先週から今週にかけて読書は3冊。江國香織『がらくた』、恩田陸『朝日のようにさわやかに』、本多孝好『FINE DAYS』を読む。
それとは別に小売業の専門誌を1冊読み進めていて(特集記事は組織運営の原則)、電化製品の新製品ばかりが掲載されたよくあるような雑誌をぱらぱらとめくっている。
『がらくた』の帯には「愛の歓びと怖さ、その光と影を描き尽くす、完璧な恋愛小説。」と書かれている。
こんなひねりのない紹介文(それこそどんな物語にも適用できてしまうような)が書かれてしまうあたりに、この作品の微妙な位置づけが明らかになってしまっているようで少しだけかなしい。
もちろん、これは駄作というわけではなくて、登場人物たちの狭い世界の中の物語を過剰に凡庸に描くことで、諦めと執着の持つある種の真実を浮かび上がらせているのだと思う。
柊子も美海も、メインストリートから外れたという意味で特殊な、いわゆる世間の人たちからは浮いた存在だ。けれども、その浮き方はどこかステレオタイプで、空回りした雰囲気をまとっている。
現実の時間の中で特別であることは瞬間的なもののはずなので、特別な時間を引き延ばそうと懸命な柊子は燃料がほとんどないのに飛び続けている飛行機のように痛々しい。
また、「私を私としてだけ見て、知って、理解してくれた」なんて頭で考えた理屈にすがらなくてはならない美海も、相当に痛々しい。若さゆえの自意識をうまくいなしてくれる外部との接触があまりにも少なすぎるから、自意識を純粋培養してしまっているのだ。
登場人物たちに感情移入をさせず、いわゆる「痛い」様を穏かに見せつける最近の作風は段々と昇華されてきていて、セレブ的なキーワードが多用されることなんかも、なんだかここまでくると確信犯的なような気がする。別にすべての作家がハッピーエンドで感情移入することができる物語を書く必要はなくて、これはこれでどうしようもないくらい現実を映し出している。もちろん、その現実が滑稽に見えるきらいはあるけれど、だからこそよりリアルに近いということもできると思う。
個人的にはやっぱり好きな作家なので、初期の頃のどこか壊れた感受性の持ち主たちが出ていた「若い」作品を期待してしまうけれど、これもある種の成熟の形なのだろう。言ってしまえば、好きな作家には好きなタイプの作品を書き続けていてもらいたいという子供じみた希望を捨てきれないだけで、割り切って読んでみれば、やっぱりうまいのは事実。
何だかんだ言っても、久しぶりに江國香織の文章に触れているのは、もちろんとても楽しいことだった。
ただ、「私は言った」とか、「嬉しそうに言う」、「私は言ってみた」などの会話の後の文章が随分と増えた気がするのだけれど。
恩田陸のは短編集。あっという間に読み終える(引き出しがたくさんあるとあらためて思う)。本多孝好は少しだけ不思議な舞台装置を持った短編集。タイムスリップや超能力とか。ロングセラーになっているのをようやく手に取ってみたのだけれど、売れ続けているのも納得。才気があって、うまい。
携帯電話の新機種なんかが載っている雑誌をめくり、どれにしようかなと思っている。
異動をしたら出張生活になるので、とりあえずノートパソコンと新しい携帯電話を購入しようと考えているのだ(予定外の出費……)。
ノートパソコンはもちろん会社から支給されるのだけれど、ビジネスホテルで暮らす間、インターネットや文章を書くことなんかは自分のパソコンでやりたいのだ。だとしたらパソコンを2台持って移動することになるので小さいやつがいいな……とか思っている。
携帯電話はもう2年以上同じやつを使っているので、さすがにそろそろ買い換え時期になっている。電車の中で、ワンセグを見ることができるやつがいいなとか。
他愛のないことだけれど、そういう雑誌を見ながらこれがいいなとか思っているのは、やっぱり楽しいことだと思う。
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お知らせ
それにしても、携帯電話に「これ!」という機種がなくて迷ってしまいます。
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