映画と自然主義 労働者は奴隷ではない.生産者でない者は、全て泥棒と思え

自身の、先入観に囚われてはならない
社会の、既成概念に囚われてはならない
周りの言うことに、惑わされてはならない

ひまわり -I GIRASOLI- (ヴィットリオ・デ・シーカ 1970年 107分 イタリア)

2016年04月25日 14時03分56秒 | ヴィットリオ・デ・シーカ
監督  ヴィットリオ・デ・シーカ
製作  ヴィットリオ・デ・シーカ
    カルロ・ポンティ
脚本  チェザーレ・ザヴァッティーニ
    トニーノ・グエッラ
    ゲオルギ・ムディバニ
撮影  ジュゼッペ・ロトゥンノ
音楽  ヘンリー・マンシーニ

出演
ジョバンナ..........ソフィア・ローレン
アントニオ..........マルチェロ・マストロヤンニ
マーシャ............リュドミラ・サベリーエワ


ジョバンナ
『生きているかどうかを教えて』、ジョバンナは役場の職員に大声を張り上げて詰めより、
『生きていますとも、はっきりそう答えなさい』、こう怒鳴り散らしてつまみ出されることになった.
復員する兵士を待つ駅で、戦友の男に出会う.
『手を貸そうともせず見殺しに?』
『だめだった』
『みんな知らん顔、ひどい人達ね』、苦しい胸の内を語った戦友の男を、ジョバンナは責めたてた.
『だが、事によると、誰かが救助を』、この言葉に一抹の望みをかけたのであろうか、彼女はロシア行きを決意した.

モスクワの外務省を尋ね、職員の案内を受けたのだが、けれども連れて行かれた場所は、見渡す限りにヒマワリの咲き乱れる犠牲者の眠る土地と、数え切れないほどの墓地だった.
『ここにはいなくても、主人は生きています』、かたくなに言い張って、彼女は一人で尋ね歩くことにした.
僅かな情報を頼りに、サッカースタジアム、工場と探し回り、やっと見つけた一人のイタリア人の男.
『イタリア人ね、どちらから』と、にこやかに話しかけた彼女だったが、
『今の私はロシア人です』、彼女の期待を裏切る答えが返ってきた.
『なぜ』と、聞いても、
『要するに、こうなっただけです』と、複雑な事情を伺わせる答えしか返ってこない.否、単純であるかもしれないが話せない事情が、否、話しても無駄な事情が.....あるいは話したくない、否、自分が知らない方が良い事情が、そう伺わせる、そんな答えであったのか.
『故郷へは?』
『故郷』、彼は手振りで、なんとなく『ここ』と言うような曖昧な素振りをして、電車に乗って去っていった.

写真と『イタリア人』と言う言葉から、夫の暮らす家を探し当てたジョバンナ.案内された家の庭先、洗濯物を取り込む若い女性の姿から、彼女は最も予想したくなかった現実に直面することになった.
黙って写真を差し出すジョバンナ.妻のマーシャも受け取った写真を黙って見つめるだけで、二人共に何も言葉が浮かんで来なかった
沈黙を破るように、子供があどけない表情で挨拶をしたので、ジョバンナも必死に笑顔を作って子供に応えた.
『どうぞ』、マーシャはジョバンナを家に招き入れた.家に入ったジョバンナは、幸せそうな家庭の内側を目にすることになった.
突然現れたジョバンナに、マーシャは表面は平静を取り繕おうとしても、心の動揺は押さえることが出来なかった.
『手を洗いなさい....服まで汚して』と、子供をきつく叱りつけてしまい、子供は何処か外へ逃げ出してしまったようだ.
二つ枕の並んだベットと、自分に対して動揺するマーシャの姿、二つの光景を同時に目の当たりにしたジョバンナ.自分はアントニオとマーシャの幸せを壊しに来た不幸をもたらす存在でしかない.マーシャの取り乱した姿によって、ジョバンナも取り乱してしまったと言ってもよいのか、ジョバンナはやりきれない想いに耐えかねて、泣き崩れ椅子に座り込んでしまった.
否、自分が涙を見せれば、その涙がマーシャを苦しめることになる、泣き出したい想いを必死に堪えたジョバンナ.マーシャが子供を追って居なくなった時、やっと彼女は泣くことが許された、こう言うべきなのだろうか.
『疲れました』そう言って、その場を取り繕おうとしたジョバンナだったが、単なる長旅の疲れでなかったことは当然であり、顔を拭くようにタオルを差し出したマーシャにも、ジョバンナの気持ちが察せられた事だろう.マーシャもジョバンナと同様にタオルで顔を覆ったのだった.
マーシャはアントニオとの出会いの話をした.話が終わった頃に汽笛の音が.
『いらして』、そう言われて、マーシャの後を追うようにジョバンナは駅に急いだ.

列車が着いて人々が降りてきた.マーシャは夫の姿を探し求め、そのマーシャの姿を見留たアントニオはマーシャが迎えに来てくれたと想い嬉しかったのであろう、抱き寄せてキッスしようとした.マーシャはそれを拒み、ジョバンナが来たことを教えていた.アントニオは事の成り行きを理解するまでに、少し時間がかかったようだが、マーシャの指さす先に居るジョバンナの姿を観て.....それでも未だ、記憶が蘇るまでに時間がかかったのであろうか.
ジョバンナは幾年も夫の帰りを待ちわびて、そして夫の姿を探し求めてここまで来たのだけど.幸せを求めて夫を探し求めてきた、その自分がマーシャとアントニオの幸せな家庭を打ち壊そうとしている.二人の様子を見ていて、ジョバンナには再び耐えきれない想いがこみ上げてきたであろう.けれども、自分が辛い涙を見せれば、二人にも辛い想いを与えてしまう.マーシャにもアントニオにも涙を見せることは許されなかった.彼女は必死に涙をこらえて、動き始めた列車に飛び乗った.


マーシャ
『引っ越ししたのに、口をきいてくれない、一言も』
『私を愛していないの』、彼女は、ここまでは夫に問い質した.けれども、
『私と、ジョバンナとどっちを愛しているの』とは、聞きはしなかった.そんなことは聞いても無駄なこと、それは夫にだって分りはしないであろうし、想えば想うほどに忘れ去っていた記憶が蘇ってきて、どうすることも出来ない事であろう.

『すぐイタリアへ、急用なのです』
『この人の母親が病気ですので』、マーシャも口裏を合わせて、切符の手配を頼んだ.
『急に言われても二人分は無理ですよ』
『私は行きません.....引っ越したばかりですし、子供も居ますから』
『家で待ちます』、必死に明るい表情を作りながら、マーシャは言った.彼女は夫が戻ってくると想っていたのだろうか.....

彼女にも果たして夫が戻ってくるかどうか、全く分らなかった、それは考えたくない事であったように想える.
ロシアまで夫を探し求めてやって来たジョバンナの気持ちは、何も話をしなくてもマーシャには痛いほど分ったはずである.そして、やっと巡り合えた夫と何も話しもせずにジョバンナは去って行ってしまった、そのジョバンナの心を想うとき、ジョバンナの悲しみ、苦しみは、自身の悲しみ、苦しみとなってマーシャを悩ませることになったのではなかろうか.
自分達の幸せの邪魔はしまいとジョバンナは去っていった.そう想えば想うほどに、ジョバンナの夫への愛の深さを感じずには居れないマーシャだった.自分に涙を見せまいと必死に耐えたジョバンナの姿を目の当たりにしていたマーシャ.彼女もまた、あの時のジョバンナと同じように、泣き出したい想いを必死に堪えて、『家で待ちます』と言ったに違いない.

ジョバンナのアントニオに対する愛は、決して引き裂くことが出来ない愛である.自分のアントニオに対する愛も、ジョバンナの愛と変わることはないのだけれど.....どうしたら良いのか、マーシャには分らなかった.
悩みに悩み、苦しんだマーシャであったであろうが、同時に彼女は、自身が悩み苦しむ姿は、ジョバンナも変わりはしないのだと気がついたであろうか.マーシャは自身の分らない心の中から、アントニオが戻ってくるかどうか分らない、『家で待つ』と言う答えを導き出した.ジョバンナと二人で涙を分かち合う答えを、マーシャは導き出したのだった.


苦しめば苦しむ程、自分を見失って行き、どうすればよいのか分らなくなってしまうアントニオ.
苦しめば苦しむ程に、互いに相手の苦しみを理解することになる、ジョバンナとマーシャ.
自分の心の中にある愛は、決して何者にも引き裂かれることが無い愛である.....からこそ、決して相手の心の中にある愛を引き裂こうとはしなかった.相手の愛を引き裂くことは、自分の愛を引き裂くことと同じ.

戦争は嘘によって成り立ち、憎悪の感情によって行われる.
描かれたものはその逆.互いに互いの苦しみを理解し合う、一人の男を愛することになった、ジョバンナとマーシャの真実の愛であった.
あるいは単に、平和を守る心がそこにあった、と言ってもよいのか.


追記
ジョバンナとマーシャ、この二人が互いに相手をどう思うのかは、全く言葉で語られることは無かった.演技から感じられるだけであり、この点によって、破壊と創造による芸術が成り立っていると言える.
今一つ、先にも書いたが、マーシャは『家で待つ』と言った.職員の女は『なぜ一緒に行かないのだ』と、そんな目つきで二人をじっと見つめたが.
マーシャにはもう一つ道があった.単にアントニオが今一度ジョバンナに会って話をするだけならば、一緒に行けば良かったのだ.けれども彼女は『家で待つ』道を選んだ.
『家で待つ』マーシャには、アントニオが戻ってくるかどうか分らなかった.なぜ彼女は、分らない道を選んだのか、それは、自分とアントニオの愛が、決して引き裂くことが出来ない愛であるならば、アントニオとジョバンナの愛も同じ愛であると考えたに他ならない.
分らないものを分らないと認識するとき、ジョバンナとマーシャ、二人の純真な心が浮かんで来る.これも、破壊と創造による芸術と言える.

純真な心は、汚い心、悪い心と隣り合わせにある.
アントニオが出征する時、駅の中の人目のない場所を探し求めて、二人はトイレの中で抱き締めあった.
マーシャがアントニオを迎えに行った駅も、柵を開けて入ったすぐ傍にトイレが有って、ジョバンナが覗いて観ていた.そして、トラックの荷台のアントニオの回想シーンに、柵にもたれかかってアントニオを見つめているマーシャが、ジョバンナが乗っていった列車を見つめるアントニオの様子を伺っているマーシャが描かれた.

マーシャは突然現れたジョバンナに動揺して、幼気な子供を叱りつけてしまった.それはマーシャの純真な心の現われであったとすれば、他方ジョバンナの場合も、夫の夜勤の留守に尋ねてきたアントニオと抱き締めあってしまって、その相手は『二人でどこかへ行こう』と言った、この出来事は、やはり二人の純真な心の一面でもあったと言えるのではないのか.
子供の泣き声がして我に返る二人.あなたも私も、子供は犠牲に出来ないのだと.....


ジョバンナがマーシャに話した言葉は、『疲れました』、この時の一言だけ.
一人の男を愛してしまったジョバンナとマーシャ、女同士の気持ちは演技だけで描きあげた.




この時マーシャが涙を拭ったのかどうかは分らない.けれどもアントニオがイタリアへ行ってしまい、残されたマーシャは、ジョバンナと変わらないほどに泣き崩れたであろう.





1969年にルキノ・ヴィスコンティは『今だからこそ撮らねばならない』と言って、『地獄に堕ちた勇者ども』を撮っている.そして、翌年にこの作品が撮られた.
何かありそう、振り返ってみると、1968年の『プラハの春』、この事件が契機になったのだろうか.
何れにしろ、米ソ両国がそれぞれ一万発以上の核弾頭を所持し、戦争が起これば地球の全てが破滅する恐怖の時代であった.
もっとも現在でも、いくらか核軍縮が行われたとは言え、未だ世界には4千発を越える核弾頭が存在し、世界を破滅させるには充分、日本くらいは簡単に消滅してしまうのは間違いのないことだけど.

制作者達は『どうしてもソ連でのロケが必要と考えて、幾度も足を運んで交渉を行い、初めてソ連国内での外国人の撮影を成功させた』と、言われている.
全くその通りであり、描かれたものも、ジョバンナとマーシャ、二人の引き裂くことの出来ない国境を越えた愛であった.
と、同時に、主義、主張の異なる二つの国が力を合わせ一つの事を行おうとする、その事自体が平和を守る力になるはずであり、制作者たちは映画の製作を通して世界の平和を守ろうとしたと言わなければならない.

ロベルト・ロッセリーニ
『無防備都市』
『戦火のかなた』

ジッロ・ポンテコルヴォ
『アルジェの戦い』

..........

1975年公開の『デルス・ウザーラ』は、黒沢明がソ連に招かれて撮られた作品である.
どの様な経緯に因るものか詳しくは知りませんが、反対に日本がソ連の優れた監督を招き、日本に由来する優れた作品の映画化を依頼しなかったとしたら、黒沢明の実力が認められて招かれた、と言う、うぬぼれだけで終わってしまったとするならば、お粗末な限りと言わなければならない.
映画界を上げて、映画を通じて社会に貢献する、と言う意識が日本には全くと言ってよいほど無いのであろうか.....

映画『自転車泥棒』 - LADRI DI BICICLETTE - (ヴィットリオ・デ・シーカ イタリア)

2012年12月05日 19時16分13秒 | ヴィットリオ・デ・シーカ
自転車泥棒 - LADRI DI BICICLETTE -
1948年 イタリア 85分

監督  ヴィットリオ・デ・シーカ VITTORIO DE SICA
製作  ヴィットリオ・デ・シーカ VITTORIO DE SICA
原作  ルイジ・バルトリーニ LUIGI BARTOLINI
脚本  チェザーレ・ザヴァッティーニ CESARE ZAVATTINI
    スーゾ・ダミーコ SUSO D'AMICO
撮影  カルロ・モンテュオリ CARLO MONTUORI
音楽  アレッサンドロ・チコニーニ ALESSANDRO CICOGNINI

出演  ランベルト・マジョラーニ LAMBERTO MAGGIORANI
    エンツォ・スタヨーラ ENZO STAIOLA
    リアネーラ・カレル LIANELLA CARELL
    ジーノ・サルタマレンダ




父親は追い詰められ困り果てた末、とうとう自転車を盗んでしまいました.父親も自転車泥棒、若者や老人と同様に自転車泥棒になってしまったのです.....
けれども、彼は自転車を返し、そして泣いて詫びました.彼はきちんと自分の犯した罪を悔いたのですが、それに対して、老人は、若者は、自転車を返したのか、一言でも詫びたのか.
身よりのない老人であっても、あるいは、持病を持った若者の場合であっても、自分の犯した罪を詫びることは出来たはずである.けれども彼らは、自転車を返しもしなければ、詫びもしなかった.つまり彼らには、罪を犯したという自覚がなかったのだと言わなければなりません.

親子は、自転車を探す道すがら高級レストランで食事をしました.その時父親は、子供に自分の給料の計算をさせました.周りで食事をしている人達を見回しながら、彼らは自分の何十倍もの収入があるのだ、と、話しました.当時のローマにも、自転車の一台や二台盗まれても、ちっとも困らないお金持ちが沢山いたのです.

雨の中、同乗した清掃車が人にぶつかりそうになって、運転手は歩行者を怒鳴り付けました.悪いのはどちらなのか?、自分のやっていることを良く考えろ.
若者が逃げ込んだ売春宿の女将は、『この店はローマでも有名な店だ』と自慢しました.が、売春宿が自慢できる仕事なのかどうか、自分のやっていることを良く考えろ.
老人よ、若者よ、自分のやっていることがどういうことか、良く考えろ.自転車の一台ぐらい盗まれても困らない収入のある人間が、ローマにはいくらでも居る.それなのに、貧乏人から盗むからこんなことになるのだ.盗むんならもっと良く考えて盗め.
























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泥棒を描いた映画は、非常に難しい問題を解決しなければなりません.つまりは、泥棒がちゃんと映画を観なければ、目的を達成できないのです.この作品はどうなのでしょうか?.

第二次世界大戦後のイタリアも日本も、似たような状態であったと思われます.日本では闇屋が横行し、食料、生活物資の多くを闇屋に頼りました.闇物資を手に入れなければ生きては行けませんでした.
裁判官も同様で、捕まった闇屋をもっともらしい判決文を宣いながら、自分も闇物資の食料を食べていました.人を裁く以前に自分を裁け、全くその通りであり、闇物資を食べていては人を裁くことはできないと、餓死した裁判官がいました.

『自転車泥棒』と同じ頃、日本では黒沢明が『野良犬』を撮っています.お巡りさんは良い人で泥棒は悪い奴、ま、そこまではよいとしても、『戦争が悪いと理由にして、泥棒をする奴はもっと悪い』などと言っていました.
黒沢明も闇物資を食べていたのは間違いのないはず.皆、戦争が悪いから闇物資を食べていたのです.

この映画の老人は教会の施しを受けて生活している.若者も病気に苦しんでいて、自転車を盗んだからと言って、優雅な暮らしをしているわけではない.野良犬の犯人だって同じであったはず.皆、貧乏のどん底に居るのでこんなことになってしまうのであり、貧乏人同士で虐め合うような事をしていてはいけない.


靴みがき (ヴィットリオ・デ・シーカ)

2012年12月05日 08時43分38秒 | ヴィットリオ・デ・シーカ

(1946年 90分)
子供の人権擁護

第二次世界大戦後の混乱のなか、貧しいながらも、家族の生活を支え、かつ、自分達の馬を持つことを夢見て、必至にお金を貯める2人の少年.靴みがきだけではなく、アメリカ兵から貰ったチョコレートを、自分では食べずに売る、あるいは、悪と知りつつも、闇物資、盗品の売買の手伝いをする.確かに悪と言ってしまえばそれまで、けれども子供なりに必至になって頑張って生きている、その様子を、デ・シーカは決して暗いものではなく、はつらつとした姿に描いているのね.足の速そうな馬を見つけて、欲しくてたまらず、どうやって飼うか当てもないままに、買ってしまう.

親と死別、子だくさんに女手一つ、正確な言い方ではないかもしてないけれど、そうした家庭環境.本来、親に養われ勉強すべき子供たちが、自分の力でたくましく生きている.その子供たちに対する、大人達はと言えば、親は子供に生活費を縋り、警察は取り締まりによって、靴みがきの子供たちを単に追い払うだけでなく、道具を没収する.悪党は、密売の品物を届ける仕事と偽って、強盗に押し入る手先に使った.
劣悪な環境の少年院、あるいは刑務所ですか.所長はその環境を改善する努力をするどころか、消毒をしなければという所員の訴えをはねつける.

生活のみならず、子供の心を育てる力が、彼らの親にはない.ならば、社会全体が子供を守る、描かれたもので言い換えれば、社会的な地位のある人間が、率先して弱い子供たちを養護しなければならないはず.何年生きても、分かったふりをするだけで、何が大切かを考え理解しようとしない、一番大切な心を分からないなどと言っているものは、人間とは言えません.
私なりに順序立てて書けば、まず裁判官.描かれた言葉を借りよう「人でなしの、へぼ判事」.裁判の過程において、なんら、子供の心を理解しようとはしない.人の心を理解しようとしないから、だから、人でなし.
弁護士の一人は確かに雄弁な弁護をした.けれども、最初の面会の時、今一人の少年に弁護士が付かないことを知って、彼一人に罪をなすりつけるように勧めたのでした.
もう一人の弁護士は、マントを羽織るのに見事なほどに時間をかけて、これまた見事なほどに、何も弁護をしない.

さて、収容施設の所長.彼は少年院を、ここは刑務所だ、どうも、こう言い放ったようなのですが.拷問しているかに見せかけて、子供の自白を強いた.拷問は悪いから、そう見せかけただけ.それは違う.言いたくないことを言うとは、自分に嘘をつくことである.つまり、所長は子供に嘘をついて、子供に嘘を言わせた.その結果は、仲の良かった2人の少年の心を引き裂き、歪めていった.子供の心を苦しめれば苦しめる程、子供は心を歪めて行く.そして、大人によって歪められた子供の心が、最後の悲劇を引き起こす.

今一度書けば、社会的地位のある者ほど、社会全体に負うべき責任は重いはずである.

戦争の傷跡を引きずる大人たち、あるいは社会、そうした現実から、次の時代を担うべき子供たちの心を如何にして守るべきか、それを問い質す映画であり、少し後に撮られたロッセリーニのドイツ零年も同じことを描いている.ドイツ零年では冒頭の字幕で、子供の人権の擁護を目的とする、と、明確に断っています.