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Sun Set Blog

日々と読書と思うコト。

『パラレルワールド 11次元の宇宙から超空間へ』

2006年02月01日 | Book

『パラレルワールド 11次元の宇宙から超空間へ』読了。NHK出版。ミチオ・カク著、斉藤隆央訳。

 帯。

 その時われわれは、別の宇宙へ脱出できるか?
 SFを超えるサイエンス・ノンフィクション!
 M理論と最新データによる究極の宇宙論的予言

 裏帯。

『パラレルワールド』において、著者は第一級の語り口で、現代物理学のもっとも不可思議でエキサイティングな可能性を教えてくれる。それは、われわれの宇宙がただひとつではなく、広大な宇宙のネットワークの中に無数に連なる宇宙のひとつなのかもしれない、というものだ。比喩やユーモアを巧みに交えながら、著者はこの平行宇宙理論のさまざまな可能性について、量子力学や宇宙論、そして最新のM理論をもとに読者に分かりやすく紹介している。本書は優れたガイドによる、素晴らしい宇宙ツアーだ。ひとたび旅立てば、わたしたちは必ずや想像の限界を超えることになるだろう。ブライアン・グリーン(『エレガントな宇宙』著者)。


 この本は、タイトルだけとると突拍子もない内容に思えるけれど、実際にはニューヨーク市立大学の理論物理学教授が書いた、専門的なサイエンス・ノンフィクションだ。つまり、SFによく登場してくるようなパラレルワールドが実際に存在し得るのか、というようなことについて理論的な説明がされていく。他にもタイムマシンやブラックホールへの決死の旅の可能性など、興味深い内容に触れられている。
 書店で見つけて、ぱらぱらとめくってみて、そういった荒唐無稽な内容が物理学的にどうなのかという内容がわかりやすい文章やたとえで書かれていたので、ついつい購入してみてしまった。そして、読んでみたのだけれど、文系だし物理学なんてまったくの素人の僕でも、大まかには内容を把握できるくらいにはわかりやすく、おもしろく読める本だった。
 それは、ひとえに著者の書き方によるものなのだと思う。アインシュタインやホーキングなど著名な人物の研究の興味深いエピソードや、論戦の際に発した印象的な言葉の引用、あるいは『スター・トレック』や『バック・トゥ・ザ・フィーチャー』、そして『マトリックス』などを例に出した説明など、一般的な読者であっても容易にイメージがわきやすい工夫を随分としてくれているのだ。もちろん、カラビ-ヤウ多様体とかニュートリノ、大型ハドロン加速器など難しい用語や計算式なども多数出てくるのだけれど、そういったところは前後の意味合いでなんとなく理解できればいいや的に読み進めていけばいいやと割り切って読んでいた。「有名な逆二乗則からのずれが見つかれば」なんていう文章があるのだけれど、有名らしい逆二乗則なんてはじめて聞いたし。そういうところにいちいち突っかかって止まっていたら、400ページ以上あるこの手の本はたぶん積読になってしまうのだろうし。

 もちろん、読み終わったいまでもちゃんと理解できているのかどうかと言われたら首を傾げてしまうのだけれど、それでもいままで未知の領域ではあったので、新鮮だったし勉強になったとは思う。パラレルワールドなりワープホールなりというのが、現状は存在が確認されているわけでもないし、実用化されているわけでもないけれど、真剣な研究の対象になっており、様々な仮説や論文が次々と世界中で書かれていることなんかもある意味新鮮だったしとても興味深かった。
 そして、観測機器の質の向上も劇的に進んでおり、たとえば他の生命体の存在を八十万光年の銀河系の中からは発見できなかったけれど、それ以上の探索ができるようになっていくなんていうのも、随分と刺激的なことのように思える。


 いくつか引用。


 ファインマンは、ニュートンの運動法則に反する奇想天外な経路について、それぞれに割り当てた数を足し合わせると、たいてい打ち消しあって総和はわずかになることに気づいた。そしてこれが量子のゆらぎのもとだった――つまり、量子ゆらぎは総和が非常に小さい経路を意味していたのである。一方、彼は、常識的なニュートン理論の経路が、打ち消されずに大きな総和になる経路――確率が最大となる経路――であることも発見した。したがって、物理的な世界に対するわれわれの常識的な観念は、無数に存在する状態の中で最も可能性の大きな状態に相当する。しかし、われわれはあらゆる可能な状態と共存しており、そのなかには、恐竜の時代や、近隣の超新星や、宇宙の果てにまで連れていくようなものもあるのだ(198~199ページ)。


 こうした量子力学の解釈によれば、考えられるすべての世界がわれわれと共存していることになる。そう気づくと思わずめまいを覚える。そのような別世界へ行くにはワームホールが必要かもしれないが、それらのさまざまな量子論的現実は、まさにわれわれがいる場所に存在している。われわれは、どこへ行ってもそれらと共存しているのだ。ここで重要な疑問が生じる。もしそのとおりなら、われわれの部屋にあふれ返っている別世界は、なぜ見えないのだろう? そこで干渉性の消失の出番だ。われわれの波動関数は、そうした世界と干渉しなくなっているのである(……)ノーベル賞受賞者のスティーブン・ワインバーグは、この多宇宙理論をラジオにたとえている。あなたの周囲には、遠くの局から放送されている何百もの電波が飛び交っている。いつなんどきであれ、あなたのオフィスや車や自宅の部屋にはそうした電波が満ち満ちているのだ。ところが、ラジオをつけると、一度にひとつの周波数の電波しか聞こえない。ほかの周波数は干渉性を失い、位相が一致しなくなっている。放送局はそれぞれエネルギーも周波数も違う電波を発しているから、ラジオでは一度にひとつの局にしか合わせられないのである(206~207ページ)。


 LIGOが(地球から三億光年以内にある)二個のブラックホールの衝突を検出するまで待つ時間は、一年かもしれないし、千年かもしれない。多くの天文学者は、そうした現象を観測するのが自分よりずっとあとの世代だということになれば、LIGOでの探査を考えなおしてしまいそうだ。しかしLIGOの研究者ピーター・ソールソンは言っている。「人間は、こうした技術的な難問を解くのに楽しみを覚えるものだ。中世の大聖堂を作った人々も、自分は完成した姿を見られないかもしれないと知りながら、がんばった。でも、自分が生きているうちに重力波を観測できる可能性がわずかでもなければ、私はこの分野には携わってはいない。単にノーベル賞熱に浮かされているのではない。……求める精度のレベルこそが、私たちの仕事の要なのだ。それに到達すれば、『正しいもの』を手にすることになる」(313ページ)


 だが幸いにも、わずかでも地球に衝突する確率がある小惑星は、四十二個しか知られていない。(……)しかし、1950DAという小惑星の軌道を綿密に調べたところ、2880年3月16日に地球に衝突する確率がほんのわずかだがあると見積もられた。カリフォルニア大学サンタクルーズ校のコンピュータ・シュミレーションでは、この小惑星が海に衝突した場合、高さ120メートルの津波が起き、沿岸地域の大半が破滅的な水害をこうむることが明らかになっている)(351ページ)。


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 お知らせ

 たまに普段読まないジャンルを読むと新鮮でした。

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『エンド・ゲーム』

2006年01月19日 | Book

『エンド・ゲーム』読了。恩田陸。集英社。

 帯にはこう書かれている。

 裏返されたら、どうなる?

 正体不明の存在「あれ」と戦い続けてきた一家。最後のプレイヤーとなった娘が誘い込まれたのは、罠と嘘の迷宮だった。


 恩田陸の本は数冊しか読んでいなくて、ただ『常野物語』シリーズの2冊(『光の帝国』、『蒲公英草紙』)は読んでいて、結構というかかなり好きな話だった。不思議な能力を持つ常野一族の様々なエピソードは、それぞれに雰囲気は異なったけれどそれぞれに魅力的だった。
 この『エンド・ゲーム』はその常野物語のシリーズの最新作ということになる。しかも、様々な一族の紹介版のような第1作の短編集『光の帝国』の中でも、そのおそろしさと引き込み具合については1、2を争っていた『オセロ・ゲーム』の続編なのだからなおさら期待してしまっていた。

 結果としては、その期待は微妙に裏切られてしまったということになる。もちろん、それは悪い意味ではなくて、勝手な想像として「あれ」と常野の一族との激しい戦いについて描かれていると思い込んでしまっていたのだ。裏返される恐怖と裏返し続けること。その果てに姿を消した夫を、父親をこの手に取り戻し家族が再び揃うこと――そういう話を想像していたのだ。

 その想像は、大きく裏切られることになる。前作の「裏返し」についてのエピソード自体が、そうだったのかと思わされるような結末が待っている。
 結構賛否両論が分かれる作品なのだろうなと思う。個人的には、常野物語のスケールの大きさに惹かれていたのだけれど、この作品については広がっていくというよりは、箱庭的な身の処し方について描かれた感じになっている。もちろん、能力を有している少数派の一族のささやかな抵抗は、大きなうねりの中ではもう意味すら見出せなくなってしまっているというある意味リアルな状況を描いているのだとは思ったけれど。

 先へ先へとページをめくらせる展開は相変わらず魅力的だったし、あっという間に読めてしまったのだけれど、最後のまとめ方はそうくるんだ……という感じだった。でもこれはこれでありなのだよなとも思う。最初の想像と乖離していたのでそう思ってしまうだけなのだ。

 でも、この「裏返す」という言葉については、よくこんなことを思いつくよなと思う。抽象的だけれど、その恐ろしさがよく伝わってくる、何か得体の知れない恐怖を感じる言葉だと思う。
 たとえば誰かにあなたを裏返すわと言われたら、ちょっとというか、かなりこわい感じがする。


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 お知らせ

 このシリーズはでもまだまだ続くとのことなので、それはとても楽しみです。

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『なんくるない』

2006年01月19日 | Book

『なんくるない』読了。よしもとばなな。新潮社。

 沖縄という場所は、表紙に描かれた絵のように、その人の本質をありのままに映し出す場所なのだろう。
 僕は霊感なんてないし、不思議な体験だってしたことがないけれど、それでもそういうものがないとは思わない。それは宇宙人に遭ったことがないけれど、存在は信じているというのと同じ程度の重さの話だ。この世界には自然の気のようなものが特に強く息づく場所はあるだろうし、そういう場所にいけば霊感のない人だって何かをかすかに感じることができるかもしれないとは思う。

 よしもとばななの作品の中には、そういう不思議な力のようなものについて書かれたものが多い。前面には出てきていなくても、影のように常に主人公の足元から伸びていたり、風のように周囲を吹きぬけている。考えてみれば、初期の作品からこちら側とあちら側の曖昧な接点について語られていて(たとえば『ムーンライト・シャドウ』ですでに語られていた)、その後も繰り返し結構踏み込んでそういうものについて書かれている。それはやっぱり作家の方向性の話なのだろうし、大きな力であるとか、人間がありのままに生きるということについてとか、作家のテーマというのはそう大きく変わらないものなのだろうなと思う。

 印象に残ったのはこの文章。


 そんなふうに家族が家族として安全だった時代が、もう変わって行きつつある……それは日本中のどこにいっても同じだ。みんながいっしょに住んで、お父さんとけんかしたらおばあちゃんのところに行ったり、夫婦げんかはおじいちゃんの一言でおさまったり、うまくいかないこともみんなでごはんを食べたらいつの間にかなくなってしまったり、子供が産まれてもみんなで育てていけばよくて、誰かの欠けている性質を必ず誰かが持っていて、誰かを失えば誰かを得て、みんなの力を合わせてやっとひとりの大きな人間みたいなものが成立していく実感……それが失われていく時代に私たちは生きていた。そしてまた、大きな自然の中に小さな家族があり、そこで生かされているという畏敬の念も、毎日の雑事に追われてわからなくなっていく。(16ページ)


 もちろん、人は根本的にはそんなに変わるはずがないとも思う。けれども、現実問題として、多くのことが変わっていっている。サザエさん的な、そしてちびまる子ちゃん的な家族でさえすでに少なくなり始めているのかもしれないのだ。そのうち、核家族の子供が主人公のアニメが当たり前のように放映されるようにさえなるかもしれない。鍵っ子で、進学塾に通い、携帯メールでメル友とチャットをする小学生が主人公のアニメ。日曜日の夜にそういうのをあるあると見るような時代が来るかもしれないのだ。

 繰り返しになるけれど、人は根本的にはそんなに変わるはずがないとも思う。家族はやっぱり大切だし、人と人との触れ合いは空気のようなものだからなくなったらきっと死んでしまう。けれども、表面上の変化が当たり前になって、底の方を流れているものを普段は忘れてしまうことは考えられないことではないのだ。

 必要なのは想像力なのだとときどき思う。情報化が進み様々なものが頭でっかちになっていく中で、情報で状況が変化していく世界の中で、それでもリアルな肉体感覚を持つこと。頭と身体を繋ぎとめるための想像力を持つこと。言葉や、行動が相手にどう届くのかと考え痛みを感じたりすることができるようでいること。
 それはきっと難しいことじゃないと思うのだけれど、難しく考えすぎているケースはとても多いのだろうなと思う。


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 お知らせ

「なんくるない」のトラとピンキーちゃんの出会いのところはいいシーンだと思います。

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『とるにたらないものもの』

2006年01月18日 | Book

『とるにたらないものもの』読了。江國香織。集英社。

 久しぶりに江國香織の文章を読む。他愛のないもの(たとえば「緑いろの信号」、「下敷き」、「石けん」、「バスタオルトバスローブ」などなど)について書かれたエッセイ集。読みながら、ああそうだなあと思う。江國香織はこういう文章を書く人だったとしみじみと思う。江國香織の小説は一時期集中的に読んでいて、ある種の作品群(『ホリー・ガーデン』や『落下する夕方』など)はものすごく好きだった。もちろんいまでもそれは変わらないけれど、最近は新しい本を読んでいなかった(出ていないということもあるけれど)。

 久しぶりに読んで、なんだか故郷に遊びに帰ってきたような感じを抱く。普段は江國香織的な世界観であるとか、文章のリズムのようなものとはかけ離れたところで暮らしている。それでも、ページを手繰ると、その世界のようなものに立ち返ってくることができる。そういうのは、ある程度の数を読んできた作家に特有のものだ。たとえば村上春樹もそうで、あまりにもたくさんの本を読んできたから、久しぶりに新刊を読んだりすると、すっとその世界に入り込むことができる。馴染んでいくことができる。

 もちろん、作家が初期と中期とそれ以降とで変化していくことは当然のことだ。それをリアルタイムで追うことができるのも同じ時代を生きる読者としてはおもしろいし頼もしい限りだ。それでも、読んでいてその変化を嬉しく思いつつもどこかで残念に思っている自分がいるのがちょっと不思議な感じだ。
 それは個人的な嗜好としての「好きな感じ」があるからなのだとは思うのだけれど。
 このエッセイ集(1998年から2003年までの間に書かれている)を読んでいても、変わりつつある部分と、変わらない部分との両方があっておもしろく思いつつ、ちょっと残念に思ったりしては一喜一憂していた。

 それでも、特別に好きな作家というものは、たいていの場合(主に長編小説で)こうきたか! やられた! と思ってしまうような作品を繰り出してくることになっているような気がするので、次のそれがとても待ち遠しくもあるのだけれど。


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 お知らせ

「スプリンクラー」を読んで、久しぶりに小学校の廊下に置かれた黒板消しを掃除する機械のことを思い出しました。
 あれの正式名称ってなんなのでしょうか?

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『ローマ人の物語ⅩⅣ キリストの勝利』

2006年01月08日 | Book

『ローマ人の物語ⅩⅣ キリストの勝利』読了。塩野七生著。新潮社。

 帯にはこう書かれている。


 ついにローマ帝国はキリスト教に呑み込まれる
 四世紀末、ローマの針路を大きく変えたのは皇帝ではなく一人の司教であった
 帝国滅亡を決定的にしたキリスト教の国教化、その真相に迫る


 毎年刊行全15巻完結の『ローマ人の物語』シリーズも、いよいよ今回で14冊目。あと1冊で完結だと思うととても名残惜しいのだけれど、その一方ではいよいよローマ帝国にも様々な軋みが目立つようになっているのが疑いようもないことはわかる。それなのでページをめくる手もちょっと躊躇しがちなのだけれど、ここまで来たのだからその行く末をちゃんと見届けたいなとも思う。

 さて、今回はタイトルにあるように、多神教の国だったローマ帝国が一神教のキリスト教を国教にするにいたるまでの詰めの時代について描かれている。親キリスト教の立場を取ったコンスタンティヌスやコンスタンティウス、それから時代の流れに逆らってまで再びローマ帝国を多神教の国にしようとしたユリアヌス、そして、皇帝と司教の立場を逆転させる司教アンブロシウスなどについて語られている。大きな歴史の流れは誰か一人の力ではどうすることもできないような方向へとうねり、その中で様々な登場人物が各々の役割を果たしていく。

 僕は高校時代に日本史を専攻していたので世界史は結構疎かったのだけれど、このシリーズを読むことでローマ帝国については結構詳しく知ることができるようになった。カエサル(シーザー)や、アウグストゥス、ティベリウスから、五賢帝と呼ばれた皇帝たちについて、このシリーズを手にするまではほとんどのことを知らなかった。日本ではまだ縄文時代や古墳時代だった頃に、こんなにも技術の質を併せ持った国家が存在していたのだと思うと、世界は広いと改めて考えさせられる。

 また、いよいよ大きな勢力となってきたキリスト教が、ローマ帝国の中でいかに強大になっていったのかも追うことができ、納得度が高い。
 読んでいて思うことのひとつは、このシリーズでは人間性への言及が随所に見られるということだ。たとえばキリスト教に関しても、布教が進んだのはそれに拠り所を得たい人が多かったということももちろんあるけれど、その一方では、様々な税金が免除になり、優遇されていたからという面もあるのだ。それ故に地方の金持ちなどがキリスト教に入信し財産の保護をねらっていたというわけだ。そのように、一歩引いたような地点から、現実的な理由を詳細に記述している。以前の巻で「人は自分が見たいと思っている現実しか見ない」というような言葉があったのだけれど、そのことも合わせていろいろと考えさせられる。
 そういったことを理解することは、とても大切なことのように思う。


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 お知らせ

 毎年1冊ずつ15冊、というのは随分とすごいシリーズだと新刊が出るたびに思います。

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『人生激場』

2005年10月26日 | Book

『人生激場』読了。三浦しをん著。新潮社。週刊新潮で連載されていたエッセイ集。身の回りの様々な出来事に、どこか古風な言葉とオタク的な視点でつっこみを入れていく笑える本。おもしろい作家でありながらエッセイもまた違った意味で魅力的という作家は結構いるけれど、三浦しをんもその一人だと思う。と言うか、かなり笑った。

 2003年に初版の本なので2002年のワールドカップについて書かれているのだけれど、とりわけそのくだりには笑ってしまった。僕もヨーロッパサッカーが好きで元ネタがわかるので、いちいちツボにはまってしまったのだ。

 たとえば、

 カーン様……ドイツのゴールキーパー。道行く人に彼の写真を見せて、「さあ、この人の好物はなんでしょう?」と質問したら、十人が十人、「バナナ」と答えるであろう、猛きゲルマンおのこ。(59ページ)

 とか、

 決勝戦の見どころの一つは間違いなく、雨に濡れてますます地球外生命体っぽいテカリを放つ審判のコッリーナさんだった。筋の浮いた頭。邪悪な笑み。コッリーナさん的には優しく微笑んでいるのだろうけれど、笑うと怖さ倍増である。(65ページ)

 など読んでいてかなり笑ってしまった。今日入ったLIBLOでこの作家の小説を買おうと思って売り切れていたのでかわりに買ったのだけれど、これはこれで当たりだよなと思ってみたり。文中に突如出てくるたとえ話の突拍子のなさや、心の声を説明する( )のうまい使い方、そして威勢がよかったりとほほ的だったりするつっこみなど、小説のみならずエッセイもまだ読んでみたいなと思ってみたり。


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 お知らせ

 コッリーナはスキャンダルに巻き込まれて本当に引退することになってしまい残念と言えば残念でした。
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『ドイツイエロー、もしくはある広場の記憶』

2005年09月02日 | Book

『ドイツイエロー、もしくはある広場の記憶』読了。大崎善生著。新潮社。
 のろのろさんのブログでこの作品集に『九月の四分の一』と対になっている作品が載っていることを知り、今回の出張の移動時間中に読みたいなと思っていた。羽田空港第2ターミナル(ANAのほう)にある小さな書店に行くと単行本が売っていて、読みたい本がちゃんと販売されていたことに嬉しくなってしまう。

 飛行機の中で読了。
 昔からあるシリーズの登場人物が別のシリーズに登場してくるような話が好きで、そういった作品を読むとなんとなく得した気分になったりした。今回もそう。『九月の四分の一』の終わりは明るくもあり切なくもありだったので、その対になる作品があるというのは個人的にはかなり盛り上がってしまった。

 作品のタイトルは『キャトルセプタンブル』。フランス語で九月四日という意味であり、この作品では駅名でもある。

 読む前に予想していたのは、今度は女性の視点から描かれているのだろうなということだったのだけれど、その予想は半分当たって、半分はずれていた。つまり、女性というところはあっていたのだけれど、あのときの女性の娘が主人公なのだ。
 結論から言うと、数日間のあの寓話のようなエピソードは、当事者の女性のみならず、その娘にまで魔法のような効力を保持し続けていたことになる。そして、そのことを信じられる人にとってはこの作品はとても魅力的なものに映るだろう。
 ある種のエピソードは事実を超えた力を持つものだし、それはもしかしたら多分に思いこみのようなものを含んでいるのかもしれないけれど、客観的な事実ばかりを思い出にしまっておくというのは、誰もがしたいと思うようなことではないだろう。それに、あくまでも個人的なものである記憶が恣意的なものであったとしても、誰も文句なんてつけないだろう。

 対になるこの2つの作品で、ある数日間の思い出は、3人の人間にとっての柔らかくて大切な記憶になっている。孤独のトーンが常にそこに漂っているような作品だけに、それはとても大切なことだと思う。

 他の3つの作品にも、基調低音としての孤独があり、ある種の柔らかなカタルシスというかささやかな救いのようなものがある。この作家は透明度の高い孤独感と感傷を描くのが巧みだけれど、その特徴はこの作品集にもはっきりと出ていた。


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 ジャッキーチェンとサモハンキンポーとユンピョウが競演! とかも得した気分になりますよね。
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『格闘する者に○』

2005年08月24日 | Book

『格闘する者に○』読了。三浦しをん。新潮社。

 部屋を出る前に、先日買っていた本の中でまだ読んでいなかったこの文庫をカバンの中に入れて、新幹線の行き帰りの中で読み終える。
 おもしろかった。
 語り口が非常に巧みで、登場人物たちの個性がちゃんと明確。ユーモアもあり、ときおり叙情的な雰囲気も醸し出している。また、就職活動にお家騒動も織り交ぜた構成は先へ先へとページをめくる手を急がせる。

 三浦しをんの本ははじめて読んだけれど、楽しく読むことができた。いろいろなところで紹介されていて興味はあったのだけれど、そういう作家に手を出すのはちょっと慎重になってしまう。おそらくは気に入ってしまうのだろうなと思いつつも、期待し過ぎて変な色眼鏡で見たくはないし……できることならニュートラルな気持ちに読んでみたいとか思ってしまうのだ。
 それで、『私が語りはじめた彼は』がきっととてもよいのだろうと思ってしまっていたので、とりあえずいきなりそちらにはいかず、文庫本コーナーで見つけたデビュー作を手に取ってみたのだ。

 解説ではエッセイもおもしろいというようなことが書かれていたけれど、「私」の観察眼からすると、エッセイも相当面白いのだろうなという感じがする。

 あんまり慌てず、少しずつ出ている本を読んでいきたいなと思う。


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 後輩に『ノロイ』を観に行きましょうと誘われたのですが、即断りました。
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『商売は心理学』

2005年08月24日 | Book

『商売は心理学』読了。桑原聡子著。かんき出版。

THE店長会議」という業界誌の編集長が書いた、様々な繁盛店や企業がお客さまから支持されている理由を記した本。取材を元にした様々な企業の事例が数多く載っており、参考になる部分が多い。たとえば、「スタジオアリス」がいかにして旧来の職人気質の写真館業界に風穴を開けたのかというエピソードや、「セシルマクビー」がいかにして情報感度の高い顧客を惹きつけているのか、あるいは「ジョイフル本田」が潜在ニーズを引き出すために何をしているのか、そういったことが具体例を元にして語られている。どれも成功体験についてのエピソードであるし企業名自体にもなじみ深いところが多いので、読み進めていく上で納得性は高い。

 けれども、考えさせられるのはここに載せられているエピソードの多くはある意味オンリーワンの事例であるということだ。ある特殊な繁盛店であったり、ある特殊な会社であったり。強烈なリーダーシップを持ったトップや、得難い個性を持った販売員、あるいは非常に問題意識の高い店長。そういったメンバーがなしえた差別化された事例(=代替不可能な事例)なのだ。つまり、それぞれの店や会社が書かれているような成功を収めたのは明確なポリシーに基づいた実践があったからであり、簡単にどこでもが真似できるようなものではない。

 こういった本や昨今の業界誌を読んでいると、チェーン化された画一化された店舗やサービスでは今後の激しい競争を勝ち抜いていくことは難しく、どこまできめ細やかなサービス力をつけていくことができるのかということが重要であるように思えてしまう。もちろん、それはとても大切なことだ。顧客視点で便利なサービスを創り上げることはやらなければならないことであり、全国チェーンの大手でさえもいまは地域性や個店与件ということを重視しはじめている(たとえば、GMSでの生鮮や鮮魚は地場の物を仕入るなど)。けれども、ある種の特別な事例を上辺だけ真似すると失敗する可能性が高く、本質的な部分、自社がどのような点で顧客に満足してもらいたいのかということをあらためて考えなければならないのだと逆に考えさせられた。

 つまり、先日読んだ『勝つ流通業の「一番」戦略』に書かれていたように、自社が目指すのは「安さベスト」なのか「品ぞろえベスト」なのか「商品のホットさベスト」なのかを明確にするべきなのだ。たとえば「安さ」を重視するのであれば、見栄えのよい什器類は必要ないし、「商品のホットさ」であれば流行の先端を走るデザインを揃える必要がある。いずれにしても、目指すべきポリシーが明確になっていないと、そのときのそのときの流行に引きずられ、結局それまでついていた顧客の支持を失ってしまうかもしれない。

 流通業はとても変化の早い業界で、変化対応力を十二分に有していなければ対応できない業界であると思うけれど(現に様々な企業の成功と失敗事例が渦巻いている)、それでも基本的に人間がお客さまなわけで、人間は本質的には変化していない。つまり、ポリシーが明確であれば、ある一定の層からの支持を得られるはずなのだ。そこをいたずらに企業規模を増やそうとしていく中で軸足がぶれていき、結局個性のない、ポリシーのない企業になりはててしまう。そういったしっかりとした軸足のようなものについて、あらためて考えさせられた。

 すべてを実現する企業にはなれないかわりに、軸足を置くべき場所は明確にする必要があると思うのだ。


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 こういう本で書かれている店を実際に訪れてみたりするのは興味深いし楽しいのです。
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最近読んだ本

2005年08月04日 | Book

 この2週間に読んだ本。

『重力ピエロ』 伊坂幸太郎。新潮社。
『チルドレン』 伊坂幸太郎。講談社。
『九月の四分の一』 大崎善生。新潮社。
『ついこの店で買ってしまう理由』 博報堂パコ・アンダーヒル研究会編。日本経済新聞社。

 伊坂幸太郎は『死神の精度』に引き続いて他の作品も手に取ってみた。ミステリー風味であるけれど本格派と言うよりは謎解きはエッセンス程度で、魅力的な登場人物たちが織りなすストーリーを追うのがメインといった感じ。ストーリーテリングに妙があり、最期に様々な話が繋がってくるところも魅力的。いたるところに散りばめられたうんちくもおもしろい。
 大崎善生はすでに独特の作風とトーンを確立していると思うのだけれど、この短編集も期待を裏切らずどこか切なくて哀しく、それでいて最期には前を向こうというところがある。文章が静謐で言葉の選び方の透明度が高いような感じで、秋の少し涼しい風を浴びているような文章。再読だったのだけれど、どの短篇もしみじみとした味わいがあってよかった。
『ついこの店で~』は、以前に読んでかなり感銘を受けた『なぜこの店で買ってしまうのか』のイラスト入りの解説書のような本。僕は小売業の店長をしているので、こういう本はリアリティを実感しながら読んでしまう。


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 お知らせ

 いま、塩野七生の『ローマから世界が見える』を読んでいるのですが、どこかで読んだことがある文章だなと思っていたら、以前に買った『痛快! ローマ学』を改稿したものでした……
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