映画と自然主義 労働者は奴隷ではない.生産者でない者は、全て泥棒と思え

自身の、先入観に囚われてはならない
社会の、既成概念に囚われてはならない
周りの言うことに、惑わされてはならない

最後の億萬長者 - LE DERNIER MILLIARDAIRE - ( ルネ・クレール 1934年 92分 フランス)

2013年02月14日 13時34分06秒 | ルネ・クレール
最後の億萬長者 - LE DERNIER MILLIARDAIRE - (1934年 92分 フランス)

監督  ルネ・クレール
脚本  ルネ・クレール
撮影  ルドルフ・マテ
    ルイ・ネエ
音楽  モーリス・ジョーベール

出演  マックス・デアリー
    ルネ・サン=シール
    マルト・メロー
    レイモン・エイムス
    レイモン・コルディ




義務と権利

ネクタイのない召使.ネクタイを締めろと言ったら、給料を払ってくれと言った.
電話交換手は、給料を貰えなくて、宮殿への電話を切ってしまった.
警官も給料を貰えないので、宮殿を取り巻くデモ隊に加わっている.
繁栄の象徴の物貰いも、お金をくれと言い、貰えなかったのでピストルを撃って抗議した.
国民には、仕事をする義務と同時に、幸せに暮らす権利があるのだけれど.

祖国の財政難を救うお金と引き換えに、女王の孫娘との結婚を要求した富豪のバンコ.出資を義務、結婚を権利と言ってよいのかどうなのか?.
出資と引き換えに、行政長官の地位を得たバンコ.これは義務と権利の関係と言えるように思える.けれども、頭を打っておかしくなったバンコは、愚劣な法律を作っては、権力による暴政を行ったのだった.

話を戻して、バンコの出資の話がなかなか進まなくて、国家の破産を覚悟した女王は、「自分の義務は承知です」と言って、退位を宣言しようとした.「お前の父は王にはなれず、母は王紀にはなれませぬ」、それを聞いた、孫娘は大喜びをしたのだけれど.
そして最後は、孫娘に代わって国家の犠牲になる覚悟をして、破産したバンコと結婚してしまった女王.バンコは、二人の結婚を知らせる挨拶をするのは、女王の義務だと言い、そして、私には年金を下さいと言ったのだった.

国民には、国家に対して、義務と権利が存在する.けれども、国家の行政を司る者には、国民に奉仕する義務だけが存在し、権利は存在しない.

孫娘は、王家の義務として、祖母と同じ歳のバンコと結婚させられそうになったけれど、一人の人間としての権利、自由な恋愛を求めて、好きな男と離れ島へ逃げていった.彼女は王女になるつもりは全くなかった.最後の億万長者と言うより、最後の王様と言う結末になっているのではないのでしょうか?.












夜ごとの美女 - LES BELLES DU NUIT - (ルネ・クレール 1952年 87分 フランス)

2013年02月12日 23時57分40秒 | ルネ・クレール
夜ごとの美女 - LES BELLES DU NUIT - (1952年 87分 フランス)

監督  ルネ・クレール
脚本  ルネ・クレール
撮影  アルマン・ティラール
音楽  ジョルジュ・オーリック

出演  ジェラール・フィリップ
    マルティーヌ・キャロル
    ジーナ・ロロブリジーダ
    マガリ・ヴァンドイユ
    マリリン・ビュフェル
    レイモン・コルディ


- 生きる優しさ -






自動車のエンジン音、クラクション、道路工事の騒音、音楽の授業では生徒が騒ぎ、飛行機が爆音を響かせる.
音楽家のクロードにとって、生きるに耐えられない環境.それに加えて、みんなが彼をバカにしてからかい、おまけに借金のかたにピアノを取り上げるという.彼が生きるには辛いことばかりの現実でした.
現実から逃れて、夢の世界に、過去の時代に、美しい時代を求めたクロードだったのですが、けれどもどの時代にさかのぼってみても、恋愛がこじれると、決闘、銃殺、おまけに断頭台と、人殺しの時代ばかりで、どこにも美しい時代はありませんでした.





けれども、一つだけ、美しい想い出を残す時代があったのです.
それは、ルイ16世の時代、貴族の娘と音楽家の恋.身分の違いから二人は引き裂かれてしまうのですが、牢屋の格子を隔てて二人は語り合う.

- フランス革命 -






僕のせいで
 いいのよ.こうして会えたんですもの
  僕が待ち望んでいた革命が、命取りになるとは
   あなたは言ったわ.喜んで犠牲になると
    幸せな世を築くために.でもまだ遠い先の話だ
    どんな世の中かしら
   20世紀を生きる子孫は、平和を享受するだろう
  そんな時代に生まれたい
 身分の差はなくなっているだろう
父は貧しい職人.私も一緒に働くの
 僕は音楽を教える
  同じ村に住み
   僕らは隣同士
    毎朝、窓の下を通るあなた
   そしてある晩、道端で出会う
  あなたは言う
 愛してる
その言葉を待っていたと、私は答えるわ
20世紀には、僕らの幸福を阻むものはない
 夢ね
 夢だ
  さようなら
   また会いましょう.別の世界で










- アフリカ出兵 -
フランスのアフリカ出兵、戦争、そして植民地支配は、アフリカの人々にとって悪夢の始まりだった.




愛に夢を膨らませたお姫様.










けれども将校の方は、単なる遊び心、結婚する気はさらさら無かった







- (フランス革命の時の夢がかなった) 現代 -
ルイ16世の時代を良い時代だったと言った老軍人は、「革命のせいで、生きる優しさを失ってしまった」と言って嘆きました.彼の言葉のように、アルジェリアへの侵略戦争だけでなく、ナポレオンはヨーロッパ中で戦争を行いました.革命後、国民が義勇軍として自ら戦争に加わるようになったのですが、戦争の時代は、生きる優しさに程遠い時代と言わなければなりません.
中尉でしたっけ、将校がアルジェリアのお姫様を口説きながら、結婚しろと言われると嫌だと言って逃げ出した.アルジェリアに対する戦争を悪い行為だと描いていると言えます.
けれども、そうした時代を経て20世紀になり、この映画の撮られた頃になると、身分の差はなくなり、誰でも自由に恋愛が出来る時代になったのです.
過去の時代に、将来に向かって抱いた夢が、現実になった.自由で平等の時代が到来した.男女の恋愛にとっては、生きるのに優しい時代になったのですが.けれども、音楽家のクロードにとって、現在が生きるのに優しい時代と言えるのか?.
過去の夢が現実になった現在において、恋愛だけに限ることなく全ての面で、生きる優しさを、夢ではなく、現実にして行かなければならないはず.










2016/04/03
- 生きる優しさ -
音楽家になる夢が適ったとき、同時にもう一つ適った夢がある.それは、親が反対していたけれど、その親の考えがころっと変わって、隣の娘と結婚できることになったこと.
こう考えると、もう一つ適った夢がある.それは、フランス革命の時適わなかった夢、身分の差が無く、誰もが自由に恋愛し結婚できる時代が来ること.

若い女の子が、きゃあきゃあ騒ぎながら、アフリカへ出兵する兵士を見送った.けれどもそれは、アフリカの人達にとって、どの様な出来事だったのか.
ここが、ルネ・クレールの見事なところ.あの将校は、アフリカのお姫様と結婚できる事になった.結婚しろと言われた途端、自分は結婚する気はないと逃げ出した.
アフリカのお姫様にとって、フランスの将校との恋愛は悪夢だった.フランスのアフリカ出兵は、アフリカの人達にとって悪夢だったのです.
さて、話を戻して.
かつて、自由を求めて戦ったフランス革命.その時抱いた夢が、今では適う時代になった.今また、かつてフランス革命においてフランス人が求めたと同じように、アフリカの人々が自由を求めて、独立運動を行っている.
フランス人である自分達が、アフリカの人々の夢を適えてあげるのは当然のことのではないのか.....

沈黙は金 - LE SILENCE EST D'OR - (ルネ・クレール 1946年 99分 フランス)

2013年02月11日 14時32分00秒 | ルネ・クレール
沈黙は金 - LE SILENCE EST D'OR - (1946年 99分 フランス)

監督  ルネ・クレール
原作  ルネ・クレール
脚本  ルネ・クレール
撮影  アルマン・ティラール
音楽  ジョルジュ・ヴァン・パリス

出演  モーリス・シュヴァリエ
    フランソワ・ペリエ
    ダニー・ロバン
    マルセル・デリアン
    レイモン・コルディ
    マックス・ダルバン


沈黙は金、雄弁は銀

映画館の前にて
『忠告を一つ.喜劇よりも悲劇の方が大衆受けする』


パレードにて
『不思議なご縁ね』
『下心はありませんよ』、腰に手を回しておいて何を言うの、じゃなくて、下心がなくちゃつまらない.と、言う映画の始まりみたいなのですが?.

エミールとマドレーヌの母親との恋愛.悲恋の想い出の女性の結婚相手のセレスタンであっても、エミールは彼と友情で結ばれていました.
セレスタンが巡業にでてしまい、やむを得ず、友情からマドレーヌの親代わりを引き受けたエミールだったのですが、その親心のもたらしたものは、マドレーヌにとっては『誰からも愛されない』寂しさだけでした.親心、下心がない心だけでは、人生はつまらない.あるいは、下心がないと、恋愛は成り立たないと言うべきなのでしょうか?.
そして、マドレーヌがなぜ泣くのか、エミールは彼女の気持ちを聞き出す内に、マドレーヌの気持ちを知るに連れて、彼の親代わりの心が、恋心に変わって行ったのでした.

楽屋で手を握り会って挨拶したマドレーヌとジャックの二人は、馬車の上で始めて出会ったように巡り合いました.エミールはマドレーヌを騙したのではないけれど、嘘の言葉で女性を口説く手ほどきをしたジャックが、彼に言われたように、マドレーヌを嘘の言葉で口説き落としてしまい、誰が正しいのか分らない、どうしたら良いのか分らない、困った出来事になってしまいました.

マドレーヌの父親のセレスタンは、『巡業は大成功、巡業は大成功、今度、新しい歌で一山当てる』と、仕事に夢中で、そして、若い女との結婚に夢中になっていました.仕事に夢中、若い女に夢中になって、自分の娘のことは他人任せで、何も考えない親でした.
エミールは、セレスタンのその様子を見て、『困ったやつだ』と、言ったのですが.
自分のことしか考えず、娘の気持ちを考えないので、困ったやつだと言ったのですが、この時エミール自身も、マドレーヌの気持ちを考えない人間であったことに、気がついたのでしょう.

雄弁は銀
相手の気持ちを考えない.自分の感情だけで、雄弁を奮うこと.雄弁によって自分の感情を掻き立てること.

沈黙は金
相手の気持ちを考えた上で、黙って行動をすること.

自分の感情だけに振り回されると、悲劇になる.
相手の気持ちを考えて行動すれば、喜劇になる.
エミールは、若い二人の気持ちを考えて、悲劇に終わる映画を、喜劇で終わる映画に変えました.



















下心のない男女の感情はあり得ない、と言うべきなのでしょうか.そして、友情も、親心も、恋愛の感情も、一人の人間の心の中で区別のつかない心なのだと思えます.
『男だって同じよ.女を甘い言葉でだますだけ』
マドレーヌの言ったように、確かにそうかもしれないけれど.
けれども、下心も、友情も、親心も、恋愛も、相手の気持ちを考えるときに、全て正しい心になり、相手の気持ちを考えなければ、全て間違った心になってしまう、と言うことではないでしょうか?



夜の騎士道 - LES GRANDES MANOEUVERES - (ルネ・クレール 1955年 108分 フランス)

2013年02月10日 20時48分11秒 | ルネ・クレール
夜の騎士道 - LES GRANDES MANOEUVERES - (1955年 108分 フランス)

監督  ルネ・クレール
脚本  ルネ・クレール
撮影  ロベール・ルフェーヴル
    ロベール・ジュイヤール
音楽  ジョルジュ・ヴァン・パリス
出演  ジェラール・フィリップ
    ミシェル・モルガン
    ジャン・ドザイー
    ブリジット・バルドー
    イヴ・ロベール
    ダニー・カレル
    ガブリエル・フォンタン
    マガリ・ノエル
    レイモン・コルディ


アルマンとデュヴェルジュ
『君の虚栄心の犠牲にするのか』
『あんたのエゴよりましだろう』
アルマンと恋敵の男の会話ですが、どっちもどっち.二人ともルイーズを好きなのでしょうが、本当に好きであったにしても、二人とも、自分が好きだ好きだと言うだけで、相手の女性の気持ちを考えていない.

ローズ



『きれいな女性に当るといいわね』
『もちろん』
『きっとよ』
『きっとだ』
『もしも、きれいじゃなかったら?』
『君がいるからいいさ』 相手の気持ちを全く考えていない.自分の都合だけで言っている.


『洋服屋みたい、深夜営業の店の』
『これで、もう帰れるわよ』
『飲みすぎよ』
『戻る日を指折り数えてバカみたいだった』
『なぜ?、みんな喜んでるわ』
『優しいのは君だけだ』
『苦しんでるのね』
『きれいな女性?.あなたを愛してる?.人妻?』
『結婚するんだ』
『あなたとじゃなく?.どうして?、どうして?』
『帰るの?.もう来ない?』
『多分来るさ.忠告してもらいに』

この子は本当に素敵.アルマンも、『優しいのは君だけだ』と言ったのだけど.
賭だろうとなんだろうと、ローズは本当の素敵な恋になることを願っていた.
この子は、決して、恋愛を肴にして、笑いものにするような女の子ではない.
幸せを願う心で相手の気持ちを真剣に考える、優しい女の子でした.

アルマンとルイーズ

男の方は、騙すつもりが本気になったのかもしれないけれど、女の方からすれば、自分が騙されて好きになったのか、本当に好きになったのか分らなくなった、と言うことなのでしょう.
騙された女がバカなのか?、騙した男が悪いのか?.
騙された女がバカであったにしても、騙した男が悪いのは何ら変わることはありません.
なぜなら、騙されて好きになったのか、本当に好きになったのか、区別がつかない事なのですから.
騙された女が自分一人だけならば、好きになってしまえばそんなことはどうでも良いのだけど.





騙したことを本当に悪いと思うのならば、自分から身を引くべきである.と思ったのだけど、それ以前の問題なのですね.
アルマンは相手の気持ちは全く考えない身勝手な男、自分の都合でしか物事を考えない身勝手な男.




このような出来事は、相手の女性にとって悲劇以外のなにものでもなかった.




決闘で死んだと思っていたアルマンは生きていた.
悲劇が喜劇になるはずだったのだが.....
アルマンと結ばれたルイーズであったのだが.....
純真な恋愛感情は、賭の対象として弄ばされた.
真実を知るに従って、ルイーズにとっては喜劇が悲劇に変わっていったのだった.


巴里祭 (フランス 公開1933年 91分 ルネ・クレール)

2013年02月10日 11時37分30秒 | ルネ・クレール
巴里祭 - QUATORZE JUILLET - (1933年 91分 フランス)

監督   ルネ・クレール
脚本   ルネ・クレール
撮影   ジョルジュ・ペリナール
音楽   モーリス・ジョーベール

出演
     アナベラ
     ジョルジュ・リゴー
     レイモン・コルディ
     ポーラ・イルリ
     レイモン・エイムス


喧嘩と仲直り

窓を開けて、向かいに住むアンナと顔を合わせたジャン.おばさんが掃除にやってきて、風に吹かれて女の写真が落ちた.
ジャンは写真を立てかけたのだけど、出かけるときにドアを開けると、また風に吹かれ落ちたのだった.
『あれ、ない.持ってたんだ』
『なに?、写真?』
『覚えてるだろ、よく来てた栗色の髪の女、同棲してただろう』
『それで』
『出てったよ』
『ああ、そうだったね』
『ああ、あった』、踏んづけていた写真を見つける.
『何が?』
『写真さ』
『捨てたんだね』
『じゃ、もう愛してないんだね』
『厄介払いだ』
二人のおばさんの、やっかみに満ちた様な会話なのですが、でも、第三者の視点から、結構正しい事を言い表しているのではないでしょうか?.
風に吹かれて落ちた写真を拾い上げて、ジャンは眺めていた.そしてもう一度、立てかけて置いた.
出かけるときになって、また落ちた写真.彼は拾い上げ、しばらく写真を眺めていたけれど、アンナが鳴らすクラクション、写真を床にほかって部屋を出ていったらしい.
写真が飾ってあったと言うことは、彼はポーラに未練があったに他ならない.アンナに巡り合って彼女と仲良くなったので、突然戻ってきたポーラは邪魔だった.おばさんが言うように、厄介払いしたくって追い出そうとした様に思えるけれど.

明日、アンナと踊りに行く約束をしたジャン.彼が部屋に戻ると、勝手に出ていったポーラが戻って来ていて、ベットに寝そべっていた.
『何しに』
『あんたに会いに』
『出て行け』
ジャンはポーラと大喧嘩をして、出て行けと言ったけれど、どうしてもポーラは出て行かなかった.
『明日までだ』、そう言って、彼はポーラを残し散歩に出て行ったのだった.

母親が病気になり、踊りに行けなくなったアンナはジャンに知らせに来た.けれども、彼の部屋に女が居たことを知り、帰り際にはその女に出会う.
おばさん達は、アンナとポーラが顔を合わせ、喧嘩になることを期待したけれど、アンナは身を隠して、喧嘩にならなかった.
しかしアンナは、散歩から戻ってきたのであろうジャンと、喧嘩してしまったのだった.
あのおばさん達の話は、妬みに満ちて他人の不幸を願う、悪いことを言っているように思えたけれど、単純にそう言いきることもできないらしい.おばさん達の期待に沿うように、女同士で喧嘩した方が、良かったのではないのか?.

『ジャン、ジャン』母親が死んで、アンナは窓から彼の名前を呼んだのだけど.けれども、彼は祭りの広場にいたのだった.悪人の親分と一緒にいたポーラは、『ジャン』と呼びながら、ジャンに寄っていった.

誤解からジャンと喧嘩してしまったアンナ、と言いたいけれど、昨夜はあんなに嫌っていたポーラを、アンナと喧嘩したことによって、簡単に受け入れてしまったジャンも、許されないものがあると言わなくてはならない.彼が部屋にいれば、アンナが助けを呼んだとき、また二人は仲直りができたはずであり、誤解も解けたはすである.

泥棒の稼ぎの指輪が欲しくて、ポーラは親分に言い寄って行った.ジャンは再びポーラと別れるつもりになったのだろうか.彼はアンナに会いたくて元の部屋に戻ってみたのだけど、向かいのアンナの部屋には別人が住んでいた.気落ちしたジャンは、悪の仲間に戻って行っていた.それまでは、稼ぎの悪いこそ泥だったジャンが、だんだんと悪の道に身を堕として行くのか、いよいよ強盗の初仕事だった.
アンナが勤めている店とは、知らずにいたジャンなのだけど.
『今度いつ会える』
『もう会いたくない』
『無理もない』
やっとジャンは、悪の仲間と手を切らなければ、アンナに嫌われても当然と悟り、アンナもまた、悪の仲間にいても、悪いやつと喧嘩をして自分を救おうとしたジャンを、好きになることができた、と言うことなのでしょう.

本当は誰とでも喧嘩をしてはいけないと言いたいのですが.けれども悪いやつとは喧嘩してでも、きちんと別れなければいけない.
当然なことだけど、好きな相手とは、決して喧嘩をしてはいけない.
喧嘩をしても、どうしたら仲直りできるか、考えなくちゃいけない.
少し言い換えれば、
悪いやつとは喧嘩別れで構わない.
けれども、好きな相手とは、喧嘩別れをしてはいけない.

書き添えれば、あのお爺さん.いきなり女の子にキスしようとして、初めは許す事ができなかったけれど、でも、それほど悪い人でもなかったみたい.優しく接すれば、優しく答えるお爺さんだった.なにがなんでも喧嘩をしなければならない相手ではなかったでしょう.
お釣りをいっぱい貰ったけれど、元を質せばお爺さんのせいで、お店で花を売ることができなくなったのだから、貰っておいても構わないはず.
ダンスホールの出来事も、アンナは、あんな風に喧嘩することも、なかったのではないか?.お爺さんとはともかくとして、お店の人とは、仲直りのできないような喧嘩を、してはいけなかったはずである.

2016/04/03
悪い女(悪い奴等)とキッパリと別れないと、幸せにはなれない.
勝手に出ていってしまった女、悪い女のはずなのに彼には未練を絶ちきれず、部屋には未だ女の写真が飾ってあった.けれども、彼は向かいの家の女の子アン好きになって、戻ってきた女を何とかして追い払おうとした彼だった.
しかし、アンと喧嘩をしたら、また悪い女とよりが戻ってしまい、更には女の手引きで悪党仲間に引き込まれてしまった.そして、女が悪党のボスと仲良くなって、結局は女とは別れたのだけど、それでも彼は、悪党の仲間から抜け出すことが出来ずに居た.

彼は悪党仲間を裏切って、どうにかアンを救ったのだけど、けれども今度は、店の主人にアンが泥棒の仲間と思われて、アンは首になってしまった.好きな女の子に巡り合ってから、悪い女と別れようとしても遅い.悪党の仲間から抜けようとしても遅いのだ.
何よりも先に、悪い女(悪い奴等)とキッパリと別れないと、幸せにはなれない.

--------------------------------
この作品を、チャップリンの『街の灯』からのパクリだと言う人がいるのですが、それは違うと思います.
『街の灯』は、酔っ払いの金持ちを助けたので、そのお礼にお金をもらっても当然であり、一度くれると言いながら気が変わったのだから、盗んだのではないと言いたいようなのですが、盗んだお金に変わりはありません.あの映画の幸せは、救われた娘が、自分を救うために男が何をしたかを知らないから成り立つペテンであり、現実の世の中では泥棒をする以外に、あんな風に大金が手に入ることもあり得ないでしょう.(私も騙されました)
泥棒をして幸せになったのではいけない.だから、ルネ・クレールは、この映画を撮ったのだと思います.
この映画は、ジャンが強盗をして、アンナに嫌われてしまったけれど、彼は自分の力で真面目な生活に戻りました.そして二人が再びアンナと巡り会うことができた、そこに好き合った二人の幸せがあるはずです.
元々はアンナににキスしようとした酔っ払いおじさんが悪いのであって、アンナは貰ったお金で元の花家さんに戻ることができたに過ぎません.


アンナと心が通じ合うものがあったのに.....
勝手に出ていった悪い女を、思い切ることが出来ずに居た.








花売り娘の女の子、返すお釣りが無いと言ったら、
酔っ払いおじさんが「すまなかった」と言って、お釣りをくれた.


悪いのは酔っ払いおじさん.酔っ払いおじさんがキスしようとしたから、アンナはレストランで花を売ることができなくなった.彼女は酔っ払いおじさんから沢山お釣りを貰って、元の花家さんに戻ることができたらしい.