映画と自然主義 労働者は奴隷ではない.生産者でない者は、全て泥棒と思え

自身の、先入観に囚われてはならない
社会の、既成概念に囚われてはならない
周りの言うことに、惑わされてはならない

夏の遊び (イングマール・ベルイマン)

2014年08月12日 04時13分28秒 | イングマール・ベルイマン
『夏の遊び』 1951年 94分

ある日、バレリーナの元に、事故で死んでしまった、若かりし頃の恋人の日記帳が小包で届いた.
その日から、彼女は憂鬱な気分になり、若かりし頃の楽しかった日々が、辛い想い出として思い起こされてならなかった.
『何も話さないから、理解しようがない』、今の恋人の新聞記者と喧嘩をしたら、彼はこう言った.
彼女は『この本を読んで欲しい』、そう言って、日記帳を彼に渡した.
『今を楽しく生きて行けばいいのだ』、彼女は明るい気分になっていた.
そして、次の日の舞台を、彼は見に来ていたのだった.二人は抱き締めあってキスを交わした.

過去を物語る日記帳が届いたら、憂鬱になった.その日記帳を、今の彼に渡したら明るくなった.その日記を、今の彼が読んだかどうかは、全く分らない.
もう一度書けば、
過去を思い出したら気分が暗くなった.
渡した彼は、読んだかどうか分らない.つまり、過去なんかどうでもいいことであり、そして、思い出しても辛くなるだけ.それよりは今を楽しく生きることを考えればよい.

新聞記者の彼が来る前に、演出家が彼女を励ましていた.口論の後、演出家は『俺は紳士だからか、立ち聞きはしない』と言って出ていった.つまりは、延々と描き上げられた、想い出の恋愛シーンなんて、見るに値しないものだと、ベルイマン自身が言っている.下らない筋書きで、下らないことばかりを描いた映画と言える.
過去に囚われることは、下らないことであるから、これで良いと言われるかもしれないけど、下らなく描くにしても、そこに芸術家としてのセンスが全くない、本当に下らない映画としておきます.

前作の『歓喜に向かって』にも、同じことが言えます.小説ならばこれで良いかもしれないけれど、映画にはなっていないと思います.

もだえ (イングマール・ベルイマン)

2014年08月09日 03時50分12秒 | イングマール・ベルイマン
『もだえ』 1944年 スウェーデン 99分
監督 アルフ・シェーベルイ
原案、脚本 イングマール・ベルイマン

監督がベルイマンではありませんが、とりあえずベルイマンに入れておきます.

ヴィッドグレーン、彼は、文章を書きバイオリンを弾く生活に憧れ、そして純真な愛情を、清らかな愛情を求める若者だったけれど、巡り会い男女の関係になったベッタは、暗い影を持つ女でした.
全てがサディストの教師のせいだったのだけど、何も真実を話さない彼女を、彼は許すことが出来なかった.学校帰り、『話がしたい』と待っていた彼女を振り捨ててしまい、その結果、お酒の飲みすぎでベッタは死んでしまいました.
彼は退学になって、人生を見失っていたのでしょう.卒業式の日、学校へやって来て、卒業できた学友達の喜びの姿を、影から寂しそうに眺めていました.
親しい友人のサンドマンは、自由気ままな男女の関係を望む男でした.サンドマンはベッタの葬儀にやってきて、ベッタの死をどの様に考えればよいのか、退学になってこれからどうしたらよいのか、『なにも分からない、どうしたらよいのか分らない』彼に対して、『話せば楽になるぞ』と、自分の部屋に来て一緒に暮そうと誘いました.
彼は、ベッタの部屋で暮すという.
『彼女が、可愛そうで仕方がなくて.....』
『分るよ』
『そうか?』
『前に言ったろ、ニーチェとか何とか.女は魔性だとか.だけど考えが変わった.君のおかげだ』
サンドマンは自由気ままな男女関係を望む男だったけれど、純真な愛を望み、その愛が失われてしまった彼の心を、苦しみを理解していたのでしょう.

ベッタの部屋にいると、ここに居るとサンドマンに聞いたと言って、校長が訪ねてきました.
『退学は何ともならないが、それ以外は力になる』
『君の心の中の問題は、君が解決しなければならないが、それ以外は助けることが出来る』
校長は、このように話しながら、明日もっと良く話し合おうと言いました.

遊びで関係を持つ自由気ままな関係を、愛とは言えないかもしれないけれど、けれども、『汚れなき乙女との、純真で清らかな関係』、それだけが愛ではない.
サンドマンも校長も、彼を訪ねてきて、そして救おうとしました.
それに対して彼は、『助けて欲しい』と、学校帰りを待っていたベッタを見捨ててしまったのでした.
重ねて書けば、サンドマンも校長も、彼が望まなくても訪ねてきた.それに対して彼は、助けを求めたベッタを見捨ててしまったのです.『一人になりたい』と、サンドマン、校長の優しさを拒んだ彼でしたが、翌日、猫を抱いて部屋を出ました.きっと彼は自分の間違いを理解したはずです.
自分よりも弱い者に救いの手を差し伸べる、本当の愛は、その心にあるはず.誰でも、純真な愛を求める.若者は皆、純真な愛に憧れるけれど、けれども、決してそれだけが、愛の全てではないのだ、こう言っているのでしょう.

同じ頃、ジャック・ベッケルは『赤い手のグッピー』と言う映画を撮っています.
『赤い手のグッピー』は、失恋して気が狂れてしまうような愚かな男が、皆から怠け者とバカにされている男を、暴力から救うために殺してしまった作品でした.愚かな男だったけれど、けれども彼は、皆からバカにされている弱い者を救おうとして殺人を犯した、そこに、本当の優しさとはどの様なことなのか、考えさせらるものがある作品と言えます.
どちらも、戦争という時代背景からか、明るく楽しい作品ではありませんが、戦争、当然の様に人殺しが行われている時代に、優しさとはどの様なことなのか、深く考えさせる作品が撮られていたと言えます.
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DVDは6分ほど短いようです.

秋のソナタ (イングマール・ベルイマン)

2013年02月02日 03時46分42秒 | イングマール・ベルイマン
(1978 92min)

演技によって愛する人間

子供が死んでからも、生きているときと変わることなく、子供を愛し続けていたエヴァ.
そのエヴァの母親は、生きている子供を、愛そうとしない人間でした.
彼女自身が娘のエヴァに言ったように、『自分のことしか考えない、わがままな親だった』のは、描かれたとおりと言うしかなく、
自分の病気の子供に会いたくない.最後には、死ねばいいのに、と言った、この母親は、良い人間の訳がありません.
と考えれば、問題は、どの様に悪いのか、あるいは、悪かったのか?.

母親はピアノが全ての人間だった.
『エーリックが生まれたときは、モーツワルトの録音で忙しくて来られなかった』
『演奏続きで忙しかった』
『指揮者と練習をしたかったから』
『背中を痛めて練習できず仕事はキャンセル続き、絶望してた』
子供がピアノの練習の邪魔をするのは厳禁、そして、子供置き去りにして、長期の公演旅行.彼女ははピアノが全ての人間だった.
さらにエヴァの言葉によれば、彼女の他人を愛する姿は演技であり、それでいて、自分を愛さない者を許すことが出来ず、愛を強要する人間だった.

彼女は、背中が痛いと床に寝て話し始めた.
『昔のことは覚えていない、両親に撫でられた記憶も、ぶたれた記憶もないの』
『私は愛情を知らなかった.優しさも、触れ合いも、ぬくもりも、何一つ』
『気持ちを表現する手段は、音楽だけだった』
『時々思うのよ.自分は本当に生きているのかと』
『誰もがそうなのか.生きるには特別な才能が必要なのか』
『才能のない者は生きるのではなく、存在するだけ?』
『そう思うと怖いわ』

列車の中でマネージャーに、
『私、冷たいと思う?』
『ポール、寝ないで聞いて.評論家は私を褒めてる』
『シューマンやブラームスに、暖かみが感じられるって』
『私、冷淡じゃないわよね?』
彼女はこう言ったのだけど?.

彼女はピアノが全ての人間だった.では彼女のピアノとはどの様なものだったのか?.
『気持ちを表現する手段は、音楽だけだった』と言うように、彼女はピアノを愛していたのかもしれないけれど、
『誰もがそうなのか.生きるには特別な才能が必要なのか』
『才能のない者は生きるのではなく、存在するだけ?』
この言葉から伺い知れるのは、自分のピアノの才能への不安、言い換えれば、自分のピアノに観客が喝采するかどうか、あるいは、評論家の評価を気にする姿であり、つまりは、彼女はピアノの演奏を通して、観客の愛を求めていたのではないのか.
エヴァは母親に嫌われないように、気に入られるように、自分を取り繕って母親に接していたのだと言ったけれど、観客に拍手を求める演奏者も、母親に愛を求める子供も、同じ姿であったのではないか.
今一度書けば、エヴァの言葉によれば、彼女は、自分を愛さない者を許すことが出来ず、愛を強要する人間だったのだけど、ピアノを通しても、やはり、観客の愛を求める人間であったのではないのか?.

俳優としてのイングリッド・バーグマンを、ピアノの奏者に置き換えて、バーグマン自身の人生を描いた映画であり、彼女が映画を通して観客を愛する女優だったのか、あるいは、映画を通して観客の愛を求めるだけの女優だったのか、彼女自身にそれを問う作品であったのだと思います.

付け加えれば、病気の娘は、ママ、ママと母親を求めながら、ベットから転げ落ち、母親を憎むエヴァも、また手紙を書きました.彼女が本来の母親に戻ることは、いつでもできたのだと言えます.子供たちにとっては、彼女が母親としての姿を取り戻して、自分たちの母親であって欲しい人間であるのは、いつまでも変わることはないのだ、と言うべきでしょうか.
描かれた母親は、子供を愛することも出来ず、ピアノを通しても、観客を愛することの出来ない人間であったように思われるのですが、逆に、映画を通して観客を愛する事の出来る人間ならば、子供を愛することも出来るはず.

『私は日々、生きるすべを練習している.問題は自分が何者か分らないことだ』
『答えは見えない.誰かがありのままの私を愛してくれたら分るかも』
病気の妹を引き取って、妹に愛情を注ぐエヴァであった.
そして、エヴァは、ありのままの姿を見せて、母親を愛そうとしたのだけれど.
(母親は演技によって、愛を求める人間であった)
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『私は日々、生きるすべを練習している.問題は自分が何者か分らないことだ』
『答えは見えない.誰かがありのままの私を愛してくれたら分るかも』

イングリット・バーグマンが、映画を通して観客を愛する女優であったのか、映画を通して観客の愛を求める女優であったのか、そんなことはどうでも良いことである.それよりも、演技ではない愛で、母親として子供を愛して行くことが、何よりも大切なはず.
イングリット・バーグマンを、イングマール・ベルイマンは映画監督としての愛情を込めて、映画に描き上げた.
一人の女性として描いたのか、あるいは女優として描いたのか、私にはよく分らないのだけど、しわだらけの顔をアップで、ありのままに描き上げたのですね.
その結果、彼女が生きるすべを見つけたとしたら、イングマール・ベルイマンの映画への愛は、正しいものであったはず.
     2013/02/03 追記

仮面/ペルソナ (イングマール・ベルイマン)

2013年01月18日 06時42分01秒 | イングマール・ベルイマン
(1967 82min)

患者の女はオブジェ、直接的な意味を持って描かれるのは看護婦の女の方.
優しく看護するのだけれど、ともすれば残酷に傷つける.
最初は恥じらいながらも少年との快楽にふけり、結果として子供をおろす.かと思えば一人の男を愛することを、幸せな結婚を夢見る.
どちらが患者でどちらが看護婦か、二人の良く似た女が交錯して描かれる.どちらがどちらでも同じこと.誰でも優しい面と残酷な面を持ち合わせている.一人の人間が持つ二面性、どちらもが一人の人間.

野いちご (イングマール・ベルイマン)

2013年01月18日 05時12分08秒 | イングマール・ベルイマン
(1957 90min)

針のない時計は時を刻みはしない.時が経過しない、年を取らない、つまりは死にはしない.けれども、死にはしないと言うことは、逆に言えば生きているとは言えないことを意味するのでは.

おまえは生きていながら死んでいるのだ、と棺桶のなかの自分が生きている自分に手を伸ばす夢.
野いちごにまつわる恋愛相手の女性への想い.記憶の中にあるその女性は若く美しい姿のままで変わりはしない.悲恋に終わった恋愛の相手の女性を、彼は変わることなく心に抱き続けて生きてきたらしい.時が経過しないもの、変わらないものは生きているとは言えない.つまり、自分の恋い焦がれた若く美しい女性の姿を抱き続けてきた彼の人生は、生きてきたとは言えないのではないか.先に結論が来てしまったようですが、それを考えさせるように、考えさせるように、車の旅の巡り会い、あるいは息子夫婦の出来事が描かれているのね.

私は、若い頃の想い出をそのまま抱いていることが決して悪いことだとは思いません.昔好きだった相手と同じように、今、自分の目の前に居る相手を好きになって生きて行けば、何も悪いことではないはずです.この点が描かれた男は違うようです.失恋の思いをきちんと消化しないで生きてきた.辛いものだと自覚しようとしなかったのではないのか.妻の浮気の現場を目撃しても妻を責めたりしなかった、この事実から、彼は辛い現実から逃避して、おそらくは学術的な研究に没頭することに逃避して、生きてきたのであろうと思います.
失恋によって男女関係に生き甲斐を求めることができなくなった彼は、仕事に、研究にのみ生き甲斐を求め、冷えきった夫婦関係、歪んだ結婚生活を送ってきた.その家庭で育った彼の子供は、彼と同じように医者なのだけど、学費を父親に返済することだけが目的、夢も希望も何も無い人生観を抱いていた.

議論、口論、時にはつかみ合いの喧嘩になることもある.女の子一人と男の子二人の旅姿は、楽しく生きるとはどのようなことか示している.辛いことを辛いと捉え、悲しいことを悲しいと捉えるとき、楽しいことを楽しいと捉えることができる.我慢に我慢を重ねただけの人生が楽しいはずはない.

旅の道連れの女の子、行く先、二人のどちらと一緒になるのだろうか.どちらにしても彼らは彼らなりに楽しく生きている.思い返せば自分の好きだった彼女も、彼女なりに楽しく幸せな人生を送ったように思える(楽しくピアノを弾くシーン).それに対して自分の人生は.

彼とメイドの会話.
「もう何十年も一緒に居るのだから、もっと気安く呼んでくれたらいいじゃないか」
「ご用がおありでしたらいつでもお越しください.鍵はかけずに置きます」
もう、互いに歳なんだからそれを認めて楽しく生きようじゃないか.何十年も一緒に暮らしてきて、実際に夫婦と変わらない生活をしてきたのだから.

女の子の連れの二人、一人は医者の卵で神を信じない、今一人は神学生.この二人がつかみ合いの喧嘩になった.つまり二人とも悪いやつ.神を信じても信じなくても同じこと.
老医師とメイドは、夫婦同様の生活を続けてきた.妻でも、メイドでも同じこと.
あの息子、もうお爺さんになった父親に、学費を返しても、返さなくても?????