Sun Set Blog

日々と読書と思うコト。

大型書店

2004年09月30日 | Days

 昨日出張の帰りに、東京駅から新幹線に乗って帰ってきたのだけれど、その前に丸の内にある「Oazo」を見てきた。
 先日オープンしたばかりの、新しい再開発施設だ。
 11時くらいだったのだけれど、話題の吹き抜けの通路はたくさんの人で溢れていた。正直、Oazoに関してはほとんど何も知らないまま見に行ったので、飲食店以外のショップがほとんどないのだということに少しだけ驚いて、国内最大級というふれこみの丸善をゆっくりと見ることにする。

 丸善はたくさんの本が並べられてはいたけれど、地代の高いところに無理矢理建てました的な印象が感じられて、ちょっと窮屈な感じだった。サブ通路(メインの通路から伸びる本棚と本棚の間)がやや狭く、出張用の少し大きめのバッグを肩にかけたままでは人とすれ違うたびに「すみません」と言わなくてはいけないくらい。もちろん、それを考慮して荷物用のロッカーもあったけれど、ほとんど使っている人はいなかった。

 それでもやはり品揃えは幅広く、他の店では置いていない本などもあり、いろいろ見て何冊か本を購入した。また、文房具売場では現在使っているシステム手帳と同じ物を販売していて、リフィルを購入することができたのはよかった。

 都内には(というか全国的に)ここ数年巨艦店とも言うべき超大型店ばかりが乱立しているけれど、個人的にはある程度以上の規模の書店は本を探すのには向いていないような気がする。小さすぎる店も品揃えの点で及第点をつけることはできないけれど、郊外にこんな店があるなんて! というくらいのやや大型店の品揃えの方が本を探しやすいように思うのだ。

 超大型店はぼんやりと歩いて、装丁買い(CDで言うところのジャケット買い)をするにはとても重宝するけれど、なんだか探す時間が多くなり過ぎて、最後の方には途方にくれてしまうような感じがする。こんな本もある、あんな本もあると気を惹かれ過ぎて気疲れしてしまうというか。

 僕も一応小売業で店長をやっているので店舗レイアウトのことはよく考えるのだけれど、ものの本によると入店客の過半数の滞留時間はほぼ変わらないそうだ。だからこそそのほぼ決まった滞留時間の中でできるだけ多くの商品と触れ合う時間を作ってやることが重要で、そのためには歩きやすい通路幅(人間の肩幅はだいたい60センチなので、120センチ以上あるのが望ましい)を確保し、それぞれのゴンドラ(棚)毎のくくりをわかりやすくし、何かを探すということにかかる時間を極力短くすることが大切になってくる。

 ということを考えると、丸善は素人目には少し通路幅が狭すぎるように思えた。ただ、それはとんでもない家賃(おそらく)のせいなのだろうし、そんな中でも目的の本を探しやすくするために、フロアマップがあったり、高い天井の上にはその棚にどんな種類の本が並べられているのかを明示していたり、検索用の機械を多数入れていたりと、色々と試行錯誤の跡は見えたのだけれど……

 ただ、やっぱり買い物客としては、充分に広い通路で、周りの人を気にせずゆっくりと棚から本を抜き出したりしながら選びたいと思う。本は個人的なものなので、あんまり周囲に気を使うことなく(ぶつかったりすることなく)、没頭して選びたいし。

 それに、丸の内周辺だけで丸善は何店舗もあるような気がするのだけれど、自社競合も含めた完全なオーバーストアなんじゃないだろうか? もちろんそんなのは余計なお世話だけど、競争に勝ち残るためには少々無理をしなくてはいけないということもあるのだろうか?(先日の日経MJにも、ライバル店の進出を避けるために、駅前の百貨店跡地にライバル企業よりも高い家賃を支払って入居の権利を勝ち取り、結果としてそれほどよい利益をあげることができていない企業の話が載っていた。地域のシェアを守ることが低い利益率よりも重要な局面もあるのだ。うーん)。

 でもまあ、本を読む人が減ってきているといわれるなかで、娯楽が他にも数多くある中で、書店だけが自分ではどうすることもできずに巨大化し続けるかわいそうなモンスターみたいに、大きくなっていくのはなぜなのだろう? 競争はやがて、どこに行き着くのだろう? 本が好きな身としては、ちょっと生々しく心配に思ったりもする。


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 お知らせ

 青山ブックセンターの一件もありましたが、競争時代に突入しはじめているという感じがします。

 学生時代なんかには、理想の書店ってこんな感じということを、考えたりしたものです。
コメント (2)
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『パイナツプリン』

2004年09月30日 | Book

『パイナツプリン』読了。吉本ばなな。角川書店。
 出張前の睡眠時間が3時間だったので、移動中には(眠くならない)読みやすいエッセイを読もうと思い出張バッグの中に入れていた。エッセイを読もうと思うと村上春樹か江國香織か吉本ばなな(現よしもとばなな)をとりあえず手にとってしまう。やっぱり、雰囲気というかトーンに馴染んでいるので気楽なのかもしれない。

 随分久しぶりの再読だったのだけれど、読み終わってみて刷の時期を見て思わず驚いてしまった。なんとまあ、平成元年の本だったのだ。
 早いなあと思う。もう10年以上も前の本なのだ。はじめて読んだときは10代で、随分と長い歳月が流れてしまったのだなあと感心してしまう。ただ、先日30歳になったばかりなのだけれど、中身はそれほど長い歳月を反映しているように思えないのはどうしてなのだろう? もちろん、以前と比べると随分うまく立ち回ることができるようにはなっているだろうけど、本質的なところというか、根本的なところは全然変わっていないのだよなと自分のことながら思う。成長をしていないというか、なんというか……でもまあ、男は30代からだと昔から信じていたので、自分なりのペースで頑張っていこう。

 エッセイは様々な雑誌に掲載された短文を集めたもので、エッセイが終わるたびに、それぞれの後日譚というか、ちょっとした感想のような文章が収められていて、それが面白かった。村上春樹のエッセイにも同様の構成のものがあったけれど、そこに書かれた背景を後になってから振り返ってみるというような文章に、より作家の肉声めいたところが感じられて、好感が持てるからなのかもしれない。

 このエッセイの中で印象に残ったのは次のふたつ。


 自分でもコントロールできなくなりたい。私がいかなる状況の下にいても、その状況の表面のことだけではなくて、その小説を書いている間のすべてのこと、その年齢の私の丸ごとのこと、よい天気や雨のこと、苦労のこと、喜びのこと、旅先のこと、健康のこと、人を好きになる心の切なさのこと、光や闇、見た映画、本、TV、会った人たち、怒ったこと、やさし気持ちのこと、そういう幾千ものデーターが私の中をいちど通りぬけて、言葉という道具を使ってまっすぐに紙の上に出る技術を身につけることができたならば、それが私にできる限界だろう。(19ページ)


 少し前のところの文章で「筆が勝手に書いてしまった」とも書いているのだけれど、そういう自分の言葉が自分の自由にならないということがあるのだろうなとなんとなく思う。

 もうひとつはこれ。


 幸福とかそういうものは、本当に卵のようなものだと思う。大切だからといってきつくつかむと割れてしまうし、そっと扱いすぎても気がはってかえって負担になる。だから、古今東西何万人もの人々が語るように、いちばんよいのは、パック入り卵を自転車のかごに入れてがたがたゆらしながら無造作に帰路を急ぐおばさんのように、幸福と接することに決まっている。家に帰って、2、3個割れていても「あら、われてるわ、ま、いっか。また買えば。」と気軽に受けとめて、残りの卵を使っていればいいわけで、こういう対し方が一番大切である。(58ページ)


 少しずつ年をとってきて、若いときのような切実さのようなものがなくなってきたように思う。切羽詰った感じというか、なんというか。もちろん、若い頃だってうすぼんやりだったじゃないかと言われるとそれまでなのだけれど、若い頃はもう少しなんというか繊細な気持ちを持っていたのだ。一応、感じ入りやすい若者だったのだ、これでも。

 そしていまは大分耐性がついたと言うか、エッセイでいう“卵もってかえりおばさん(おじさん)”に近くなってきている。それがただ単純に年齢のせいなのか、それとも別の何かによるものなのかは判別つかないけれど、タフになることは必要なことだとは思う。もちろん、繊細さのようなものをある部分では失わずにいることも重要なことだけれど、人生の荒波を超えていくにはある程度のタフネスは大切なのだ。

 そして、人生が海で自分たちがそれぞれ船であるのなら、昔上司に言われた一番大切なのはどこの港を目指しているのかということをちゃんとわかっておくことだという言葉を思い出す。凪もあれば嵐もある海(人生)のなかで、目指すべき港がないと嵐を乗り越えなければという気概を持つことはできないし、見当違いの方向に進んで燃料や食料が底をついてしまう。だから大切なのは船の大きさや豪華さなのではなく、目指すべき港なのだというような話だった。

 その話を聞いたときにはなるほどと思ったものだ。格好いいなあと。でも確かにそれはその通りの話で、目指すべき港(目標)は、とても重要なものなのだと思う。


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 お知らせ

 今回読み返すまで、『パイナップリン』だと思っていました(実際には「ッ」ではなく「ツ」)。
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窓から見える街の名前はわからないけれど

2004年09月29日 | Days

 今日は午前8時台の飛行機に乗って出張から帰ってきた。窓側の席に座っていたのだけれど、不機嫌な巨人のような濃い灰色の雲が、関東地方を随分と遠くまで覆っていた。飛行機に乗るといつも思うのだけれど、降下をはじめて高速道路や街並みが判別できるようになる頃には、世界が途方もなく複雑な仕組みで動いている大きな機械のように思えてなんだか途方にくれてしまう。たとえば『Matrix』とかそういうSF的なイメージが思い出されたりもする。眼下に広がっているのは現実の光景なのだけれど、普段見る角度と異なるせいか、大掛かりで精巧な作り物のように見えてしまうのだ。

 もちろん、その複雑な機械の中でたくさんの人が頑張っていて、様々な出来事があり、あるいは平凡な日常が継続され、喜びや怒りや哀しみや楽しみがあるわけなのだけれど、そういったことを考えると世界は広いのだという当たり前のことを思ってしまう。あっという間に通り過ぎてきたたくさんの街に何十万、何百万という人たちがいて、その99%以上の人とは知り合うこともないわけだけれど、それでも同じ空気というか時代を共有しているのだとなんとなく思う。そしてそれは冷静に考えてみるとすごいことだとぼんやりと思う。

 飛行機に乗るようになった最初の頃、僕はいつも窓側の席を選んでいた。離着陸前後の景色を見るのが好きだったのだ。上昇を続けた後の雲上の光景もそれはそれで魅力的ではあるけれど、離着陸前後に見ることのできる都市の姿の方がより印象的だったのだ。ある程度高度が低いうちには有名な建物なら判別することができるし、血管のように張り巡らされたたくさんの道路と、そこを走っていくたくさんの車の姿さえ見ることができる。日中なら雲の影が街並みに影として映っているのを見ることができたり、夕方なら一足早くに照明がついている場所を確かめることもできる。一際明るく見える球場の溢れんばかりの光量も、そこの部分だけ深く沈みこんだように見える森の姿もわかる。湾の上を模型のように浮かんでいる小さな船たちの灯す人工的な蛍のような明かりも見ることができる。
 だから飛行機から見える景色の中で、一番好きなのは離着陸前後のものだったのだ。

 中でも、一番好きなのはやっぱり夜の羽田空港上空だ。東京という街がいかに過剰な場所なのかということがよくわかる。むずかしいことはわからなくてもとりあえず環境には絶対によくはないはずの果てしない街並みが、それでもどうしてか胸を打つように魅力的に見えるのだ。それはやっぱり本当にうつくしいものは醜いものを内包しているからなのかなと思う。きれいなだけのものには人の心を打つような深みはなくて、そこに影が伸びているほうが、逆にまっとうにリアリティを帯びている。そして、リアリティのあるものは程度の差こそあれ、やっぱり人の胸をうつと思う。

 また、夜に雲の少ないときには、結構高度が上がってもいくつもの明かりを見続けることができる。ずっと集中して窓の外を見続けているわけではないけれど、それでもときどき眼下に目をやったときに、ほとんどが深い闇に沈んでいる中で寄り添いあうように連なった明かりを見つけると、あれはどこの街なのだろう? と思う。そんなときには、機内誌の後半のページに載っている日本地図を見ながらおそらくはこの辺りだとあたりをつけてみたりもする。実際のところ窓から見える街の名前はわからないのだけれど、一度も訪れたことのない街の上空を通り過ぎながら、その場所で暮らす全然知らない人たちのことをぼんやりと思う。あるいは、訪れたことのある街ならそのときの記憶を手繰りよせたりする。そして、世界は広いとほとんど条件反射的にぼんやりと思う。そんなの当たり前のことなのに、それでもやっぱり世界は広いよなと繰り返し思う。

 もちろん、いつでも窓際の席に座るわけじゃない。以前よく出張に出掛けていた頃には、いつの間にか早く降りることのできる通路側を選ぶようになっていた。けれども、いまでは月に一度くらいしか出張に出ることはないから、再び窓際の席を選ぶようになっている。そして離陸と同時にどんどん遠ざかっていく街並みを窓越しに眺めながら、はじめてよく飛行機に乗るようになった時期に繰り返し思っていたことを、ぼんやりと再認したりしているのだ。


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 ひさしぶりの更新。
 これまではシンプルで使い勝手がよいことには定評のある無料日記サービスenpituを利用して日記(のようなもの)を更新していたのだけれど(説明っぽい文章ですね)、今日からはBlogの方で日記(のようなもの)を続けていこうと思う。
 理由は単純で、Blogというものがどんな感じのものか使ってみて知ってみたかったからだ。ネットのニュースや雑誌などではBlogが爆発的に普及していると言及されていて、しかもそういった記事を読んでいると随分と簡単で便利なように書かれている。けれども実際に使ってみないことには実感することもできないので、だったら一番継続できそうなDaysの形式でやってみようというわけだ。
 実際、記入したテキストをカテゴリー別にまとめたりすることもできるようだし、コメントを記入することもできたりといろいろと便利そうなので、楽しみな感じだ。


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 お知らせ

 名前は単純ですが、Sun Set Blogです。
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