映画と自然主義 労働者は奴隷ではない.生産者でない者は、全て泥棒と思え

自身の、先入観に囚われてはならない
社会の、既成概念に囚われてはならない
周りの言うことに、惑わされてはならない

砂丘 ( ミケランジェロ・アントニオーニ 1970年 111分 アメリカ)

2012年12月08日 10時38分27秒 | ミケランジェロ・アントニオーニ
『砂丘』 (1970年 111分 アメリカ)

監督 ミケランジェロ・アントニオーニ
製作 カルロ・ポンティ
脚本 ミケランジェロ・アントニオーニ
   トニーノ・グエッラ
   サム・シェパード
   フレッド・ガードナー
撮影 アルフィオ・コンチーニ
音楽 ピンク・フロイド

出演 マーク・フレチェット
   ダリア・ハルプリン
   ロッド・テイラー
   ポール・フィックス
   ハリソン・フォード

【瞑想】―サウ[名][自サ]目をとじて心を静め、深く考えること.▽―にふける.

瞑想の街
お金の無いときアルバイトで何かをしている女の子、彼女は瞑想をする場所を求めて砂漠の中の街を探して行ったのだった.
探し求めていた街はどうやらここのようだけど、子供の集団が『一発やらせろ』と、女の子に迫ってきた.
『言ってる意味が分っているの』と、子供たちに言い返したけど、でも相手は子供とは言え多人数、彼女は身の危険を感じたのかもしれない.瞑想の街への彼女の予想は外れて、とても彼女が瞑想できる街ではなかったようだ.
けれども、場所を確かめに入ったレストランに居合わせた老人は、店の隅の方で黙って一人飲み物を飲んでいた.何を考えているのだろうか.老人は考えるだけで、何もしなかった.そうなんだ.彼は瞑想していたのだ.
ある老人は、自分は若い頃、ボクシングのチャンピンだった、と言った.若い頃は血気盛んだったけれど、年老いた今は、一人静かに瞑想にふけるのが日課らしい.

瞑想なんてその気になれば何処でも出来る事だったらしい.けれどもこの街は彼女にしてみれば期待外れに終わった.そして、期待外れで帰途に就く彼女は、その帰り道で飛行機を盗んだ若者に、『議論よりは行動』、つまり瞑想なんて縁遠い、何も考えずに行動する若者に巡り会う事になる.

アメリカの銃社会と若者
銃を、車に置き換えて考えてみましょう.
誰でも、高性能な車に乗ると、スピードを出してみたくなる.銃を持つと、撃ってみたくなる.
誰でも、高性能な車に乗ると、運転が上手くなったように思う.銃を持つと、強くなったように思う.
そして付け加えれば、若い男女が二人で居ればSEXして当然.なぜSEXするか、そんなことは考えない.
このような若者の心理を描いているのだと、私には思えます.

「家庭を守る権利はある.相手が庭に入ってから撃て」、この言葉は、スピードを出すなら、取り締まりをやっていないところで出せよ、と、言っているのと同じではないのか.高性能な車に乗ったからと言って、スピードを出してはいけない.拳銃を持ったからと言って、撃ってはいけないのですが.少し言葉を変えて、高性能な車に乗ったからと言って、スピードを出す権利は無いはず、けれども拳銃の場合は、かなりいい加減な条件を満たせば、撃つ権利が得られるらしい.
(酷い社会である)

主人公の若者(以下、単に若者)、彼は議論よりは行動、つまり、何も考えずに、あるいは物事をよく考えずに行動する人間だった.彼は、いつも家の近くの駐車禁止の場所に車を置いていた.
(他人の迷惑を考えない、酷い人間だった)

彼はデモに参加したわけではなかった.捕まった仲間に会いに行ったけど駄目だと言われた.「おーい」と、鉄格子の扉の外から、捕まった仲間に声をかけたら、「会いたければ、会わせてやる」、彼も逮捕されてしまった.彼は、何もしていないのに逮捕された.
(警察も、酷い社会であった)

若者は拳銃を持って警官を撃ちに行った.けれども彼が撃つ前に、他の誰かが先に撃ってしまった.彼は撃たなかったのだが、テレビに自分の姿が映っていることを知り、疑いが自分にかかっていると思った彼は、飛行機を盗んで逃げることにした.彼にしてみれば、車を盗むのと同じ程度の意識で、いたって気軽に飛行機を盗んだようだ.けれども何も深く考えずに行った、あるいは行おうとした彼の行動は、ニュースのネタになる重大事件だった.やがて巡り会う、お金が無いときだけ、秘書のアルバイト兼、何かをしている女の子は、彼のことをラジオのニュースを聞いて知っていた.
砂漠の砂丘を探索して、戻ってくるとパトカーがやってき来た.女の子が何とか上手く警官と受け答えをしたけれど、その時、若者は警官を撃とうとしていた.彼は思いとどまりうちはしなかったのだが、女の子に『何をしてるの』と聞かれて、やっと自分が何をしようとしていたか気がついたらしい、同じ間違いを繰り返さないように、彼は自ら弾を全部捨ててしまった.
飛行機を返して、楽しませて貰ったお礼をしよう、若者は元の飛行場へ戻ることにした.警察から逃げれるかどうか、冒険をしたいと言った.ペンキを塗りたくった飛行機を、相手がお礼として受け取るかどうか、と言うより、この言葉には真剣味が無く、悪事に対する反省は何もない.彼らは物事を自分の都合で、おもしろおかしくしか考えることが出来なかった.
「会いたければ、会わせてやる」、と言って逮捕された経験のある若者は、警察がどの様な行動をするか予想が出来ても良さそうに思うのだけど.女の子にしても、事の重大さをまった理解していなかったのだろう.彼の言葉を女の子も了承したのだけど、その結果、飛行場に戻った若者は警官に撃ち殺された.彼は拳銃を一発も撃っていないのに、撃ち殺されることになってしまった.

彼女は車のなかで、ラジオのニュースで若者の死を知ることになった.車を止めて考え込んだのだが、なんとなく気の合う相手、おそらく好きになっていたであろう若者の死の意味を、その時は未だしっかりと理解できなかったようだ.

銃を持ったら、警官を見ると、やみくもに撃ちたくてならなかった若者.
何も考えずにSEXに夢中になる男女.(抽象的表現.砂漠の中のシーン)
お金が無くなると、秘書のアルバイト兼、何かをする女の子.

お金が無いときだけ、秘書のアルバイト兼、何かをしている女の子は瞑想をする場所を探していた.つまり、自分のしていることが良いことかどうか?、彼女なりにそれを考えようとしていたのだが.....
好きになった男が撃たれて死んでしまったことを、車のラジオで知って彼女は悲しかった.悲しい気持ちになりはしたが、けれども仕方なく、売春相手との約束の場所、フェニックスのレストランに来ていた.
相手の妻は夫が浮気をしている事に感づいていて、そのうちに尻尾を捕まえてやると話していた.彼女はアルバイト相手の妻が、自分の存在を疑っていることを知った.それだけでなく、アルバイト相手には、別な秘書もいたようだ.

彼女は自分が嫌になった.自分のしていることが嫌になったに違いない.
一人レストランを後にする女の子.
爆発のシーン、何がなんだかさっぱり解らない.解らない爆発を何度も何度も繰り返して観せた.
レストランが爆発した?.否、女の子の心が爆発したのだ.解らないものが幾度も幾度も吹っ飛んで行った.....彼女の心の中から、解らないものが飛んで行った.

彼女はお金が無くなると、深く考えることも無く売春をしていた.そのことが良いここと思わなくとも、悪いことをしている意識も無かったのだが、そうした自分で解らない心が、吹き飛んで行ったのだ.

女の子に残ったのは、好きな相手が死んでしまった事を悲しむ、素直な心だった.
人を好きになることがどういうことか深く考えれば、お金が欲しいからと気軽に身体を売ったりはしないだろう.
そして、むやみに人を銃で撃ったりもしないだろう.



お金に困ると、秘書兼何かのアルバイトをする女の子


銃を買ったら誰かを撃たなくちゃ




一発やることは、彼女にとっては、お金が無くなったときのアルバイトだった


借りたお礼を言うために戻るという


車のラジオのニュースで、彼の死を知った


約束のホテルの部屋へ行くと、自分と同じような女が出てきた


何か分らない、何か汚らしいものが、自分の中から飛び去って行く.....


アリババと四十人の盗賊 - ALI-BABA ET LES 40 VOLEURS - (ジャック・ベッケル)

2012年12月08日 05時54分16秒 | ジャック・ベッケル
アリババと四十人の盗賊(アラブの盗賊) - ALI BABA ET LES QUARANTE VOLEURS -
1954年 89分 フランス

監督  ジャック・ベッケル
脚本  チェザーレ・ザヴァッティーニ
    ジャック・ベッケル
    マルク・モーレット
    モーリス・グリフ
撮影  ロベール・ルフェーヴル
音楽  ポール・ミスラキ

配役  フェルナンデル
    サミア・ガマール
    エドゥアール・デルモン
    ディーター・ボルシュ
    アンリ・ヴィルベール


『太った女を買ってこい』と言われたのに、自分の好きな女を買い求めたアリババは、困ったことになってしまった.....
アリババは、買った女の子を馬に乗せて、屋敷に向かいます.
ラストシーンはこの逆、アリババが馬に乗って、女の子が馬を引いて行く.
好きであろうがなかろうが、女の子をお金で買ってはいけないのですね.











熊座の淡き星影 - VAGHE STELLE DELL' ORSA - (1965年 イタリア ルキノ・ヴィスコンティ)

2012年12月08日 05時40分11秒 | ルキノ・ヴィスコンティ
熊座の淡き星影 - VAGHE STELLE DELL' ORSA -
1965年 100分 イタリア

監督  ルキノ・ヴィスコンティ LUCHINO VISCONTI
製作  フランコ・クリスタルディ FRANCO CRISTALDI
脚本  スーゾ・チェッキ・ダミーコ SUSO CECCHI D'AMICO
    エンリコ・メディオーリ ENRICO MEDIOLI
    ルキノ・ヴィスコンティ LUCHINO VISCONTI
美術  マリオ・ガルブリア MARIO GARBUGLIA
撮影  アルマンド・ナンヌッツィ ARMANDO NANNUZZI

出演
    クラウディア・カルディナーレ CLAUDIA CARDINALE
    ジャン・ソレル JEAN SOREL
    マイケル・クレイグ MICHAEL CRAIG
    レンツォ・リッチ RENZO RICCI
    マリー・ベル MARIE BELL





生まれ故郷の家に戻ってきた彼女、上着を脱いで下着姿になって、この調子なら、きっと、もっと脱いで.....と思って観ていたのに、それまで.
なぜかしら、裸で胸を隠しながら夫と話をしている彼女、今度こそおっぱいが見えそうに思えたのだけど、でも、それまで.
くだらない、ヴィスコンティ、金返せ、と、思ったのだけど.
でも、この映画、描かれたものは、妻の過去を暴く行為だった.夫は、なぜ自分がこんなことをしたのかと恥じた、人の過去を暴くことは、描かれた通りくだらないことである.
夫は妻の過去を知った後も、妻に対する気持ちは変わらなかった.つまり、過去なんて、どうでもいいことだった.

過去の出来事に何時までもこだわっていても、どうにもならない事なのだが、けれども、姉弟は過去の出来事に固執し、近親相姦を正当化しようとしたのだった.彼らは、死んだ父親への異常な愛情によって、母親と義父への憎しみを正当化しようとしたのだけど、しかし、その行為は悲劇を繰り返すだけだった.
過去の出来事は、今となってはどうすることも出来ない事であり、過去に捕らわれて生きることは、くだらないことであったと言える.
事実は事実であり、どうすることも出来ないのだから、そのままほっておけばよい.そうすることしか出来ないのだ.

『黄金の馬車』 - LE CARROSSE D'OR - (1953年  フランス/イタリア ジャン・ルノワール)

2012年12月08日 04時55分35秒 | ジャン・ルノワール
『黄金の馬車』 - LE CARROSSE D'OR -
1953年  103分  フランス/イタリア

監督  ジャン・ルノワール
製作  フランチェスコ・アリアータ
原作  プロスペル・メリメ
脚本  ジャン・ルノワール
    ジャック・カークランド
    レンツォ・アヴァンツォ
    ジュリオ・マッキ
    ジネット・ドワネル
撮影  ロドルフォ・ロンバルディ
    クロード・ルノワール
音楽  アントニオ・ヴィヴァルディ
    アルカンジェロ・ユレッリ
    オリヴィエ・メトラ

出演  アンナ・マニャーニ
    オドアルド・スパダーロ
    ポール・キャンベル
    ダンカン・ラモント
    ラルフ・トルーマン


次第に高まりつつあった植民地での民族運動、第二次世界大戦後は独立の機運となって高まりを見せていた.

1951 英仏共同統治より、リビア独立
1956 フランスよりモロッコ独立
     フランスよりチュニジア独立

アルジェリア
1830 フランスがアルジェリアに進出
1847 フランス、アルジェリア全土を支配
1954 アルジェリア紛争勃発
1960 サハラ砂漠でフランスの核実験
1962 アルジェリア民主人民共和国独立
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欲張りと卑怯
一座を呼んだ宿屋の主人
彼は、仕事の条件が嘘ばかりだっただけでなく、行く当てのない芸人たちに嫌なら出て行けと言った.そして彼の取り分は8割は.欲張りで、人を騙す卑怯な人間でした.

フェリペ
宿屋の主人を咎めるフェリペは、『誰でもいいなら一緒に激戦地へ行こう』と、つかみ合いの喧嘩を迫る.フェリペは勇敢な男.
カミーラに求婚したフェリペでしたが、煮え切らない彼女を諦め、黄金を欲しがる欲張りな彼女と喧嘩別れをして、激戦地へ旅立ました.

植民地に巣くう貴族たち
彼らは、隠し銀山に代表されるように、卑怯で欲張りのかたまりだった.描かれた通り、とするだけで充分でしょう.

さて、カミーラ.彼女が欲したものを、順に追ってみましょう.
自分自身には、舞台での評価、成功、名声.
フェリペに対しては、優しい思いやり.
闘牛士ラモンには、単純明瞭さ.
総督には、貴族社会の気品、優雅な生活.と同時にお金、黄金、そして黄金の馬車.

次々に訪れる男たちが、それぞれに正しい愛を語る.成り行き任せに、皆の言葉を受け入れてしまったカミーラなのだけれど.けれでも、くれるものなら何でももらう、この考え方は、欲張りと言わなければなりません.
そして、カミーラはフェリペの求婚をあやふやなまま反故にし、総督に対する態度もあやふやなまま、あやふやな気持ちのままに、闘牛場でラモンに首飾りを投げました.あやふやなままに幾人もの相手と付き合うことは、卑怯なことと言うべきでしょう.
何もかもを欲したカミーラは、欲張りな女.彼女の欲張りが、貴族の社会にもめ事を起こし、彼女を巡って男同士のもめ事を起こしました.

彼女の欲張りの所為とは言え、3人の男の心は、それぞれに彼女を正しく愛するものでした.カミーラ自身は、3人のそれぞれの心を正しく理解し、自分にとって、黄金の馬車とは比較すべきでない、大切なものであると自覚するとき、馬車を教会に寄進して3人を救う事にしました.そして、その行為が、自分を含め、皆を救うことになったのです.
司教は、『馬車があれば誰にでも秘蹟の施しにいける.おかげで、多くの魂が救われる』、と言ったのですが.
欲張りとは、何もかも全てを欲しがること.その逆は、本当に必要とする人に、必要なものを譲ることである.そして、欲張りの逆の行いは、もめ事を終わらせる事に、平和をもたらす事になりました.

ナショナリズムが台頭し、植民地の独立機運が高まりを見せる時代を背景として、この映画は撮られました.
権力とは全てを自分のものとして扱う力、欲張りの象徴的行為と言える.黄金の馬車は皆の羨望の的であり、貴族社会の権力の象徴でした.その権力の象徴を、庶民のカミーラは欲しがった.
革命によって貴族社会を打ち倒し、民主主義の社会を実現したはずのフランス国民は、植民地の独立に反対していた.
貴族社会に対する批判は、そのまま自分達への批判と言える.革命によって自分たちの力で貴族社会を終わらせたはず.それなのに、民主主義の社会を自称しながらも、貴族社会の遺物、権力の象徴と言える植民地に対する支配を、未だ続けている現実.その現実に対して、欲張りにすぎないと批判を込めて描かれた映画、と言うことが出来ます.

纏めとしてもう一度.
欲張りは、もめ事を引き起こす.
欲張りの逆は、必要とする人に、必要なものを譲ることである.

全てを手に入れると同時に、全てを失ったカミーラ、あるいは全てを手放すことになったカミーラ.
フェリペ、ラモン、総督、皆、彼女の元から去ったのだけど、けれども、一つだけ残ったものがある.それは、舞台の上で真実を求める姿、言い換えれば、演技のなかに正しいものを追い求める、自分自身.自分自身の中に、正しい自分をどれだけ追い求めたにしても、それは決して欲張りな行為ではありません.
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撮影場所はイタリアのチネチッタ.監督はフランス人で、役者はイタリア人とスペイン人.そしてオリジナルの言語は英語.
変な映画ですね.面白いのか下らないのか?.ちょっと判断に迷いながらも、やはり下らない映画、欲張りとは下らない行為であると、きちんと描き上げていると思われます.あるいは、面白くもあり下らなくもある、迷わせて、欲張りとは下らない行為と理解させる様に描かれている、こう言うべきなのでしょうか?

インディア (ロベルト・ロッセリーニ 1958年 88分 イタリア/フランス)

2012年12月07日 05時21分59秒 | ロベルト・ロッセリーニ
『インディア』 (1958年 88分 イタリア/フランス)
監督  ロベルト・ロッセリーニ
原案  ロベルト・ロッセリーニ
脚本  ロベルト・ロッセリーニ
    ソナリ・センロイ・ダス
    グプタ
    フェレイドウン・ボウェイダ
撮影  アルド・トンティ
音楽  フィリップ・アルチュイ
    アラン・ダニエル

出演
インドの人々
インドの象
インドの虎
インドの猿


インドで撮られた、オムニバスの作品です.
カラーですが、発色があまりよくないのが惜しいです.

自然との調和
インドの入り口ボンベイ、そこには様々な人々が寛容の精神で調和して暮らしている.民族が異なれば、宗教も異なり、言語、文化、風習も異なるのだが.












象使い.
カメラはインドの奥地、象の棲む森の中へ.象の力を借りて林業を営む象使い、その暮らしは、象の自然な暮らしと共にある.象使いの男の恋愛、そして結婚と、象の妊娠を絡めて、人間と自然との調和を描きました.















ダム建設.
インドの大河、ヒマラヤを源にする聖なる流れは、時として洪水を起こし、人々の命を奪う.ダムを造り治水を行うということは、自然との共存、調和を意味するのですが、ある意味では自然に対する征服、それは不調和であるのかもしれません.ダム工事の労務者の家族は、ダムの完成と共に他の土地に移ることになる.妻は慣れ親しんだ土地を離れるのを嫌がり、夫婦喧嘩になりました.













トラと老人.
余す所なく耕された水田地帯.その風景はやはり自然との調和と言ってよいのでしょう.その水田地帯を抜け、カメラはトラの棲む森の中へ.そこに住む村人の生活は自然と共にあり、そして隠居生活の老人の日課は森の中で自然と溶け合うこと.老人の散策する森にトラも棲むのだけど、そのトラは普段は決して人を襲うことはない.
ある日やって来た鉄の鉱床の調査隊、その騒音は森の静寂を奪い、森の調和を破壊した.騒音で多くの動物達が逃げ出し、森の調和が破壊されたから、トラは人間を襲うことになったのですね.









猿のラム.
熱波に倒れた飼い主.独り街に辿り着いたラム.ラム独りだけで群衆の前で芸を観せ小銭を稼ぐのだけど、猿一匹が人間の社会で生きては行けない.そして、人間に育てられたラムは、自然界に戻ろうとしても、それも許されなかった.





科学の進歩と共に開発と称し、自然破壊を進める人間社会.それは、人間の暮らし、その営みも、本来自然の一部である事を忘れ去っている.自然界に戻ろうとしてもできなかったラムの姿は、自分達が自然の一部であることを忘れ去っている人間の姿であり、同時に、その人間が行っている自然破壊は、元の自然を取り戻すことのできない行為である事を、示唆している.