Sun Set Blog

日々と読書と思うコト。

Radio in afternoon

2005年04月20日 | Days

 最近、車を運転しているときにラジオを聴くようになったのだけれど、別にたいした理由があるわけではない。
 基本的にテレビを見ないので、少しは世間の話題に触れておこうと思ったところは確かにあるけれど、まあそれはとってつけた理由のようなものなので、一番感覚的に近いのは「何となく」聴くようになったというものだ。
 だから最近では、通勤の合間の僅かな時間や、休日に買い物に行くときの時間に車の中でラジオが流れている。通勤自体は10分とかからないので(気が向いたら歩いて通うことさえできる距離)、本当にあっという間だ。ひとつのコーナーが終わらないうちに、1曲終わらないうちに着いてしまいさえする。

 休日に車に乗るときには、もうちょっと長く聴いていられる。僕の休日は平日なので、必然的にウィークデイの日中のラジオを聴くことになる。午後ののんびりとした時間に流れる番組は、安穏とした雰囲気を感じさせて新聞をにぎわす物騒なニュースなんて別の世界の話題のようにさえ思える。明るいキャラクターのDJたちに、懐かしかったり新しかったりする様々な曲。あるテーマにまつわるエピソードや、リスナーたちの失敗談。思わず笑ってしまうようなものもあれば、やれやれと思ってしまうものもある。いずれにしても、ラジオの中の世界では、ある種の楽観さが重要な前提条件になっている。

 聴いていて思うのは、日常がちゃんとあるのだということだ。僕の日々はやや仕事が中心になっているので、ちょっと気を抜くと職場と部屋の往復になってしまう。そういう生活だと、意識して遊びに行ったりしなければ同じような日々の繰り返しになってしまう。忙しい時期にはその傾向に拍車がかかり、それ以外の選択肢がないような感じにもなって、それが気がつくと生活を磨耗させてしまうときもあるのだ。

 個人的にはストレスが溜まりづらい方なので、全然深刻ではないのだけれど(仕事は楽しいし)、それでもやっぱりどこかでは日常を求めているということなのかもしれない。少なくとも、ラジオを聴いていると、懐かしいペースを思い出すことができて、なんとなく嬉しくなるのだ。
 テレビを見たらなおさらそう思えるのかなとも思うのだけれど、見出すと止まらなくなりそうな気もするので、それはとりあえず自粛の方向でいる。でもまあ、パソコンでドラマひとつくらいなら録画して、CMを飛ばして見てみたいとかは思ったりもするのだけれど。稲盛いずみのドラマもやっているみたいだし(と言いながら1話目から見逃しているのだけれど……)。

 会社でテレビっ子の後輩と休憩時間に話していたりすると、そのあまりのテレビっ子ぶりに驚かされてしまう。韓国ドラマにはまっているその子なんかは、何かの暗号としか思えない俳優の名前を出してきてはそのよさを伝えようとしている。話題になっているくらいだから面白いのだろうけれど……
(ちなみに、そのテレビっ子後輩が教えてくれた何かのテレビ番組でやっていたというアンケート「ペイ・オフが何のことか知っていますか?」に、あるおばあちゃんが「韓国人俳優」と答えたというのはとてもツボにはまってしまったのだけれど)。

 でもまあ、そんなにテレビを見ない僕でも、最近は大型テレビが欲しいなとちょっと思っていたりしている。部屋でDVDを借りてきて大画面で見たいなとぼんやりと思っていたりするのだ。でもまあ、そういうことは引越しするときにでも考えよう。


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 お知らせ

 ペ・イオフって本当にいそうですよね。

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検索エンジン

2005年04月17日 | Days

 たとえばネットに繋いでいる人で、検索エンジンを使ったことのない人はいないだろう。
 仕事上必要な調べ物や、面白かった映画の俳優の名前、あるいはある歴史的な事件についての様々な背景など、何かを調べたい人はたくさんいて、調べるべきことはたくさんあり、その時々に検索エンジンは結構というかかなり重宝する。
 Googleにしてもyahooにしても一長一短はあるけれど便利なことには変わりない。

 今日仕事から帰ってきて、Googleで検索をしていてふとあることを思いついた。

 それは、(おそらくたくさんの人が考えたことがあるのだろうけど)Googleで1件しかヒットしない言葉を見つけるというのは結構面白いゲームになるかもしれないということだ。該当するものがないというケースは結構ある。その一方で、何万件というヒット数になるものはかなりたくさんある。けれどもぐっと絞って1桁とか、たった1件のみとなると逆にかなり難しくなるような気がする。

 実際、いまこの文章を書くためにいい加減な言葉で何度かGoogleの検索をかけてみたのだけれど、たとえば「コンレン」という意味不明な言葉で検索をかけても、コンサートの練習略してコンレンとか、コンタクトレンズの略をコンレンと呼ぶ云々とか、思いがけないヒットが出てきて22件くらいになっていたりする。だったらと入れてみた「ポコンポ」なんて651件もある。
「ペレンピー」はさすがに0。でも、検索のヒントに「もっと一般的な言葉を使ってみてください」と表示されていてちょっと切なくなってみたり。

 なんだか試してみたくていろいろな言葉を入れていたら、5分ほどで1件だけの検索結果を見つけてしまった。
 ひらがなだけの組み合わせで5文字。個人的すぎるページに跳んでしまったので言葉は記さないけれど。ちょっとした遊びにはなるかもしれない。普段絶対に見つけられないようなページを見ることができたりもするだろうし。


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 お知らせ

 14時間働いて帰ってきて、「ポコンポ」とか「ペレンピー」とか入力しているのはいかがなものなのでしょう?

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『コンスタンティン』

2005年04月17日 | Movie

 今日は仕事が終わった後、レイトショーの『コンスタンティン』を観に行ってきた。
 人間界に紛れ込んでいる神や悪魔が見える特異体質を持ったエクソシストのコンスタンティンが、善と悪の均衡を破ろうとしている大きな陰謀に立ち向かっていくというストーリー。ただし、それだけ聞くとヒーロー物のように思えるけれど、子供の頃から見たくもない悪魔をたくさん目にしてきたコンスタンティンは結構性格が歪んでしまっていてヒーローと言うにはちょっと癖がある。端的に言えば自己中心的で、皮肉屋で、とっつきにくい。
 しかも、15歳から1日30本吸っている煙草のために進行性の肺ガンを患っており、余命も1年になってしまっている。と、まるでヒーローらしくないアンチヒーローなのだ。
 けれども、悪魔祓いの仕事の中で本来は人間界に存在してはいけないはずの悪魔が姿を見せはじめていることに気付き、異変の予兆を感じ始める。そこに、双子の妹の自殺をどうしても信じることのできない姉が訪ねてきて、物語が動きはじめる。最後の戦いの過程で、コンスタンティンも少しずつ変わり始めていく……

 スタイリッシュで渋い映画だった。キアヌ・リーブスが『マトリックス』3部作の後に選んだ作品だけあって、細部まで凝っていた。特にアンチヒーローの雰囲気を出すためなのか、ハードボイルドな服装や小道具が効果的に使用され、リアリティにある作品に仕上がっていた。キアヌはやはり演技がうまく、脇を固めるキャラクターたちも一癖ある一風変わった人物たちで占められている。

 独特の世界観で統一されている作品は、見ているときの移入度が高くなってくる。『コンスタンティン』もそうで、フィルム・ノワールっぽさを持ちつつ、リアルな世界に悪魔をはめ込んだ舞台に違和感を感じなかった。また、何度か挿入される地獄の映像なども、これは絶対に地獄には落ちたくないと思わせるくらいにはいやな感じのものだった。アメコミが原作とのことだけれど、読者たちはクールな作品と思っているのかもしれない。

 いかにも続編が作られそうなところも、お約束といえばお約束だ。

 ☆☆☆★(3.5点) ※5点満点


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 お知らせ

 予告編で観た『バタフライ・エフェクト』という作品もかなり面白そうでした。

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Cherry blossoms and Ferris wheel

2005年04月15日 | Days

 久しぶりにその駐車場に車を停めた。平日の夕方だったせいかほとんど車はなく、片手で足りるくらいの車が、飼い主に捨てられてしまった小犬みたいな頼りなさで点在していた。なんとなく他の車から間隔を置いた場所に車を回し、バックして駐車スペースへ車を入れる。
 車を降りると、随分と涼しかった。春めいてはきたけれど、17時過ぎには肌寒くなる。それでも、歩いていれば暖かくなるだろうと、動きやすい服装に肩掛けカバン斜めがけという個人的な定番の格好で、たいていの人が帰ろうとする時間の遊歩道に向かって歩いて行った。

 今日は休日でけれども日中は仕事をしていて、ようやくきりを見つけたのが16時過ぎくらいだった。そして、今朝届いたばかりのデジタルカメラ「T7」をどうしても使ってみたくて、久しぶりに近くの山にある遊歩道に行くことにしたのだ。ちょっとした峠道を走っているときにも、夕日は少しずつ曇天の空を染め始めていて、あんまり渋滞がひどかったら遊歩道にたどり着く前に暗くなってしまうかもしれないと運転しながら心配していた。それでも、渋滞は途中から嘘のように流れはじめ、まだ明るいうちに目的地に着くことができた。

 最近車の中ではFMラジオを聴いているのだけれど、夕方の地域の情報番組の中では、相変わらずはじめて聴くグループの曲ばかりが流れていた。たまにかかる昔の洋楽や宇多田ヒカルはわかるけれど、それでも大半のグループはよくわからない。そして、名前も聴き取ることができない。もちろん、聴き取ることができたとしても忘れてしまうのだけれど。

 遊歩道は歩き出してすぐに結構激しいアップダウンを繰り返し、山の奥へと入り込んでいく。その遊歩道は地元の人にとっては頻繁には訪れないけれど、少なくとも一度は訪れたことはあるといった程度のマイナーな観光名所だった。僕は駐車場が広いことと、町中からそう離れていないこともあって、この町に引っ越してきてからわりと頻繁に訪れている。もちろん、そんなことは普段はあんまり言わないけれど、それでも個人的には結構好きな場所だ。
 それにしても、と歩きながら思う。あと1ヶ月ほどでこの町に来て1年になるのだと。

 転勤が多いので結構いろいろな場所を訪れたり、実際に住んでいたりする。その度にいろいろな人と知り合って、たくさんの言葉を交わす。この町でもそれなりには知り合いができた。けれどもあと半年もしたらおそらくこの町も離れてまた別の場所に向かう。もちろん、あと2、3年したら本社に行くだろうから、そうしたら首都圏からそんなに離れることもなくなるとは思うのだけれど、それでも次はどこへ行くのかわからない。ただ、上司の上司に秋には異動だからなといまから言われているので、なんとなくあと半年しかこの町にはいられないのだなと最近は漠然と思っている。そんなに早く言い渡さなくてもいいのにとちょっとだけ思う。すべての言葉や出来事に、「期間限定」の文字が透けてしまうのはちょっといただけない。妙に感傷的になってしまうのだ。

 思うのは、住めば都とはよく言ったものだということ。どこだってそれなりに楽しく、それなりに悲しい。移動していく事がわかっているから地域の活動なんかには深く入り込めないところはあるけれど、入り込まなくても支障なく日々を送ることはできる。それはちょっとだけ考えてしまうことだけれど、それでも深く考えないと思えば考えなくても事足りる。
 何も考えなくても、ただ目の前の景色や、言葉を交わす人が移り変わっていく。

 遊歩道は途中から舗装がなくなり、砂利道になる。下りながら、なんとなく後ろを振り返ってしまう。夕方に人気のない方に向かうことは、いくつになってもちょっとだけ心細い。でもまあ大人なので(それに男なので)何かが起こってもまあなんとかなるだろうと足を進める(そんなふうにいい加減で考えなしのところは長所だと思う)。

 そして緩やかなカーブを曲がると、思いがけない光景が広がっていた。
 そこには、錆びれたジェットコースターの支柱が放置されていたのだ。太古の恐竜の化石のような、致命的な染みのような錆に覆われた、かつては白かった支柱がジェットコースターの急角度をかろうじて形成していた。山の中に遊園地があることはなんとなく知っていたけれど、自分が歩いている遊歩道のすぐ隣に広がっているとは思ってもみなかったので驚いた。よく見るとジェットコースターだけではなく、ケーブルカーらしきものや、観覧車なども見えている。遊歩道からは敷地は柵で仕切られていたけれど、それでも思いがけず近い距離にそれはあった。

 ただ、おかしいなとはすぐ思った。人気がなさ過ぎたのだ。そもそも、ジェットコースターが化石のように見えている時点でおかしいのだ。その遊園地は忘れ去られてしまったかのように、うらぶれて打ち捨てられていた。ベンチはひっくり返され、「入口」と書かれた看板はどこでもない場所を向いていた。誰の姿もなかったし、まだ少しだけ花を残している桜の木だけが、持ち主や子供たちがいなくなった後も、義理堅く何本も園内に咲き続けているのみだった。
 そこは閉園した遊園地だった。遊園地は山の中に奥まってあって、僕が歩いている遊歩道は園内で最も高いところにある観覧車のすぐ近くだった。
 それで、持っていたカメラで柵越しに観覧車の写真を撮った。全然大きくもなく、観覧車の支柱も錆付いている。おそらくかかる費用をどこも負担することができないために、いつまでも放置されている施設。だからもうどれくらい動いていないのかはわからないけれど、観覧車はただ同じ場所でゆらゆらとささやかに揺れているのだ。
 
 観覧車の写真を何枚か撮って、それから十分ほど遊歩道をさらに進んだ。そして、やっぱり引き返すことにした。日が暮れようとしていたのと、日が沈む前にもう一度あの遊園地を見ておこうと思ったからだ。
 昔、廃墟や廃線ばかりを写している写真集があったけれど、打ち捨てられてしまったものにはある種の余韻が残っているとは思う。手で触れてみたら記憶が蘇るといったような。僕自身はそういったものにとりわけ強い郷愁を抱くほうではないけれど、それでもかつてそこにあったものについて思いをめぐらせてしまうことは、多かれ少なかれ誰にでもあると思う。物には魂があるということを無下に否定することはできないだろうし。
 引き返して見た観覧車は、残照を浴びて鈍く照り輝いていた。あと一時間もしたら、すっかり夜の闇に覆われてしまうのだろうなとぼんやりと思った。

 山間の打ち捨てられた遊園地。たとえば満月の夜には、森の子供たちのためにかつての輝きを取り戻し、音楽が鳴り響き、まばゆいばかりのライトで照らされたらいいのに、と子供向けの絵本のような情景を想像してしまった。

 アップダウンの山道を同じように戻ると、駐車場の車の数はさらに少なくなっていた。車に乗り込む前に一度大きく伸びをする。最近はずっと慌しかったのだけれど、歩くことは気持ちがいいなとあらためて思う。それに、歩いていると汗をかいて身体が暖かくなったので涼しい風がより気持ちいい。
 もっと春が深まって、気持ちのよい季節になっていけばいいなと思う。


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 お知らせ

 最近は移動中などに数冊の本を読んだのですが、一番良かったのは10年ぶりくらいに再読した『異人たちとの夏』(山田太一著、新潮文庫)でした。
 空港で読んでいたら泣きそうになってしまい、慌ててトイレに駆け込んでしまう始末。
 というか、個室で号泣。
 いまの年齢には昔よりもぐっとくるものがありました。やばいやばい。

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デジタルカメラ

2005年04月02日 | Days

 デジタルカメラを買おうと思っている。いま僕が使っているのは5年前に買ったもので、当時としては最新型の210万画素のモデルだった(DSC-505)。レンズが飛び出ていて、いかにも本格的カメラ風の外観にたまに照れてしまうこともあったのだけれど、それでもお気に入りで様々な場所に持っていった。

 難点はその大きさで、カバンの中に入れていても結構場所を取ってしまうことだった。小さな肩掛けカバンだと、デジタルカメラを入れただけでもこっとした感じになってしまうことさえあって、小さい物があると便利なのになと思ってはいたのだ(その後Cyber-shot Uを購入したのだけれど、これはズーム機能がなかったこともあって思っていたほど使用しなかった)。
 
 ということで、今月発売になる同じくSonyのT7というデジタルカメラが気になっている。9.8mmという1cmを切った薄さは確かに魅力的で、これならカバンの内ポケットの中にも入ってしまう(ズームもついている)。
 そして、僕は買おうと思うものができたらどんどんその物のよいところを探し出してこれは買わないとと思い込んでしまう方なので、もう結構いろいろな機能を心の中で絶賛していたりする。物欲に弱いヒトみたいで困ってしまうのだけれど。

 これはあくまでも個人的な感覚なのだけれど、携帯電話のカメラにはやっぱりうまく馴染めないのだ。気楽だし、ひとつで済むのは便利だとも思うのだけれど、それでもやっぱりデジタルカメラが欲しいなと思ってしまう。ちょうど今年はこれから出掛けるところも多くなりそうなので、軽くて小さくいつでも携帯できるところは重宝するだろうし。

 何はともあれ、欲しい物のカタログを眺めていたりするのは楽しいなと思う。


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 お知らせ

 最近、通勤のときにラジオを聴くようにしてみました。新鮮な感じです。

コメント (5)
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