映画と自然主義 労働者は奴隷ではない.生産者でない者は、全て泥棒と思え

自身の、先入観に囚われてはならない
社会の、既成概念に囚われてはならない
周りの言うことに、惑わされてはならない

さすらい - IL GRIDO - (ミケランジェロ・アントニオーニ)

2012年12月04日 23時02分16秒 | ミケランジェロ・アントニオーニ
さすらい - IL GRIDO - (1957年 102分 イタリア)

監督  ミケランジェロ・アントニオーニ
脚本  エンニオ・デ・コンチーニ
    エリオ・バルトリーニ
    ミケランジェロ・アントニオーニ
撮影  ジャンニ・ディ・ヴェナンツォ
音楽  ジョヴァンニ・フスコ

出演  スティーヴ・コクラン
    アリダ・ヴァリ
    ドリアン・グレイ
    ベッツィ・ブレア
    リン・ショウ


性悪女イルマ


「愛しているからこそ別れるの、一緒にいても傷つけあうだけだわ」
イルマの、この言葉を考えてみましょう.
この後アルドはイルマに暴力をふるい、「家に帰れ」と言った.それに対してイルマは「これで、おしまいね」と、そう答えて、本当におしまいになった.
「これで、おしまいね」=「暴力を振るうあなたを、もう愛せないわ」.
私はこう言っているのだと思うけど、だとしたら、愛していても別れるし、愛していなくても別れる、なんだこりゃ.
「愛しているからこそ別れる」とは、本当に身勝手な言いぐさ、自分に都合のいいだけの、巧妙で卑怯な言葉なのです.
相手のことを何も考えない人間だからこそ、こう言う身勝手な言い草を思いつくのでは.....






元恋人の優しいエルヴィア






荷物を届けに来たイルマと話をしたエルヴィアは、なぜアルドが自分を尋ねてきたか分かった.そして、同時にアルドの気持ちも良く分かったはず.なぜって、イルマに捨てられたアルドの気持ちは、以前にアルドに捨てられた自分の気持ちと、同じなのですから.
エルヴィアは独身だった.アルドに捨てられても、未だ、アルドを思い続けていたのでしょう.だからイルマに捨てられても、イルマを思い切ることができないアルド気持ちも、それも良く分ったはず.
未練は正しい愛情、あるいは正しい愛情を導き出すことができる感情なのだ.

エルヴィアは、自分はアルドの気持ちがよく分かるのだけど、だけどアルドが、自分の気持ちを分かってくれるかどうか.
彼女は、アルドと話をすることにした.

「話があるのよ」と、エルヴィアはアルドと共に、ダンスホールを出た.
「別れてからも、私の事を考えたりした」
「もちろんさ」
「早く結婚しろって祈ってたんでしょ」
「それが話し」
「つらい思いをしてたのよ、知ってた?」
「すまなかった」
「イルマにふられたから戻ってきたんでしょ」
「それもあるが」
「私に何かを求めても無駄よ、消えてちょうだい.消えて」
「自分でも分からない」

アルドは、今、自分がつらい想いをしているけど、かつて自分もエルヴィアを捨て、今の自分と同じつらい想いを、エルヴィアにさせたのだ、と、理解することができなかった.「すまなかった」と、口では謝ってるけど、気持ちとして伝わってくるものは、何もなかった.

「安らぎが欲しいんだ、俺には君しかいない」、アルドは、エルヴィアが独身で、今でも自分を想っている気持ちを、正しく理解することができなかった.「もし君も、僕に安らぎを求めてくれるのなら、僕は君のそばにいたい」、例えばこんな風に、相手の気持ちを察する言葉があれば、また成り行きは変わってくるのでしょうが.
「今朝、逃げるようにして出ていったわ」
「何か言ってた」
「ただ、出ていくって」
「なぜ」
「聞かなかったわ」
「がっかりした?」
「ええ」
彼女は、アルドが自分の気持ちを何も理解しようとしなかった.だから、がっかりした.




元恋人のエルヴィアに、かつて自分が辛い想いをさせたと言う自覚があれば、その相手の目の前で辛い表情を観せる事はないはずだ.






忘れることが出来ず未だ独身で居た.幾年も思い続けてきた男だったけど、けれどもアルドはその女心を全く理解してくれない、がっかりするしかない相手だった.


ガソリンスタンドの女




彼女は高慢知己で、なんとなく嫌な女に思える.ガソリンをこぼして沢山売ろうとする悪い女.彼女はアルドに抱かれたくて、娘が未だ寝てると嘘をついた.確かに良い女ではないのだけど.
彼女は、おじいさんが邪魔なので、施設に入れようと思うとアルドに相談した.けれどもアルドは「お前の問題だ」と言って取り合わず、彼女が施設に入れることに決めたら、「ひどい女だ」と、非難した.
男女が一緒に暮らして行くのなら、連れ子であっても二人の問題、親の問題も同じであり、二人できちんと話し合って決めなければいけないことではないのか.
父親の場合は酒ばかり飲んでいる、酒を取り上げると騒ぎを起こす、彼女が言うように手の負えない存在であり、一方的に「ひどい女」と非難すべき事ではないでしょうし、また、彼女にしても、好きな男と二人だけで暮らしたかった、なので、娘も親も邪魔だった面も事実でしょう.けれども、アルドがいなくなった後は、またおじいさんと一緒に暮らしていました.ですから、お爺さんのことも娘の事も、二人で話し合えば、分かり合えるものがあったのではないか、こう思えてなりません.












不幸な女
お金もない、食べ物もない.もうすぐ小屋は水没してしまう.娼婦の女は「何とかしようよ」と、アルドに相談するのだけど、アルドは話をまともに聞かず、「何もしない」と答えた.娼婦の女は仕方がなく、もう一度、体を売ることにする.
娼婦の女は売春宿に探しに来たアルドに、こう言うのだけど、アルドは黙って去っていった.
「不幸な女を軽蔑するの.身の上話をすれば、一ヶ月はかかるわ.どこへ行くの、待って、話を聞いて」
もう一度書けば、女が「話を聞いて」と言っているのに、アルドは何も言わずに去っていった.


















身勝手な男と、身勝手な女



何がどういいのか?.相手のことは全く考えない、自分だけ良ければいいという、見事な言葉.....


暴力では何も解決しなかった


さて、初めに戻って、イルマとアルド.まず、二人の会話から抜き出してみると、
アルド「もっと互いを思いやれば」
イルマ「いまさらどうなるの さようなら」
そして、「愛してるからこそ別れる、仕方ないのよ」と、イルマは言葉を続けるのだけど、その前の「いまさらどうなるの さようなら」、この言葉からは、イルマがアルドを愛しているとは思えません.「愛してるからこそ別れる」を、アルドの「もっと互いを思いやれば」に置き換えてみると、「いまさらどうなるの さようなら」と言う言葉には、相手を思いやる気持ちを見いだすことができないのが、よく分かります.
この会話のあと、イルマは男に会いに行くのですが、人だかりがしていて男の家に行けなくて、妹の家に行きました.そして妹にこう話します.「あの人だけど、年下なの、うまくいくかしら」
イルマは、どうしたら若い男と一緒になれるか、そればかり考えている.夫の死を役所で知らされ、「遺品を届けます」と言われて「結構です」と答えたけれど、イルマにとっては、夫の遺品と同じようにアルドもいらなかった.ただ単に別れたい、と思うだけで、アルドのことなど何も考えていなかったようです.






「ゴリアーノの街は、いつみても平和そうだな」、アルドが街を去る時、荷車の男が街を振り向いてこう言ったのだった.けれども、アルドが再び街に戻った時には、平和だった街は、空港建設を巡る騒乱の最中にあった.








日本の成田空港建設に伴い、空港用地をめぐって農民が三里塚闘争を起しました.イルマは新しい恋人、若い恋人と一緒になりたい、そればかり考えていて、アルドのことはもうどうでもよくて、きちんと話合おうとはしなかった.同じように、国が成田空港を作ろうとしたとき、空港を作りたい思いがあるだけ、農民の事などどうでもよく、きちんとした話し合いをしようとはしなかった.国の事業として空港を作るのは当然の事と考えて、農民の話を真面目に聞こうとはしなかったのです.簡単に書くと、警察の力で強制収容を行う国に対して、反対派はバリケードを築いて対抗したのですが、結局は力で排除されて終わりました.暴力を振るって「家に帰れ」と命令したアルドに対して、イルマは「これでおしまいね」と、答えたのですが、話し合いではない形で結論になったのは、どちらも同じです.
イルマはきちんと話をしないので、アルドはどうすることもできなかった.アルドの場合は自殺してしまったのですが、日本の成田空港の第二滑走路の建設に際しても、空港建設当時から変わらない問題を引きづって来たままだったのです.
付け加えれば、成田の第二滑走路の建設に際しては、国土交通省の大臣が直接農民との話し合いをしました.時代とともに、いくらかの進歩はあったようです.

まとめれば、話し合ったからと言って、必ず問題が解決するとは言えないけれど、話し合わなかったら何も問題を解決することはできない.これは、男女の場合も、国の事業の場合も同じこと.この映画は、男女の恋愛を通して、国と農民に、話し合え、もっと話し合わなければ、こう問いかけている.

さすらい
https://www.youtube.com/watch?v=3mZVQEebCpw


女ともだち - LE AMICHE - (ミケランジェロ・アントニオーニ イタリア)

2012年12月04日 22時58分28秒 | ミケランジェロ・アントニオーニ
女ともだち - LE AMICHE - (1956年 イタリア)

監督  ミケランジェロ・アントニオーニ Michelangelo Antonioni
脚本  スーゾ・チェッキ・ダミーコ
    アルバ・デ・セスペデス
撮影  ジャンニ・ディ・ヴェナンツォ
音楽  ジョヴァンニ・フスコ

出演
    エレオノラ・ロッシ=ドラゴ
    イヴォンヌ・フルノー
    ヴァレンティナ・コルテーゼ
    マドレーヌ・フィッシャー
    ガブリエル・フェルゼッティ
    フランコ・ファブリッツィ


恋愛と仕事(この場合は恋愛も結婚も同じこと)
クレリア
彼女は洋服店を任されている.仕事のできる女性、真面目に仕事をする女性.
恋愛は、カルロの方で触れましょう.
ロゼッタ
良家のお嬢さんで、仕事はしたことがない.自殺未遂の彼女を救おうとクレリアは、彼女にお店に勤めるように勧めたけれど、
彼女は遅刻、無断欠勤で勤まらなかった.
彼女は画家のロレンツォと不倫の関係で、男と一緒にいたくて、仕事を欠勤する.不倫が不真面目な恋愛と言うつもりはないけれど、彼女の場合は単に好きな男と一緒にいたいだけ、誰でもSEXばかりしていて暮らして行ければ苦労はしない、彼女の恋愛は男の負担になるだけの、不真面目な恋愛と言える.
設計者のチェーザレ
クレリアが工事中のお店に初めて来て、現場監督に聞いたら、誰の事か分からなかった.工事をしている者どうしで「チェーザレ?」「金髪の男さ」、こんなやり取りをしている.お店の工事が遅れているのに、いい加減な返事ばかりで、仕事に不真面目な男.
他方、彼の恋愛も、女の片っ端から口説きまくる.不真面目もいいところ.
助手のカルロ
彼は、設計者とは反対に、真面目に仕事をこなす男だった.彼の真面目に仕事を行う姿に接して、クレリアはカルロを好きになったのね.そして、その恋愛も、真面目なものだった、真剣なものだったと言って良いでしょう.
ネネ
彼女の絵は認められて、ニューヨークで個展を開くことになった.彼女は仕事のできる女性.そして、彼女は浮気をした夫を許し、個展をあきらめ、夫と一緒に暮らす道を選んだ.恋愛も真面目なものだったと言える.
ロレンツォ
妻のネネとは逆、絵が売れなくて、妻をひがむようになり、浮気の道に走る.仕事ができなければ、恋愛も不真面目とは言えないものだった.モミーナ
富豪の男と結婚して、夫とは別居暮らし.浮気ばかりしてるようだけど、当然のように仕事とは無縁な女.
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まとめれば、仕事に真面目な人は恋愛も真面目.仕事に不真面目な人は恋愛も不真面目だった.これは男も女も同じに描かれている.ここまでは映画を観るだけで分かることであり、さて、ここから何を導き出すかは、観て感じた心で考えること.全部は書かないで置きましょう.
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「愛の不毛」、この言葉は、日本公開に際して日本の配給会社の人間が言い出した言葉で、こんなことを言うのは日本だけのこと.この言葉、自分で説明できますか?.自分で説明できないということは分からないということ.自分で分からない言葉を用いては、結局は何も分からない.
分からない事柄を、分かる言葉で考えるからこそ、分からないことが分かってくるのね.