映画と自然主義 労働者は奴隷ではない.生産者でない者は、全て泥棒と思え

自身の、先入観に囚われてはならない
社会の、既成概念に囚われてはならない
周りの言うことに、惑わされてはならない

映画『モンパルナスの灯』 補足 (ジャック・ベッケル)

2012年12月30日 19時43分57秒 | ジャック・ベッケル
『モンパルナスの灯』
1958年 108分

監督  ジャック・ベッケル
原作  ミシェル・ジョルジュ・ミシェル
脚本  ジャック・ベッケル
撮影  クリスチャン・マトラ
音楽  ポール・ミスラキ

出演  ジェラール・フィリップ  モジリアニ
    リノ・ヴァンチュラ    モレル
    アヌーク・エーメ     ジャンヌ・エビュテルヌ
    リリー・パルマー     ベアトリス



補足

モジリアニは、酒屋で酒を買って飲みながら街を行く.そのモジリアニを、街角のカフェにいたベアトリスが呼び止めると、『今度こそ別れる』つもりだった、その女の所へ、彼は寄って行った.
ベアトリスの隣に座るモジリアニ.目の前のテーブルには既に酒が置かれている.
彼は、昨日、似顔絵を描いていたカフェでは一文無しだったはず.酒を買ったお金は、きっと、寝ることと引き換えにベアトリスから貰ったのであろう.そして、酒を買った残りのお金を、ベアトリスの見ている前で、バイオリン弾きに上げたのだった.
お酒を飲んだり、人に上げるお金があるならば、自分の部屋代を先に払うべきでしょうに.

『画家の妻』、ジャンヌの肖像画を売ったお金で、酒を飲んだモジリアニは、
「河が、金持ちになる」こう叫んで、残ったお金を河へ投げ入れてしまった.
絵はがきを描いたわずかな収入で、家計を支えるジャンヌとって、残酷を通り越した行為であったと思うのだが.

『自分は、お金が欲しくて、ベアトリスと寝たのではない』
『自分は、お金が欲しくて、絵を描いているのではない』
似顔絵を返されたとき、彼はお金を受け取らず、更には絵を破いてしまったが、全て同じ虚栄心による行動であったと思われる.

別れるときになると女に優しくなるモジリアニ.ベアトリスに優しくすべく、カフェの払いをしようとした.
「あなたが、お金を払うなんて変よ」そのモジリアニの様子を見て、ベアトリスは、この言ったのだった.
モジリアニが持っているお金は、ベアトリスから貰ったものであるから、そのお金で私に優しくしても無駄だ、と、言ったのであろう.
『私が、払うのは当然よ』おそらく、モジリアニはこのように受け取ったのであろうが、
『(優しくするつもりなら)あなたの稼いだお金で、払ってね』と、理解していたならば、絵を売ったお金は、彼が稼いだお金であった、河に捨てることはしなかったはずである.

モジリアニは、絵を描いているときはお金のことを考えて描いているのではない、お金のために描いているのではないのですが、けれども、描き上がった絵を売るときになれば、それ相応の価格で売りたい、少しでも高く売りたいと思うのは、当然であり、彼もそうだったはず、自分の絵を、一束いくらで、二束三文で、売る気はありませんでした.
画商のモレルは、
『お金のことしか考えない』、冷たい心の男でしたが.(絵を売ることしか考えなかった)
モジリアニは、
『お金のことを考えない』、冷たい心の男だったのです.(絵を描くことしか考えなかった)
絵を描くことと売ることと両方考えて、二人を掛け合わせて考えると、『お金のことを考えて、優しくしなければならない』
画商のモレルは、モジリアニの分身であり、冷たい心の投影なのです.
言い方が素直ではない.言い直しましょう.
画商のモレルは、モジリアニの冷たい心(誰にでもある汚い心)を投影(投映)した、分身なのです.
影(隠しているもの)を、映し出した存在である.

「君は美人だ.良く殴ったが...悪かった」
「ばかに優しいわね.なぜ?.今夜は変よ...新しい女ね」
「女?.いや、雨が好きでね.それだけのことさ」
モジリアニは、きっと、芸術家の感覚で言い訳をしたつもりだったのではないか.それに対してベアトリスは、相手に女が出来たと知っても、決して怒りはしなかった.
「あなたが、お金を払うなんて変よ」ベアトリスは作家であり、この言葉は作家の文学的表現である.芸術家を自負するモジリアニが、ベアトリスの言葉を正しく理解できなかったとしたら、なんとも情けないことと言わなければならない.
「女?.いや、雨が好きでね.それだけのことさ」こんな言葉、考えても何も解らない.
解らないことを言ってごまかしただけ.こう言う男を一般的には、卑怯な男というのじゃないの?.

一人帰ることにしたモジリアニは、ダンスホールの前で昔なじみの女に出会う.
「お酒、少し分けてくれない」彼は、半分の酒を女のグラスに注いだ.
「雨よ」
「.....」
「久しぶりね」過去の二人の関係が、たった一言で伺い知れるのだが、けれども彼は何も言わずに、雨に打たれながら帰っていった.
『ああ、元気だったかい?』と、くらいは、言ったらどうなの.

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モジリアニが巡り会った、幾人もの素敵な女性たち.その女性たちの優しい心に情熱を込め、ジャック・ベッケルはモジリアニを描き上げました.

蜂の巣の子供たち (清水宏)

2012年12月13日 03時34分13秒 | 清水宏

(1948/08/24 86min)

子供の人権擁護

『この映画の子供たちに、心当たりはありませんか』字幕のこの言葉で始まるこの映画、描かれた子供たちは本物の戦災孤児達.若者の男女も素人なのでしょう、この二人のへたくそな演技が、人の素朴な感情を引き立てる、子供たちの子供らしさを引き立てているように思えます.

おそらく比治山からの遠望だと思いますが、わずかながらも、当時の広島の惨状が、映像で映し出されました.GHQが広島の報道を禁じていた時代なので、結構苦労したのではないでしょうか.
その広島の廃墟の中で、若者はこう言いました.
『子供たちに、もっと親身なものを与えて欲しい』
子供たちに食料を与えることは、単なる同情に過ぎない.戦災孤児達の現状を理解し、本当に彼らの必要とするものを与えなければならない.それは、教育、勉強をする機会でした.

売春婦に身を堕とそうとしていた女の子は、四国の山で海を見たいと言って死んだ、よしぼうの手紙に励まされ泣きぐずれた.
子供たちを手先に使った闇屋の元締め、あるいは売春婦の元締めをしていた、「おじき」と呼ばれる男.彼はつれてこられたのか、勝手に付いてきたのか分らないけれど、彼もまた、感化院の手前で子供たちに励まされる.
『元気出せよ』

闇屋、タバコを吸うこと、そして博打.大人のまねをして、いけないことをする子供たちでしたが、けれども、彼らは、子供たち同士で助け合って生きていました.描かれた子供達の生き生きとした姿は、この映画を観た他の孤児達の励みになり、同時に、闇屋、売春婦など、生きる夢、希望を失って生きている大人たちに、反省を促す映画でもあったと思います.

デ・シーカの『靴みがき』、ロッセリーニの『ドイツ零年』、この二作も、戦後の時代の子供達の人権擁護を訴えた映画でしたが、どちらも大人の視点から描かれた作品でした.それに対して、清水宏は、素朴な子供の視点から描き上げました.
今一度書けば、汗水を流して働くことの喜びを学んだ子供たち、その子供達が大人たちに『元気出せよ』と励ました、この点に、イタリア映画の二作とは比較すべきでないすばらしさがあると思います.




第七の封印 (イングマール・ベルイマン)

2012年12月12日 12時26分03秒 | イングマール・ベルイマン

(1956 97min)

迷信
死神とは迷信、いきなり死神が出て来て死神で終わるこの映画、初めから終わりまで迷信.題材も映画に描かれている通りの古い教会の壁画から得たもの、あるいは宗教上の伝説であり、全てが迷信で構成されている.

騎士
騎士は神の存在を信じている、からこそ、死神の存在を認めチェスを始めたと言ってよいのでしょうか.それに対して手下のヨンスは迷信を信じない、神を信じない人間でした.そして、ヨンスは騎士が嫌いであり、騎士とは考えを異にしていて、十字軍の遠征を全てが無駄な時間だったと批判しています.更に言えば、十字軍の遠征を騎士に勧めた聖学者は泥棒をしている悪党で、ヨンスは彼を神秘学、悪魔学の博士と言いました.
十字軍で神の栄光のために戦い、疲れ果てて戻ってきた騎士を待っていたのは、死に神でした.十字軍は愚の骨頂、理想主義者の戯言であり、常軌を脱した侵略戦争、キリスト教のみが正しいという迷信にのっとった行為の結末には、死に神が待っていました.

教会
壁画には死に神ばかり描かれている.人々が死を忘れないようにして教会に来させるために、人々の恐怖を煽り怯えさせる事を目的とした、絵ばかりが描かれていました.
『人に背を向けて孤独に生きてきた』
『恐怖の中で心に描くもの、人はそれを神と呼ぶ』
その教会の中で、騎士は懺悔をしたのですが、しかし懺悔の相手は、死に神でした.

悪魔に身を任せた娘
疫病を神罰、世紀末と思い込む村人、それを煽る僧.疫病を神罰と信じる村人は、自分をむち打ち、自分を苦しめました.
他方では、悪魔に身を任せた娘が、疫病を拡げたと言い、火あぶりにして苦しめました.そして、夜の火刑場に付いてきた僧は、死神でした.
『私の目を観て、ほら見えるでしょ』
『私に見えるのはむなしさと恐怖.それだけだ』騎士は娘に悪魔がみたいと言ったのだけど、見えたのはむなしさと恐怖だけでした.
あの娘はどこへ行くのだ、天使か、神か、それとも悪魔か.娘の見たものは虚無でしかなかったのです.
疫病にかかった男の場合も同じ、人の死とは、それを怖れる心、恐怖と虚無しかなかったのです.

旅芸人の夫婦.
夫は幻を見る、やはり迷信を信じる人間と言えるのでしょうか.けれども楽天的な性格、そして仲の良い明るい夫婦なのです.騎士は死神が現れた時、まともに受けて立ったのに対して、この夫婦は逃げました.神も死神も迷信、そんな事をまともに考えても仕方がない事である.誰でも、死にたくない、死ぬのが怖いのは当然なのだけど、そうした心で分らないものを考えるからこそ、そこに迷信が生まれる、あるいは神をまともに考えるからこそ、死神が生まれる、迷信が生まれると言えるのではないでしょうか.
この夫婦の会話はこんな感じでした.
『あなたまたほらを吹いている、あなたの言うことなんか、だれもまともに受け取らない、そんな事言ってると皆に馬鹿にされるだけ』
迷信とはこんなもの、この夫婦のように受け流すべき事なのですが、けれども、明るい迷信は皆から馬鹿にされるのに、暗い迷信は皆が信じ込むものらしい.

騎士の城に集まった者たちの前に死神が現れる.世紀末に覚悟を決めた者たち.神に祈りをささげる騎士に、ヨンスは「闇とやらでいくら祈っても、聞き届けてくれる者は誰もいない.己を見据えなさい」、とけ散らす様に言うのですが.

ベルイマンは死に神に引かれて行く一同の姿を、芸人の幻想として漫画みたいに描きました.死に神をと言う暗い迷信を信じる者たちの姿は、天使という明るい迷信を信じる芸人から見れば、滑稽な者たちに映った、と言うことなのでしょう.
死に神とチェスをする、芸人の登っている木が死神に切り倒される、誰がこんな馬鹿げた事を信じるのだ、迷信という信じるに耐え難い話ばかりを集めながら、一方では、観客をには迷信を信じ込ませるように描いているのがこの映画.
『宿屋はどこだ』、道を尋ねた相手は行き倒れの骸骨だった.暗い映画館で観れば、この場面は観客に恐怖を与える.
『恐怖の中で心に描くもの、人はそれを神と呼ぶ』、騎士はこう言ったのですが、けれども、恐怖の中で心に描くものは、暗い思い、自分を苦しめる思い、死に神ばかり、つまりは、虚無なものばかりだったと言えます.
恐怖によって観客の心に暗い迷信を呼び起こしながら、誰にでも迷信を信じ込む迷った心はあるのだけど、どうせ信じるのなら、描かれた多くの者たちのように、死に神のような暗い迷信を信じるのではなく、旅芸人が信じた天使のような、明るい迷信を信じなさい...

書き加えれば、ヨンスの口遊む歌は、女の股ぐらに挟まれどうのこうの、彼自身に言わせれば、死に神を嘲笑し、おのれを笑い、女に微笑む男でした.芸人の座長の男も同じことを言いました.死に神の役なんて女にもてない.迷信、訳の分からないことを考えて自分を苦しめないで、明るく楽しく暮らすことが大切、己を見つめるとは、ある意味でこう言うことなのでしょう.
そしてもう一つ.騎士は自分はチェスが上手いと信じ込んでいた.うぬぼれていたのです.うぬぼれとは、自分自身に対する迷信であり、その騎士に対してヨンスは「己を見据えなさい」、と言ったのですが.

スウェーデン映画『不良少女モニカ』 - SOMMAREN MED MONIKA - (イングマール・ベルイマン)

2012年12月11日 10時52分23秒 | イングマール・ベルイマン
不良少女モニカ - SOMMAREN MED MONIKA -
1952年 92分 スウェーデン

監督  イングマール・ベルイマン
原作  ペール=アンデシュ・フーゲルストルム
脚本  イングマール・ベルイマン
撮影  グンナール・フィッシェル
音楽  エリック・ノードグレーン

出演  ラーシュ・エクボルイ
    ハリエット・アンデルセン
    オーケ・グリュンベルイ
    ベンクト・エクルンド


1948年作の『愛欲の港』によれば、当時のスウェーデンでは堕胎は非合法.金持ちの娘は裏から手を回し病院で堕胎するが、貧乏人の娘は闇の医者に頼り、ばれたら感化院送りになる.

ハリーは子供が出来て、生活を改め、頑張って仕事をするだけでなく、勉強をしてよりよい生活を目指したのですが、他方モニカは、子供を産んでからも、以前と何も変わることはありませんでした.
彼女は、子供を望みをしなかったのですが、その事で二人が真剣に話し合った様子は無い、子供が出来たので当然のように結婚した二人だったのですが.

モニカの年齢設定は17歳.今の日本の感覚で言えば、子供を産むよりも堕胎を考える方が当然の年齢と言ってよいでしょう.モニカが悪いと言ってしまえばそれまでなのですが、好き合った男女二人が、理解し合った上で子供を産み、育てて行かなければならないはず、こう考えれば、彼女が望まないのに子供を生むことが当然と考えていた、ハリーの方にも考え違いがあったと言うべきでしょう.
そして、同時に、子供が出来たら絶対に生まなければならないという、社会の制度も大きな問題と言わなければなりません.先に書いたように、金持ちの娘は、裏から手を回して堕胎をしている実態を見てみぬ振りをして、現実を無視した制度がまかり通っていることは、どの様に考えてもおかしい、社会全体で考え直さなければならない制度だと言えます.
更に言えば、モニカの家族.夫婦の二人は仲が良く、そのせいもあってか子沢山なのですが、子供が健全に育つには程遠い家庭環境でした.酔っ払いと、暴力と、喧騒、あの様な家庭環境で暮していれば、もっと自由に暮したい、好き勝手に暮したい、そうした意識にとらわれて、本来抱くべき生きることへの夢、希望を失っていってしまっても、仕方がないことのように思えます.
彼女にしてみれば自分の子供も兄弟もそれほど年齢の違いがない、あの様な家庭環境から抜け出してすぐに、また自分が同じように子供を育てることになった、そうした環境から逃げ出したくなったとしても、それは、当然の結果のように思えてなりません.

二人の仕事の環境もあまりにも悪かったと言えます.ハリーは、子供が出来たことによる決心によって、人間関係に恵まれた素敵な環境の仕事を見つけましたが、別に子供が出来なくても、そうした仕事を捜すことは出来たはずである.人間関係に恵まれた素敵な環境の仕事、生きがいを持った仕事を見つければ、モニカもまた、考え方は変わっていったのではないでしょうか.

(2019年12月13日加筆)
モニカの両親は子供を作る行為は大好きだけど、子供を育てることには関心がない人間だった.さして広くはない一間の家に子沢山.雑然として安らぎのない家庭環境で育ったモニカもまた、子供を作る行為は好きだったけれど、子供は嫌い、自分が生んだ子供でも自分で育てなければという意識は、全く持ち合わせていなかった.

1975年頃、スウェーデンの法律が変わり堕胎が認められるようになって、詳しくは知りませんが、日本と大差ない制度になったようです.
当時、堕胎を認める要求だけでなく、薬局でのピルの販売等を合わせて要求する運動を行ったらしく、そうした面から、ものすごく性の開放が進んだ国に思われているようですが、日本より開放的であったにしても、映画を観る限り、それほどの差があるようには思えません.

モニカといた夏
https://www.youtube.com/playlist?list=PLyKVKmsuvBSSq3FUZyhlOBkv4Rcrl63Jc

太陽はひとりぼっち (ミケランジェロ・アントニオーニ) - イタリア/フランス -

2012年12月11日 08時03分45秒 | ミケランジェロ・アントニオーニ
太陽はひとりぼっち - イタリア/フランス 1962年12月19日 124分 -

監督   ミケランジェロ・アントニオーニ
脚本   ミケランジェロ・アントニオーニ
     トニーノ・グエッラ
     エリオ・バルトリーニ
撮影   ジャンニ・ディ・ヴェナンツォ
音楽   ジョヴァンニ・フスコ


出演   アラン・ドロン
     モニカ・ヴィッティ
     フランシスコ・ラバル


時代的背景
1960年 フランスの核実験.以降、アルジェリアで核実験を続ける
1963年 ケニア独立.独立は、この映画が撮られてから1年後である

原題(英語訳ですが、綴りがイタリア語と似ているので、多分これで良いでしょう)
Eclipse 失墜.暗い影、日陰の部分、日の当たらない場所、人が目にしない場所、
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- 本来の姿、自然な姿 -

別れることにした、婚約者同士の男と女
男は車を捨て、木立の中を行く女を追う.
鳥の鳴き声が聞こえる.
『こんなに早く、一緒に歩いたことはなかったな』
この二人、翻訳関係の仕事をしていたらしいけれど、夜型の生活をしていたのでしょう.
日の出と共に起きて生活するのは、人間にとって本来の姿のはず.
『君を幸せにしたいんだ.どうすればいいんだ』別れたくない男は、必死に女を引き留めようとするけれど、すればするほどに取り乱して、彼本来の姿を失って行ってしまった.
(散歩中に出てきたキノコの形の家、どうも、原爆のきのこ雲を連想させるものらしい)

ケニア生まれの婦人
ケニアの美しい自然の写真を見ながら、彼女達は話をする.
彼女の家族は、ケニアで鉄砲を撃って狩りを楽しんでいたらしい.自然に生きる動物達にとっては不幸な話である.
のみならず、カバは沢山草を食べるので、時々何頭か殺すという.人間の都合によって自然を歪める行為に他ならない.
小学校に行ければ幸せな方だというケニア.大半の住民が文明とは無縁の暮らしをしているケニア.住民の多くは、単純で、幸福を追求しない生活をしているらしい.そうした彼らの生活が、幸せなのかどうなのか?、それは分らないけれど.....
原住民が民族意識に目覚め、彼らの土地で彼らが幸せを求めるとき、侵略者の白人は幸せな生活を失うことになった.侵略者の白人は、自分たちの文明によって原住民を支配し、原住民の不幸の上に、自分たちの幸せを築いて来たのである.そうした侵略者の白人がたとえ不幸になったとしても、当然の結果と言わなければならない.

逃げ出した犬
探しに行くと沢山犬が居たけれど、犬は犬同士の方が楽しいのではないのか.犬の本来の姿は犬同士の暮らしにあると思う.
芸をする犬は、犬にとって幸せな姿かどうなのか?.

飛行機
試験飛行に便乗して、ローマの上空を飛んだ彼女たち.雲の内は、氷と雪の結晶で輝いていた.文明のすばらしさと、自然の美しさ、どちらをも満喫して、彼女は幸せだった.
けれども、別のシーンでは大空を行く四機の戦闘機、飛行機雲を引きながら編隊飛行する戦闘機が映し出されるのだけど、それらは人を幸せにする文明ではなく、その反対、人を不幸にする文明に他ならない.

証券所
関係者の一人が亡くなったらしい.一分間の黙祷の時間、亡くなった人の事を本当に悲しく思った人がどれだけいたのか?.
人の死を悲しく思うのは、人の自然な感情、人の本来の姿のはずなのだが.

母親
随分前に夫は死んだのだろうか、今ではもう夫のことを思い出すことは無くて、株のお金儲けに夢中だった.亡くなった夫を、妻が時々は思い出すのが人の自然な姿だと思うけれど.

証券マンの男
彼の付き合っていた女の子は、以前は金髪だったらしい.彼女はこっちが本物だと言うのだけれど、けれども黒髪に染めた彼女を見た彼には、どちらが本来の姿なのか分らなかった.何が本当か分らなくなった彼は、彼女と別れることにした.
車を盗んだ酔っ払いは、池に落ちて死んでしまった.車は死んだ男を乗せて池から引き上げられた.彼は『痛みは少ないから直せば乗れる』と言う.『未だ8000キロしか乗っていない』、こう言いながら彼女を見て、やっと彼は気がついたらしい.死んだ人間が乗っていた車なんか、気味が悪くて乗る気になれない、こう思うのが人の自然な感情のはず.

野次馬
集まった群衆たちは、引き上げられる車を見ながら騒ぐだけで、一人の男が死んだことを悲しく思う人間は居なかったみたい.

労働者の若者
『いい男ね』と彼女は言った.汗水を流して働く姿は、人間本来の姿であるのは間違いがない.

株の暴落
大損をした男は、精神安定剤を買い求め、その薬を飲みながら木の絵を描いていた.自然は精神を静めるらしい.彼は安らぎを求めた.
『損をした人のお金は、もうけた人の所へ行くの?』と言う問いに、『そんなに単純な問題ではない』と、証券マンは答えたけれど、文明社会の仕組みは複雑らしい.その複雑な仕組みによって、皆、一度は大儲けをしたのだけれど、けれども結果的には儲けを失っただけでなく、儲ける以前に持っていたお金よりも、遥かに多額のお金を失ってしまった.

新聞記事
男は新聞を読みながらバスから降りてきた.
『競い合う核開発.束の間の平和』
文明の進歩とは、決して人々の幸せを追求する行為とは言うことが出来ない.文明の進歩によって、人々は安らぎを失ってしまった.

ちちくり合う男女
証券マンの男は、仕事の電話の受話器を全部外して、好きな女と何かしていた.好き合った男女は、文明を拒絶して、自然な行為に夢中になった.
彼は受話器を戻しながら、仕事を始めるかどうするか、考え込んで映画は終わる.
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未文明の世の中が、幸せであったのかどうかは分らない.けれども、人間は幸せを求めて文明を発展させて来たのだと思うのだけど、文明の発展と共に、人々は人としての本来の姿を失って行き、何が幸せなのか分らなくなってしまっている.
人本来の姿は、安らぎを求める心の中に、自然を求める心の中にある.もう一度、人本来の姿に戻って、皆が幸せになるにはどうしたらよいのか、考えなければならないはず.