど、部下がやるときもあるし人材派遣を雇ってやることもあるけれど、それでも何度かに一回はちゃんと自分でやる。店舗の様々な作業やメンテナンスなど、自分でやっている感覚がなければなかなか具体的な指示も出せないのだ。

 つまり、自分で草を刈ってそのなかなかにハードな作業をわかっていないと、部下にその作業を指示したときにスピードが遅いとかやり方が甘いとか、そういう話もできないし、どれだけ頑張ったかもちゃんとわかってもやれなくなる。相手が努力したつもりでいることを、自分にリアルな感覚がないためにわかってやれないことは充分あり得る話なのだ。ちゃんとその重さで褒めてあげたり、わかってやれたりすることはなかなかに難しいことで、結局は自分がそれらの作業の「実際に近い重さ」を知っていることでしかバランスはとりにくいのかなと思う。
 言い換えると、それは「現場主義」ということだ。事件は現場で~という映画の台詞ではないけれど、現場の感覚を失わずにいることが指示を出すためにはやっぱり必要なことなのだと思う。

 ガソリンを2回使い切るくらい、2時間くらいずっと草を刈っていた。ガソリンを補給するときにもらったお茶を飲んだのだけれど、ずっと屋外においてあったそのペットボトルは、いつの間にかホットのお茶になってしまっていた。ゴム軍手をして作業をしていたのだけれど、終わる頃には手首から二の腕までがかなり日焼けしてしまっていた。頬もかなり赤くなってしまって、9月の日差しもいまだに強烈であることを身をもって知る。ちなみに、日焼け止めなんかは塗らずに作業をしていたので、結構赤いし、結構いたい。

 雑用も終えて16時過ぎに部屋に帰る。
 それから、今度は車で30分ほどのところにあるシネマコンプレックスに行って『ランド・オブ・ザ・デッド』を観てくる。評判のよいゾンビ映画で、あらすじが面白そうだったので観に行ってきたのだ。ただし、時間がギリギリだったために、途中有料道路に乗る。休日を有効に使うためには、夕方の回の映画を観て、それなりに早い時間にちゃんと部屋に帰ってきたかったのだ。

 まだ明るい夕方の有料道路は、意外と閑散としていた。高速道路を走っているとなぜか論理的に物事を考えることができるような気がする。100キロを超えるスピードが、物事をある程度の距離から客観的に把握することを助けているのかもしれない。また、空の色やものすごい勢いで遠ざかっていく看板なども大きな景色として目に入るようになる。ほぼ2ケ月ぶりに高速道路に乗ったのだけれど、その感覚は新鮮に思えた。

 高速道路を使ったので、映画は無事間に合う。全然怖くなく(気持ち悪いシーンはもちろんあるけれど)、特に感銘は受けなかったけれどよくできた作品だなとは思う。そして、同じシネマコンプレックスでやっていた『ノロイ』の上映時間を確かめる。観る気はもちろん全然なかったのだけれど、最近観てきたメンバーが、かなり本気で怖いと口々に話していたためだ。人には勧められないとか、最後の方は何度も目を閉じていたとか、泣きそうになったとか、そういう話を聞いていたので、行かなくてよかったと思いつつもちょっと怖いものみたさのところもあったのだ。
 もちろん観ずに帰ってくる。

 そして、上司から異動の内示を出される。以前から言われていた話ではあったので驚いたりはしなかったけれど、具体的に日付(10月下旬)も決まり実感が沸いてくる。
 今度の異動先は横浜市。勤務している会社(100店舗以上ある)のなかでもベスト3以内の売上を誇る売れている店。自分がそういう店の店長をやることはなんだか不思議な感じがするけれど、やるからにはしっかりと職務を全うしようとは思う。唯一の悩みは責任者を出せと言われたときに出て行くと、童顔なので相手に驚かれることかも。



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 しばらくは慌ただしくなりそうな感じです。

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『ドイツイエロー、もしくはある広場の記憶』

2005年09月02日 | Book

『ドイツイエロー、もしくはある広場の記憶』読了。大崎善生著。新潮社。
 のろのろさんのブログでこの作品集に『九月の四分の一』と対になっている作品が載っていることを知り、今回の出張の移動時間中に読みたいなと思っていた。羽田空港第2ターミナル(ANAのほう)にある小さな書店に行くと単行本が売っていて、読みたい本がちゃんと販売されていたことに嬉しくなってしまう。

 飛行機の中で読了。
 昔からあるシリーズの登場人物が別のシリーズに登場してくるような話が好きで、そういった作品を読むとなんとなく得した気分になったりした。今回もそう。『九月の四分の一』の終わりは明るくもあり切なくもありだったので、その対になる作品があるというのは個人的にはかなり盛り上がってしまった。

 作品のタイトルは『キャトルセプタンブル』。フランス語で九月四日という意味であり、この作品では駅名でもある。

 読む前に予想していたのは、今度は女性の視点から描かれているのだろうなということだったのだけれど、その予想は半分当たって、半分はずれていた。つまり、女性というところはあっていたのだけれど、あのときの女性の娘が主人公なのだ。
 結論から言うと、数日間のあの寓話のようなエピソードは、当事者の女性のみならず、その娘にまで魔法のような効力を保持し続けていたことになる。そして、そのことを信じられる人にとってはこの作品はとても魅力的なものに映るだろう。
 ある種のエピソードは事実を超えた力を持つものだし、それはもしかしたら多分に思いこみのようなものを含んでいるのかもしれないけれど、客観的な事実ばかりを思い出にしまっておくというのは、誰もがしたいと思うようなことではないだろう。それに、あくまでも個人的なものである記憶が恣意的なものであったとしても、誰も文句なんてつけないだろう。

 対になるこの2つの作品で、ある数日間の思い出は、3人の人間にとっての柔らかくて大切な記憶になっている。孤独のトーンが常にそこに漂っているような作品だけに、それはとても大切なことだと思う。

 他の3つの作品にも、基調低音としての孤独があり、ある種の柔らかなカタルシスというかささやかな救いのようなものがある。この作家は透明度の高い孤独感と感傷を描くのが巧みだけれど、その特徴はこの作品集にもはっきりと出ていた。


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 ジャッキーチェンとサモハンキンポーとユンピョウが競演! とかも得した気分になりますよね。
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