映画と自然主義 労働者は奴隷ではない.生産者でない者は、全て泥棒と思え

自身の、先入観に囚われてはならない
社会の、既成概念に囚われてはならない
周りの言うことに、惑わされてはならない

『ある女の存在証明』 ミケランジェロ・アントニオーニ

2012年12月05日 22時26分27秒 | ミケランジェロ・アントニオーニ
『ある女の存在証明』 - IDENTIFICAZIONE DI UNA DONNA -
1982年 123分 イタリア/フランス

監督  ミケランジェロ・アントニオーニ Michelangelo Antonioni
製作  ジョルジョ・ノーチェラ
脚本  ミケランジェロ・アントニオーニ
    トニーノ・グエッラ
    ジェラール・ブラッシュ
撮影  カルロ・ディ・パルマ
音楽  ジョン・フォックス

出演
    トーマス・ミリアン
    ダニエル・シルヴェリオ
    クリスティーヌ・ボワッソン
    マルセル・ボズフィ
    ララ・ウェンデル


分からない

分からないことを分かりにくく描いた映画.始めから終りまで分からないことばかり、なので、逆に考えると分かりやすいと言えるのかも.この映画で分かることはほんのわずかしかないのです.

と言うことで、分かることをまとめてみましょう.
1.姉が産婦人科医.そして劇団の俳優の女の子は、他の男の子供を宿している事が分かって別れることになるけれど、子供を生むと言うことが描かれているとしておきましょう.
2.男女のSEXが描かれました.
3.自分の前から黙って去った女性、レスビアンらしい.

この3点を簡単に関連付けてみると、男女のSEXも、レスビアン、つまり女同士のSEXも同じである.
ただし、子供を作らないとしたのならば.
付け加えれば、オナニーの好きな娘が出て来ましたが、彼女も同じことが言えそうです.

さて、分からない、この事がどのような意味を持つのでしょう.映画を観て分からないということは、観た者にとってその映画、無意味なのですね.
こう考えれば、男女のSEXに関連した分からない出来事ばかり描いているこの映画が意味する事は、男女のSEXは無意味である、こう言っているのだと考えて良いでしょう.
SEXで何か意味を持つとしたら、それは子供を作ることであり、それ以外は二人だけの問題、それを観て他人がどうのこうの言ってみても、何も意味を持ちません.
主人公が映画監督、SEXを他人にみせても無意味、つまりはSEXを描いた映画は無意味、全部まとめるとこうなるらしいのですが.
作品の年代からすると、此の頃から性描写の規制が緩くなり、SEXの描写がスクリーンに多く登場するようになった頃なのでしょう.SEX描写に何か意味があるように描く映画監督を、アントニオーニ流に批判した作品であると思います.

最後のSF、太陽系の誕生の謎を探る宇宙船でしたっけ.宇宙の誕生の謎は生命の誕生の謎でもあると言えます.人間がなぜ生まれてきたのか、こう問う時、両親がSEXしたからだ、と答えても全く意味がありません.SEXが無意味であるとはこの様な観点から言えること.ですから、娯楽だけが目的の、すけべ映画を否定するものではないと思います.




宇宙の誕生=太陽の誕生=生命の誕生の謎




それだけ
















何かが大好きな、スケベな子ばかり








































渇望 (イングマール・ベルイマン)

2012年12月05日 22時26分27秒 | イングマール・ベルイマン

(1949年 85分)

嘘でも真実でも、許されないこと

まずは回想の中の浮気男から.『女を作るのは男の甲斐性、でも沢山はいかん、二人なら良い.俺は二人共、愛している』この様なことを言っていたけど、嘘であれ本当であれ、妻と愛人二人を目の前にして、身勝手な言いぐさ.
妊娠が三月か四月か知らないけれど、確かに良くは分からないにしても、いずれにしろこの男、女の言っていることを勝手に嘘だと決めつけて、子供のできた若い女を捨てた.

子供を堕胎して、彼女は医者にもう子供を生めないのではないかと聞いたのだけど、医者はなにも答えなかったらしい.医者が患者の問いに答えないこと.

イライラ女の子、ルートだっけ.彼女は列車の中で遊びに来た少女に、チョコレートをあげて、自分のことを好きだというように強要した.あの少女が本当のことを言ったかどうかより、そんな事を子供に強要してはいけない.だからあの子はどれだけチョコレートを貰っても、好きだとは言わなかった.

脳炎を患った女と医者のやり取りは、何処までがまともで、何処からが嘘なのか分からないけれど、いずれにしても、医者が立場を利用して、患者に手を出すことは許されない.明瞭に描かれてるわね.

バレエ学校の教師、生徒が下手なのは間違いなくても、おまえは下手だ、下手だと言って、生徒をいじめることは許されない.

レスビアンの女、親切ごかしに友人を誘い、酒に酔わせて強姦か何かしらないけれど、性的に迫ったのだけど.男と女であれ、男と男であれ、女と女であれ、この様な方法で性的関係を求めることは許されない.
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列車の窓から顔を会わせた旅行者同士、スイスしか行かなかったのか、本当にイタリアまで行ったのか、本当に飛行機に乗ったのかどうか、こんな嘘、本当であろうが、どうでも良いこと.
喧嘩ばかりしているあの二人、他愛もない嘘、あるいは他愛もない真実、つまりは許されない嘘、あるいは真実の、その逆のことばかりで言い争っているみたい.
今度本にまとめるつもり、どんな家庭にも波風はある、牧師の家庭にも.あほくさ、わざわざ本にまとめることなのか、と思うけど、嘘でも本当でも、全くどうでもいい.

と言うことで、この映画に描かれたものは、嘘であれ真実であれ、許されないことの列挙.何となく関連した出来事のように思えるけれど、登場人物に関連を持たせているだけで、描かれていることは全部バラバラなのね.

鏡の中にある如く (イングマール・ベルイマン)

2012年12月05日 22時20分25秒 | イングマール・ベルイマン

(1961年 91分)

素直な自分

姉であり妻である女性から.
彼女は何処までが正気で何処からが異常なのか解らない.彼女自身が二つの自分を行き来するのに疲れたと言う.本当の自分の姿を見つけ出すのに疲れたと言ってもよいでしょう.解らないものを解らないとして受け取ることが素直なものの見方であり、それがこの映画の趣旨でもある.つまり、解らないとは本当の自分が解らない、と、こう言っているのね.

弟の男の子.
思春期の男の子は性に興味があり、当然Hがしたいと思っている(女の子も同じでしょうが).けれども、彼は上辺では女嫌いを装っていた.勉強時間に女の子の裸体の雑誌を見ていたようだけど、「どの子が好き」「すぐにさせてくれるみたいだから?」この姉の言葉は、彼の本心を、素直な心を言い当てていたのでしょう.彼は廃船のなかでお姉さんを犯してしまいました.

父親.
この人は小説で、人の評価ばかり気にして上辺ばかりの綺麗な言葉を並べるのが得意な方みたい.彼女の病気は母親からの遺伝、お母さんも同じ病気で亡くなったみたいだけど、この父親は親子二代に渡った病気の現実から逃れたくて旅を続けている.娘の病気が進行して行く現実から逃げてばかりいたみたい.
彼女は父親の日記を盗み読みした.日記とは、本当の自分の心を書いたもの、素直な自分を書いたものなのね.彼女はその事を夫に話し、夫は船の上で父親にその真意を問いただしました.本心、素直な心はどうなのか問いただしました.父親は自分が自殺しようとしたけれど死にきれなかったことを話、夫に対しては、「妻に対して本当は死んでくれることを望んでいるのだろう」と、逆に本心を問いました.

彼女は病気にもがき苦しみながらも、自分自身を見つけ出そうとした.そうした彼女に関わって行くうちに、家族の皆が自分自身を見つけ出していったのね.(正確に言えば皆が皆、自分の本心をさらけ出すことになった)
父親は姉を犯してしまった男の子に、なんとなく宗教じみた言葉を言ったみたいだけれど、それに対する弟の男の子の言葉は「お父さんが、話をしてくれた」だったのです.
人は皆自分で自分の回りに円を描いて生きている、こう言ったのは父親でしたっけ.円の内側が本当の自分であり、この家族、円の外側には互いに偽った自分を見せて生きてきたのでしょう.家族とは、素直な心で互いに理解を深めあって行く関係.鏡の中にある如く、とは鏡に映った自分の姿のように、ありのままの姿で生きる事、素直な心で生きて行くことが大切なのだと言っています.
付け加えれば、素直な心で生きることには、神様が居ても居なくても関係ありません.

ベニスに死す - MORTE A VENEZIA - (ルキノ・ヴィスコンティ 1971年 131分 イタリア/フランス)

2012年12月05日 22時08分06秒 | ルキノ・ヴィスコンティ
ベニスに死す - MORTE A VENEZIA - (1971年 131分 イタリア/フランス)

監督    ルキノ・ヴィスコンティ
製作    ルキノ・ヴィスコンティ
製作総指揮 マリオ・ガロ
      ロバート・ゴードン・エドワーズ
原作    トーマス・マン
脚本    ルキノ・ヴィスコンティ
      ニコラ・バダルッコ
撮影    パスクァリーノ・デ・サンティス
音楽    グスタフ・マーラー

出演    ダーク・ボガード
      ビョルン・アンドレセン
      シルヴァーナ・マンガーノ
      ロモロ・ヴァリ
      マーク・バーンズ
      ノラ・リッチ
      マリサ・ベレンソン
      キャロル・アンドレ


美少年と、醜いホモのお爺さん
美少年が、ベニスの美しい街並みを現すとすれば、醜いホモのお爺さんが化粧をする好意は行為は、ベニスの当局者は伝染病の発生を隠そうとした、その行為を現している.

この映画で描かれた化粧とは、美しいものをより美しく見せる行為ではなく、自分の都合の悪い部分を隠そうとする行為だった.主人公自身がベニスに向かう船で、化粧をした老人を見て、醜くて気持ち悪いと思ったのだけど、彼はその気持ち悪い化粧を真似たのだった.

美少年にとって、ホモのお爺さんはコレラ菌と変わらない.勝手に死んでくれて良かった、良かった.ついでだから伝染病の発生を隠した、街の役所の人間も、コレラにかかって死んでしまえ.

人間て本当に愚かなもの.トーマスマンとヴィスコンティ、二人の名前によって映画を考えてしまい、描かれた事実を素直に理解しようとはしないらしい.

制作者はヴィスコンティである.そりゃそうだ、正気の人間が、こんな映画にお金を出すはずがない.
伝染病の発生を隠そうとした、ベニスの当局者の行為は、聞くに耐えかねる醜い行為だったので、観るに耐えかねる醜い映画で、ヴィスコンティは表現した.

ベリッシマ - BELLISSIMA - (1951年  イタリア ルキノ・ヴィスコンティ)

2012年12月05日 21時50分28秒 | ルキノ・ヴィスコンティ
ベリッシマ - BELLISSIMA -
1951年  115分  イタリア

監督  ルキノ・ヴィスコンティ
脚本  スーゾ・チェッキ・ダミーコ
    フランチェスコ・ロージ
    ルキノ・ヴィスコンティ
撮影  ピエロ・ポルタルピ
    ポール・ロナルド
音楽  フランコ・マンニーノ

出演
    アンナ・マニャーニ
    ワルテル・キアーリ
    ディーナ・アビチェラ
    アレッサンドロ・ブラゼッティ


泣いた者と、笑った者.
子供が、泣いていた.それを見て、笑った者たちと、それを知って、泣いた母親.

このお母さん、子供をスターにしたかったのだけど、子供をスターにしてお金を稼ごうとしたわけではない.住宅資金を賄賂に使い込んでしまったのだけど、そのお金はローマ中の人を糖尿病にして、自分で稼ぐと言っている.
子供は、踊りの練習を嫌がり、父親は子供がこんなに疲れるまで、何をやらせているのだと怒った.写真を撮るのも嫌がり、髪の毛はチリチリパーマになってしまって、誰からみても変、それでも、この子が選ばれたのだけど.
試写室から覗き見した自分の子供は、演技が上手い下手の以前に、泣いていた.嫌で泣いたのか、何かが怖くて泣いたのか、それは分からないけど、どちらにしても、子供はこんなことはしたくないから泣いたのは間違いないこと.
母親は、子供にとって良かれと、スターにしようと思ったのだけど、子供はそんなことは望んでいないだけでなく、子供にとっては、泣き出すような耐えられないことだった.母親は、試写室で子供の泣き出す姿を見て、自分が子供のためと思ってやっていることが、子供を苦しめていることに気がついた.だから、帰り道、バスを降りて、ベンチに腰を下ろし、子供を抱き締めて泣いたのだった.
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少し視点を変えれば、撮影スタッフが、試写室で子供の泣く姿を観て、皆で笑っていたいたのですが、理由がなんであれ、子供が苦しむ姿を観ながら笑っている人間は、人間的な感情を持ち合わせているとは思えません.