映画と自然主義 労働者は奴隷ではない.生産者でない者は、全て泥棒と思え

自身の、先入観に囚われてはならない
社会の、既成概念に囚われてはならない
周りの言うことに、惑わされてはならない

暖流 (再編集版) (吉村公三郎 1939年12月1日 124分)

2015年01月25日 22時53分37秒 | 邦画その他
暖流 (再編集版) (1939年12月1日 124分)

監督  吉村公三郎
原作  岸田國士
脚色  池田忠雄
撮影  生方敏夫
美術  金須孝
編集  浜村義康
音楽  早乙女光
編集  浜村義康
照明  斉藤幸太郎

配役
日匹祐三 ____________ 佐分利信
石渡ぎん ____________ 水戸光子
笹島 ________________ 徳大寺伸
志摩啓子 ____________ 高峰三枝子
志摩泰英 ____________ 藤野秀夫
仝 滝子 ____________ 葛城文子
仝 泰彦 ____________ 斎藤達雄
仝 三喜枝 __________ 森川まさみ
堤ひで子 ____________ 槇芙佐子
梶原 ________________ 小桜昌子
絲田 ________________ 日守新一


日疋と、啓子
『(このような状態の時に結婚を申し込むのは)不純な感情があると思われても仕方がないが.....』
『今はその様なことは考えたくない.....』

日疋と、ぎん
『一方に断られてすぐに君の愛情が受け入れられる男が、随分滑稽だと思わないかい?』
『思いませんわ』
そして、私があなたを勝手に好きになっているのだから、あなたも勝手に誰かを好きになっていても、それは構わないことだ、と彼女は言った.
......
『あの方を、本当に思い切っておしまいになりますかしら?』
『うん、出来ると思うよ』
『すぐに、思い切っていただかなくても良いわ.あなたの側に居られたら、それでいいの.私だって、きっと何時かは、お嬢様を思い切らせて見せられると想いますもの』

誰でも、自分だけを好きになって欲しい、愛して欲しいと思うのだけど.けれども、そう出来なくても構わないし、その必要もない.ぎんは、好きになれと言われて好きになるものでなければ、嫌いになれと言われて嫌いになるものでもない.何人好きになろうが仕方のないことを、一人の相手を思い続ける自分自身の心から見つけ出していた.
日疋は、ぎんには目もくれず啓子一人に夢中になっていた.ぎんも同じで、日疋一人に夢中になっていた.日疋もぎんも、二人共、只一人だけに夢中になれる人間であったからこそ、二人でも三人でも、好きになり愛することが出来る人間であったと言って良いのでしょうか.

『他人を泣かすよりは、自分が泣く道を選ぶ』などと、つい言いたくなるのですが.その逆の考え方にたてば、『私があなたを好きになるのが自由であるならば、あなたが誰かを好きになるのも、それも自由なこと』と、なるのかもしれません.

日疋と啓子に戻れば、日疋が啓子に、啓子の結婚相手の裏側を暴いて教えたことは、恋愛感情から恋敵を陥れた、と、受け取れなくもないけれど.けれども日疋もまた『不純な感情があると思われても仕方がない』と、考えたからこそ、あの時、啓子に結婚を申し込んだのであり、これもまた、一人の相手に夢中になれるからこそ、出来たことと言うべきでしょうか.

で、今一度、啓子.
『本当は、親に進められた結婚相手の男より、あなたの方が好きだった』と、彼女は最後になって日疋に言ったけれど.彼女は一人の男に夢中になることが出来なかった、それだけの事なのではないでしょうか?

日疋はぎんに『啓子に振られて、今度は君にしよう』と言う、自分の考えが受け入れられるかどうか聞いた.『あっちが駄目なら、今度はこっち』、身勝手な許されない考え方に思えるけれど.そして、日疋が啓子に結婚を申し込んだのは、啓子に対して『あっちが駄目なら、自分にしなさい』と言ったのであり、相手の心を考えない、身勝手な言い草に思えたのですが.
日疋は啓子一人に夢中であったので、身勝手でもなんでもない、当然の考え方であったけれど、他方、啓子の方は、本当は日疋の方が好きであったがために受け入れられない行為、啓子が言ったように、返事に時間を置かなければならない出来事であったと思われます.


岸田国士
この人は、大学教授を辞めて、請われるままに大政翼賛会に加わり文化部長を勤めたため、あれこれと批判を浴びることになりました.その辺りにかかわる著作も何点かありそうなので、機会があれば調べてみようと考えています.
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『この物語の主題は言うまでもなく、現実と理想との相克から生まれる人生の美醜両面を描くにあるのだが、必ずしも私はここで「新しい倫理」を説こうとしたのではない。むしろ我々の伝統的感情が、現代の混乱を極めた世相の中で、如何にその生来の面目を発揮するかという問題に答えようとしたのである。』

岸田国士は自作について、このように述べているそうです.
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男女の恋愛が描かれた作品です.
恋愛の『理想』とは、相思相愛で男女が愛し合い、なおかつ、男も女も他の相手を愛していないこと.
恋愛の『現実』とは、ぎんは日疋だけを好きだったけれど、相手の日疋は、ぎんの心を知りながらも、ぎんには目もくれず、ただひたすら啓子を好きだった.

『伝統的感情』とは、どの様なことか?、これは既に書いてしまいました.ぎんは日疋が啓子を好きだと知りながらも、ひたすら日疋一人を想い続けていた.そして、日疋も同じで、啓子が他の男と結婚を決意したことを知りながらも、ひたすら啓子一人を想い続けていた.
かなわない想いと分っていても、ひたすら一人の相手を想い続ける感情を、作者は『伝統的感情』と表現したのだと思います.
さて、そうであるならば、その感情が『面目を発揮』しなければなりません.

あ、その前にもう一つ、
『現実と理想との相克から生まれる人生の美醜両面を描くにある』と、作者は言ってます.
『現実』と『理想』は書きました.では、その『相克から生まれる人生の美醜』、『美』と『醜』とは何なのか.
ここでは『美』は置いておいて、『醜』の方を考えて見れば、日疋は啓子に振られて、すぐに、ぎんを好きになることにした、相手の心を知りながら振った女の所に、自分が他の女に振られたら転がり込んでいったと言ってよいでしょうか、この事実を作者は『醜』と、言っているのだと思われます.

さて、さて、その感情が『面目を発揮』しなければなりません.
その場面を、映画から拾ってみます.

日疋 『一方に断られてすぐに君の愛情が受け入れられる男が、随分滑稽だと思わないかい?』.....(醜いと思わないかい?)
ぎん 『思いませんわ』.....(醜いとは思わないので、美であったと言っても構わないのでは?)

例え相手が別の人を好きであったにしても、ただひたすら、その相手を好きであり続けること、これが『伝統的感情』であり、この点において、ぎんも日疋も同じであった.ぎんが日疋を好きな心も、日疋が啓子を好きな心も、同じ心なので、ぎんは日疋を理解することが出来、啓子に振られてきた日疋を、何の躊躇いもなく受け入れることが出来た、と、言うことが出来ます.
日疋の側から見れば、彼は、ただひたすら啓子を好きだったけれど振られてしまい、ただひたすら自分を好きな、ぎんの所にやってきた.まさしく、ただひたすら一人の相手を好きであり続けようとする伝統的感情が、面目を発揮した出来事でした.


もう一度、ぎんと日疋
『一方に断られてすぐに君の愛情が受け入れられる男が、随分滑稽だと思わないかい?』
『思いませんわ』

そして、私があなたを勝手に好きになっているのだから、あなたも勝手に誰かを好きになっていても、それは構わないことだ、と彼女は言った.
......
『あの方を、本当に思い切っておしまいになりますかしら?』
『うん、出来ると思うよ』
『すぐに、思い切っていただかなくても良いわ.あなたの側に居られたら、それでいいの.私だって、きっと何時かは、お嬢様を思い切らせて見せられると想いますもの』

誰でも、自分だけを好きになって欲しい、愛して欲しいと思うのだけど.けれども、そう出来なくても構わないし、その必要もない.
好きになれと言われて好きになるものでなければ、嫌いになれと言われて嫌いになるものでもない.その事を、ぎんは自分の日疋を好きな心を通して、自分自身の心の中から見つけ出していた.
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啓子が一度は結婚を決意した、医師の男、あの男は、単純に『醜』であって、『現実と理想との相克から生まれる人生の美醜』の、『醜』ではないのみならず、当然のことながら、そこに『美』も存在しません.

さて、最後に日疋は、『自分を必要とする女と結婚する.あなたは自分を必要としていない』、このようなことを啓子に言いました.
啓子の言葉によれば、結婚を決意した医師よりも本当は日疋を好きであったらしいのですが、どちらが好きであったにしても、彼女は、一度は日疋以外の男との結婚を決意した女であって、他方、ぎんは、ただひたすら日疋一人を思い続けていた女である.
日疋にしてみれば、自分以外の男と結婚を決意した女は、自分を必要としない女であって、ひたすら自分だけを思い続けていた女は、自分を必要とする女である.単にそれだけのことに過ぎません.


今一度、啓子
『高根の花の相手は諦めて、分相応の相手と一緒になる』、日疋はこんな風に啓子に言ったはず.
啓子は本当に好きな日疋ではなく、社会的な地位の高い医師と結婚しようとした.そうした啓子に対する、皮肉、嫌みに思ったけれど、この捉え方は文学的な理解ではないらしい.この場合、日疋の言葉を、啓子と同じような立場にある女性が、どの様に受け取るか考えなければならないはず.

『理想』を言えば、男女平等でなければならない.が、『現実』には、啓子と日疋の場合は、極端に言えば主人と使用人の関係、平等な立場にはなかったと言える.
啓子と同じ立場にある女性が、日疋の言葉を、嫌み、皮肉と捉えれば『醜』になり、男女平等を『理想』としつつも、『現実』の不平等を理解して、自分から結婚して欲しいと言わなければならないのだ、と、考えることが出来れば、『美』になる.

『現実と理想との相克から生まれる人生の美醜両面を描くにある』、とは、
『理想』を求めれば、『醜』になり、
『現実』を、ありのままに受け入れれば、『美』になる.

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追記
作者の言葉をヒントにして考えれば、このような結論に至るのですが、作者のヒント無しで、このような結論に至る作品であるかどうかは、分りません.
しかし、『理想』求めれば『醜』になり、『現実』を受け入れれば『美』になる.この考え方を基礎にして、作者が作品を描き上げたことは、間違いのないことだと思います.

追記の追記
描かれた日疋は病院の主事で、それなりの給料をもらっていたのですが、もし彼の立場で庶民の給料しかもらっていなければ、『あんな、お金持ちのお嬢さんに、お金の苦労はさせたくない』と、身を引いてしまう事は良くあることであり、最後の日疋の言葉は、お金持ちのお嬢さんに、ストレートに、貧乏人のひがみ、として受け取ってもらえば良い言葉であったと思われます.
『あんな、お金持ちのお嬢さんに、お金の苦労はさせたくない』、この考えは、まさしく『理想』を求める考え方であり、そして貧乏人のひがみと言って良いでしょう.
お金持ちのお嬢さんは、相手の男が貧乏人の場合、相手は必ずひがんだ考え方をして、自分に結婚を申し込むことはない、と言う『現実』を受け入れ、男が女に結婚を申し込むのだと言う『理想』を捨てて、自分から好きだと言わなければなりません.

そして、そして、こう考えて、この作品の筋書きが、やっと理解できると言ってよいのか.
病院の負債の整理をしながら、日疋は啓子と母親に対して、幾度かこのようなことを言っているはず.
『御二人には、お金の苦労はかけませんから』
お金持ちのお嬢さんが、貧乏人の男は必ず、『お金の苦労はさせたくない』と、考えるものであると、気がつくかどうか?.

お金に苦労したことが無い人には、相手が自分に対してお金の苦労をさせたくないと考えているとは、理解しがたいはず.
だから、没落寸前のお金持ちのお嬢さんの家庭を通して、没落を少しでも食い止めようとする日疋の姿を通して、その事を理解させようと描いている.

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『ボヴァリー夫人』
小間使いの女、貧乏人の女は、貧乏人の男、出入りの商人とかと遊んで快楽を求め、お金に困れば身体を売って工面するらしい.
「奥様のためです.皆がやっていることですから」と言って、小間使いの女は夫人に公証人の男に身体を売って、お金の工面をすることを勧めたのだが.
上流階級の男、貴族のプレイボーイの男との快楽を求め、また、若い男に貢いで快楽を求めた夫人だった.言い換えればお金に快楽を求めた夫人だっただが、けれども、相手に快楽を与えてお金を稼ぐことは出来ず、死の道を選んだのだった.

兄夫婦の浪士癖はいかんともしがたいものだった.日疋は兄に病院でのしかるべき地位を与え、生活には困らない配慮をしたのだが、やはり予想したように兄は母親にお金をせびりに来ていた.
啓子と母親は、息子夫婦とお金のもめ事で裁判沙汰になったが、和解の道を選んだ.
『親子、兄弟でお金の争いをするくらいなら、餓死した方がよい』と、こんなことを二人は言ったと思うけれど、本当にそうなのか.....『そこまで、おっしゃるのなら』と、日疋は引き下がったのだが.

日疋は病院を株式組織にして、残った乏しい財産の中から、母親の生活費のために何とか病院の株券を残した.約8千万円で配当金が10%、年800万円ほどの収入が得られ、贅沢は無理だが生活には困らないであろうと日疋は考えた.けれども、浪費癖の抜けない兄夫婦が病院経営に関われば、いずれは病院経営も成行かなくなるであろう、それは目に見えている事なのだが.....


帰郷 (大庭秀雄 1950年11月25日 104分 松竹)

2015年01月23日 02時49分28秒 | 大庭秀雄
『帰郷』
監督  大庭秀雄
製作  小出孝
原作  大佛次郎
脚本  池田忠雄
撮影  生方敏夫
音楽  吉沢博

出演
     木暮実千代
     津島恵子
     佐分利信
     徳大寺伸
     三井弘次
     山村聰


戦友の男を鎌倉に訪ねて、一緒に仕事をしようと誘ったけれど、「お前のお金は」と言って断られた.彼は、はっきりは描かれないけれど、博打で金を稼いで生きてきたのでしょう.
他方、女は、軍部に寄生して、戦争に寄生して金を稼いで来たのだけど.

公金横領の金を博打で稼ごうとして、失敗し、自分の全てを、家族を捨てなければならなくなってしまった男.
最後はインチキのトランプで、互いに好き合った男女なのに、その相手も捨てざるを得なかった.なぜって、一生、一人で娘のことを思い続けて生きて行くと言ったのだけれど.....
博打で人生を決めることはないし、博打で人生を決めてはいけないし、人生を決めるような博打をしてはいけない.
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この映画、ルーレット賭博で始まり、トランプの賭博で終わります.

描かれた女を今一度考えてみれば.....
戦地で日本の軍人相手に酒場を経営していた様だけど、それに留まらず、憲兵の手先になって、日本軍にとって好ましくない男を探るスパイもしていたらしい.
もう日本が負けることは誰にでも予想つく戦況になって、女は日本に持ち帰るべく、ダイヤモンドを買いあさっていた.
男と女の出会いは、決してスパイが目的ではなかったのだが.けれども、ダイヤモンドの件を脅されて、女は憲兵隊に男を売ってしまった.

日本に帰った女は、娘に出会い、やはり日本に戻っていた男の居所もつきとめる.
娘に親切にし、ダイヤモンドの指輪を与えたのは、女の良心の呵責からであろうが.けれども、娘は指輪を返そうと思っていたし、女が手下のように使っていた学生の男は、卑劣に近い手段で娘に迫った.この女、果たして許されるのかどうなのか.....
女は娘と一緒に京都まで出掛けはしたが、その時は男に会おうとはしなかった.決意を新たに男に会いに行った女であったが、男に許しを求めに行ったと言うよりは、むしろ、自分で自分に許しを求めるために会いに行ったと考える方が自然なのではないのか.
こう考えれば、なぜ男は、イカサマ博打で女を振り切って行ったのかも、自然に導き出されることになる.男は自分で自分を許すことなく、女を振り切って行ったのである.
そして、何を自分で自分が許すことが出来なかったかと言えば、自分の人生を狂わせ、妻、娘を苦しませることになった間違い、公金横領の負債を博打で取り返そうとした、自分の人生を博打に頼った、その行為に他ならないと言える.

雪国 (岩下志麻 1965年4月10日公開 113分 大庭秀雄)

2015年01月23日 01時34分58秒 | 大庭秀雄
『雪国』
監督  大庭秀雄
製作  山内静夫
原作  川端康成
脚本  大庭秀雄
    斎藤良輔
撮影  成島東一郎
美術  芳野尹孝
音楽  山本直純

出演
岩下志麻
木村功
加賀まり子
沢村貞子
早川保
柳沢真一
桜京美


誠実

葉子は行男を誠実に看病し、死後も墓参りを欠かさなかった.一人の男を純真に好きになった女であり、また、弟ことを親身になって心配する姉でもあった.
他方、駒子は、行きずりの男、島村に抱かれた身勝手な女、酒の上で男を騙し、旦那を裏切った身勝手な女ではあるが、島村を好きな心は純真であり、養母の家庭を救うために芸者に身を落とし、実の家族を助けるために年季奉公にでた、生きることに対して誠実な心を持った女性であったと言える.

この二人の女に対して島村はと言えば、妻にきちんと手紙を書く誠実さを持ち合わせていたとは言え、所詮は浮気者であり、駒子の立場から言えば浮気者を許せたとしても、駒子に対する誠実さは何も持ち合わせていなかった.鳥追祭りに来るという約束を守らず、1年間音沙汰が無く、ある日突然やってくる男であった.

ちぢみを織る人達の姿に重ねて、島村自身が自覚することなのだけど、駒子も葉子も幸せな巡り会いをすれば、一人の相手を愛し幸せな家庭を持った女であったはずであり、幸せに巡り会えなくても、誠実さを失わないで生きて行こうとする、あるいは誠実さを追い求めて生きている女であった.
人それぞれに、置かれた境遇の中で誠実に生きている.それに対して島村は、幸せな家庭を持ちながらも、駒子にも、葉子に対しても誠実さを持ち合わせてはいなかった.

「君を友達と思いたいからだ.君を友達と思えば口説かずに済む」、駒子に芸者を頼んだとき島村はこう言ったのだけど、一見、駒子に対する誠実さがあるように思え無くもないけれど、田舎の温泉宿で思いもよらぬ美人に巡り会って、所詮は一目惚れした女を口説く言葉に過ぎなかったのか.
島村は、駒子のことを東京の喫茶店で友人に話していたが、声高に笑いはしないにしても、駒子が言うように、おもしろおかしい出来事として話していたのだと思える.

駅まで見送りに来た駒子を、行男を容体が悪くなったと迎えに来たとき、彼女は帰ろうとはしなかった.葉子は一人の女として行男に誠実に尽くしていたのであり、駒子にしてみれば二人の女の誠実さを求める行男に、尽くす気になれなくて当然であろう.