映画と自然主義 労働者は奴隷ではない.生産者でない者は、全て泥棒と思え

自身の、先入観に囚われてはならない
社会の、既成概念に囚われてはならない
周りの言うことに、惑わされてはならない

ひまわり -I GIRASOLI- (ヴィットリオ・デ・シーカ 1970年 107分 イタリア)

2016年04月25日 14時03分56秒 | ヴィットリオ・デ・シーカ
監督  ヴィットリオ・デ・シーカ
製作  ヴィットリオ・デ・シーカ
    カルロ・ポンティ
脚本  チェザーレ・ザヴァッティーニ
    トニーノ・グエッラ
    ゲオルギ・ムディバニ
撮影  ジュゼッペ・ロトゥンノ
音楽  ヘンリー・マンシーニ

出演
ジョバンナ..........ソフィア・ローレン
アントニオ..........マルチェロ・マストロヤンニ
マーシャ............リュドミラ・サベリーエワ


ジョバンナ
『生きているかどうかを教えて』、ジョバンナは役場の職員に大声を張り上げて詰めより、
『生きていますとも、はっきりそう答えなさい』、こう怒鳴り散らしてつまみ出されることになった.
復員する兵士を待つ駅で、戦友の男に出会う.
『手を貸そうともせず見殺しに?』
『だめだった』
『みんな知らん顔、ひどい人達ね』、苦しい胸の内を語った戦友の男を、ジョバンナは責めたてた.
『だが、事によると、誰かが救助を』、この言葉に一抹の望みをかけたのであろうか、彼女はロシア行きを決意した.

モスクワの外務省を尋ね、職員の案内を受けたのだが、けれども連れて行かれた場所は、見渡す限りにヒマワリの咲き乱れる犠牲者の眠る土地と、数え切れないほどの墓地だった.
『ここにはいなくても、主人は生きています』、かたくなに言い張って、彼女は一人で尋ね歩くことにした.
僅かな情報を頼りに、サッカースタジアム、工場と探し回り、やっと見つけた一人のイタリア人の男.
『イタリア人ね、どちらから』と、にこやかに話しかけた彼女だったが、
『今の私はロシア人です』、彼女の期待を裏切る答えが返ってきた.
『なぜ』と、聞いても、
『要するに、こうなっただけです』と、複雑な事情を伺わせる答えしか返ってこない.否、単純であるかもしれないが話せない事情が、否、話しても無駄な事情が.....あるいは話したくない、否、自分が知らない方が良い事情が、そう伺わせる、そんな答えであったのか.
『故郷へは?』
『故郷』、彼は手振りで、なんとなく『ここ』と言うような曖昧な素振りをして、電車に乗って去っていった.

写真と『イタリア人』と言う言葉から、夫の暮らす家を探し当てたジョバンナ.案内された家の庭先、洗濯物を取り込む若い女性の姿から、彼女は最も予想したくなかった現実に直面することになった.
黙って写真を差し出すジョバンナ.妻のマーシャも受け取った写真を黙って見つめるだけで、二人共に何も言葉が浮かんで来なかった
沈黙を破るように、子供があどけない表情で挨拶をしたので、ジョバンナも必死に笑顔を作って子供に応えた.
『どうぞ』、マーシャはジョバンナを家に招き入れた.家に入ったジョバンナは、幸せそうな家庭の内側を目にすることになった.
突然現れたジョバンナに、マーシャは表面は平静を取り繕おうとしても、心の動揺は押さえることが出来なかった.
『手を洗いなさい....服まで汚して』と、子供をきつく叱りつけてしまい、子供は何処か外へ逃げ出してしまったようだ.
二つ枕の並んだベットと、自分に対して動揺するマーシャの姿、二つの光景を同時に目の当たりにしたジョバンナ.自分はアントニオとマーシャの幸せを壊しに来た不幸をもたらす存在でしかない.マーシャの取り乱した姿によって、ジョバンナも取り乱してしまったと言ってもよいのか、ジョバンナはやりきれない想いに耐えかねて、泣き崩れ椅子に座り込んでしまった.
否、自分が涙を見せれば、その涙がマーシャを苦しめることになる、泣き出したい想いを必死に堪えたジョバンナ.マーシャが子供を追って居なくなった時、やっと彼女は泣くことが許された、こう言うべきなのだろうか.
『疲れました』そう言って、その場を取り繕おうとしたジョバンナだったが、単なる長旅の疲れでなかったことは当然であり、顔を拭くようにタオルを差し出したマーシャにも、ジョバンナの気持ちが察せられた事だろう.マーシャもジョバンナと同様にタオルで顔を覆ったのだった.
マーシャはアントニオとの出会いの話をした.話が終わった頃に汽笛の音が.
『いらして』、そう言われて、マーシャの後を追うようにジョバンナは駅に急いだ.

列車が着いて人々が降りてきた.マーシャは夫の姿を探し求め、そのマーシャの姿を見留たアントニオはマーシャが迎えに来てくれたと想い嬉しかったのであろう、抱き寄せてキッスしようとした.マーシャはそれを拒み、ジョバンナが来たことを教えていた.アントニオは事の成り行きを理解するまでに、少し時間がかかったようだが、マーシャの指さす先に居るジョバンナの姿を観て.....それでも未だ、記憶が蘇るまでに時間がかかったのであろうか.
ジョバンナは幾年も夫の帰りを待ちわびて、そして夫の姿を探し求めてここまで来たのだけど.幸せを求めて夫を探し求めてきた、その自分がマーシャとアントニオの幸せな家庭を打ち壊そうとしている.二人の様子を見ていて、ジョバンナには再び耐えきれない想いがこみ上げてきたであろう.けれども、自分が辛い涙を見せれば、二人にも辛い想いを与えてしまう.マーシャにもアントニオにも涙を見せることは許されなかった.彼女は必死に涙をこらえて、動き始めた列車に飛び乗った.


マーシャ
『引っ越ししたのに、口をきいてくれない、一言も』
『私を愛していないの』、彼女は、ここまでは夫に問い質した.けれども、
『私と、ジョバンナとどっちを愛しているの』とは、聞きはしなかった.そんなことは聞いても無駄なこと、それは夫にだって分りはしないであろうし、想えば想うほどに忘れ去っていた記憶が蘇ってきて、どうすることも出来ない事であろう.

『すぐイタリアへ、急用なのです』
『この人の母親が病気ですので』、マーシャも口裏を合わせて、切符の手配を頼んだ.
『急に言われても二人分は無理ですよ』
『私は行きません.....引っ越したばかりですし、子供も居ますから』
『家で待ちます』、必死に明るい表情を作りながら、マーシャは言った.彼女は夫が戻ってくると想っていたのだろうか.....

彼女にも果たして夫が戻ってくるかどうか、全く分らなかった、それは考えたくない事であったように想える.
ロシアまで夫を探し求めてやって来たジョバンナの気持ちは、何も話をしなくてもマーシャには痛いほど分ったはずである.そして、やっと巡り合えた夫と何も話しもせずにジョバンナは去って行ってしまった、そのジョバンナの心を想うとき、ジョバンナの悲しみ、苦しみは、自身の悲しみ、苦しみとなってマーシャを悩ませることになったのではなかろうか.
自分達の幸せの邪魔はしまいとジョバンナは去っていった.そう想えば想うほどに、ジョバンナの夫への愛の深さを感じずには居れないマーシャだった.自分に涙を見せまいと必死に耐えたジョバンナの姿を目の当たりにしていたマーシャ.彼女もまた、あの時のジョバンナと同じように、泣き出したい想いを必死に堪えて、『家で待ちます』と言ったに違いない.

ジョバンナのアントニオに対する愛は、決して引き裂くことが出来ない愛である.自分のアントニオに対する愛も、ジョバンナの愛と変わることはないのだけれど.....どうしたら良いのか、マーシャには分らなかった.
悩みに悩み、苦しんだマーシャであったであろうが、同時に彼女は、自身が悩み苦しむ姿は、ジョバンナも変わりはしないのだと気がついたであろうか.マーシャは自身の分らない心の中から、アントニオが戻ってくるかどうか分らない、『家で待つ』と言う答えを導き出した.ジョバンナと二人で涙を分かち合う答えを、マーシャは導き出したのだった.


苦しめば苦しむ程、自分を見失って行き、どうすればよいのか分らなくなってしまうアントニオ.
苦しめば苦しむ程に、互いに相手の苦しみを理解することになる、ジョバンナとマーシャ.
自分の心の中にある愛は、決して何者にも引き裂かれることが無い愛である.....からこそ、決して相手の心の中にある愛を引き裂こうとはしなかった.相手の愛を引き裂くことは、自分の愛を引き裂くことと同じ.

戦争は嘘によって成り立ち、憎悪の感情によって行われる.
描かれたものはその逆.互いに互いの苦しみを理解し合う、一人の男を愛することになった、ジョバンナとマーシャの真実の愛であった.
あるいは単に、平和を守る心がそこにあった、と言ってもよいのか.


追記
ジョバンナとマーシャ、この二人が互いに相手をどう思うのかは、全く言葉で語られることは無かった.演技から感じられるだけであり、この点によって、破壊と創造による芸術が成り立っていると言える.
今一つ、先にも書いたが、マーシャは『家で待つ』と言った.職員の女は『なぜ一緒に行かないのだ』と、そんな目つきで二人をじっと見つめたが.
マーシャにはもう一つ道があった.単にアントニオが今一度ジョバンナに会って話をするだけならば、一緒に行けば良かったのだ.けれども彼女は『家で待つ』道を選んだ.
『家で待つ』マーシャには、アントニオが戻ってくるかどうか分らなかった.なぜ彼女は、分らない道を選んだのか、それは、自分とアントニオの愛が、決して引き裂くことが出来ない愛であるならば、アントニオとジョバンナの愛も同じ愛であると考えたに他ならない.
分らないものを分らないと認識するとき、ジョバンナとマーシャ、二人の純真な心が浮かんで来る.これも、破壊と創造による芸術と言える.

純真な心は、汚い心、悪い心と隣り合わせにある.
アントニオが出征する時、駅の中の人目のない場所を探し求めて、二人はトイレの中で抱き締めあった.
マーシャがアントニオを迎えに行った駅も、柵を開けて入ったすぐ傍にトイレが有って、ジョバンナが覗いて観ていた.そして、トラックの荷台のアントニオの回想シーンに、柵にもたれかかってアントニオを見つめているマーシャが、ジョバンナが乗っていった列車を見つめるアントニオの様子を伺っているマーシャが描かれた.

マーシャは突然現れたジョバンナに動揺して、幼気な子供を叱りつけてしまった.それはマーシャの純真な心の現われであったとすれば、他方ジョバンナの場合も、夫の夜勤の留守に尋ねてきたアントニオと抱き締めあってしまって、その相手は『二人でどこかへ行こう』と言った、この出来事は、やはり二人の純真な心の一面でもあったと言えるのではないのか.
子供の泣き声がして我に返る二人.あなたも私も、子供は犠牲に出来ないのだと.....


ジョバンナがマーシャに話した言葉は、『疲れました』、この時の一言だけ.
一人の男を愛してしまったジョバンナとマーシャ、女同士の気持ちは演技だけで描きあげた.




この時マーシャが涙を拭ったのかどうかは分らない.けれどもアントニオがイタリアへ行ってしまい、残されたマーシャは、ジョバンナと変わらないほどに泣き崩れたであろう.





1969年にルキノ・ヴィスコンティは『今だからこそ撮らねばならない』と言って、『地獄に堕ちた勇者ども』を撮っている.そして、翌年にこの作品が撮られた.
何かありそう、振り返ってみると、1968年の『プラハの春』、この事件が契機になったのだろうか.
何れにしろ、米ソ両国がそれぞれ一万発以上の核弾頭を所持し、戦争が起これば地球の全てが破滅する恐怖の時代であった.
もっとも現在でも、いくらか核軍縮が行われたとは言え、未だ世界には4千発を越える核弾頭が存在し、世界を破滅させるには充分、日本くらいは簡単に消滅してしまうのは間違いのないことだけど.

制作者達は『どうしてもソ連でのロケが必要と考えて、幾度も足を運んで交渉を行い、初めてソ連国内での外国人の撮影を成功させた』と、言われている.
全くその通りであり、描かれたものも、ジョバンナとマーシャ、二人の引き裂くことの出来ない国境を越えた愛であった.
と、同時に、主義、主張の異なる二つの国が力を合わせ一つの事を行おうとする、その事自体が平和を守る力になるはずであり、制作者たちは映画の製作を通して世界の平和を守ろうとしたと言わなければならない.

ロベルト・ロッセリーニ
『無防備都市』
『戦火のかなた』

ジッロ・ポンテコルヴォ
『アルジェの戦い』

..........

1975年公開の『デルス・ウザーラ』は、黒沢明がソ連に招かれて撮られた作品である.
どの様な経緯に因るものか詳しくは知りませんが、反対に日本がソ連の優れた監督を招き、日本に由来する優れた作品の映画化を依頼しなかったとしたら、黒沢明の実力が認められて招かれた、と言う、うぬぼれだけで終わってしまったとするならば、お粗末な限りと言わなければならない.
映画界を上げて、映画を通じて社会に貢献する、と言う意識が日本には全くと言ってよいほど無いのであろうか.....

誓いの休暇 - 戦争は嘘によって成り立つ -(グリゴーリ・チュフライ)

2016年04月23日 01時22分18秒 | グリゴーリ・チュフライ
『誓いの休暇』 1959年 88分

監督  グリゴーリ・チュフライ
脚本  ワレンチン・エジョフ
    グリゴーリ・チュフライ
撮影  ウラジミール・ニコラーエフ
    エラ・サヴェーリエワ
音楽  ミハイル・ジーフ

出演
ウラジミール・イワショフ
ジャンナ・プロホレンコ
アントニーナ・マクシーモア


真実を語る勇気


町へ続く道
村から出て行く者も、村へ再び帰ってくる者も、誰もがこの道を通る.
彼女もまっていたが、息子のアリョーシャは、ついに戦場から戻らなかった.
ロシアの名さえ持たぬ、遠い異国の地に葬られて、
春先には見知らぬ人々が、花を供えにやって来る.
彼はロシア開放の英雄と呼ばれているが、彼女にはただの息子.
生まれたときから見守ってきた我が子だ.
この道を通って戦場へ行ってしまう日までは・・・
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戦争で片足を失った男
彼はありのままの姿を妻に見せるのが辛く、逃げ出そうとした.
妻に本当のことが言えなかったと言っても良い.

列車の中で、


「ある兵士が女の家に行ってさ」
「奥さん、水を一杯.ついでに一晩泊めてくれ」
「なるほど、それがお前のやり口か」
「いい女だった.忘れられない」
「忘れるなよ.終戦になったら結婚しろ」
「亭主持ちだ」
「あばた面の?」
「脂性だ」
「女は脂性から、あばた面に心変わりか」
「亭主は他にも欠点があったんだろう」

一緒に居合わせた片足の男の事を何も考えない冷たい会話、片足の男にとって、いっそう悩みを深くする会話だったのだが.....
戦地で浮気した話を、アリョーシャも含め、皆が笑いながら聴いていた.
こんな風で、浮気した妻を責めることが出来るかどうか?.






駅員の女の子が言ったように、彼は妻を信頼し妻の元へ帰れば良かった.帰らねばならなかった.










浮気妻
頼まれた石鹸を届けに行った、その妻は他の男と一緒に暮し、戦地の状況とは程遠い裕福な暮らしをしていた.
妻と男との内緒話が聞こえてきた.
「事情を」「そんな」
「いずれ分ることだ」「でも今は.....」
「そうだな」

「教えて、あの人は」
「あなたを信じて元気で戦ってますよ」
「ありがとう」

「彼には黙ってて」
「それとも.....話した方が.....」
「お願い、そんな目で観ないで」



怒ったアリョーシャは、石鹸を取り返すと、今度はお爺さんの所へ行った.
「息子は?」
「元気ですよ、頼まれてきました」
「これをお父さんにと」、アリョーシャは嘘を言って、お爺さんに石鹸を渡した.
「息子からの贈り物か」、お爺さんは石鹸を受け取ると喜んだ.

息子の様子を聴かれたアリョーシャ.
「その.....彼の戦いぶりは常に、立派で、際立っています.みんなから尊敬されています」
「とても勇敢で、上官も彼を見習えと言うし、本当にずば抜けています」
知りもしないことを、綺麗事を並べ立てて話をした、アリョーシャだった.

「みんな元気だと.怪我のことは内緒だ.心配するから」
「それから.....妻のリーザは働いていると.元気で待ってると」
お爺さんも本当のことは言えなかった.
皆の嘘は、息子が帰ってきたらすぐにばれることばかり.
アリョーシャの嘘も、ばれたとき悲しみを深くするだけの、所詮は気休めにもならない嘘に過ぎないと思うけど.....

アリョーシャとシューラ
貨物列車では「婚約者が怪我で入院している」と、嘘を言ってしまったシューラ.
「彼女は連れか?」と聞かれ、「荷物もお金も無くして困っていたので僕が...」と、アリョーシャは答えたのだけど、獣の中尉は「隠さんでいい」と、笑って言った.中尉の誤解だったのか、どうなのか?.
「彼女は連れか?」、この問いならば、この時の二人「ええ」と答えても、決して嘘ではなかったと思えるけれど.
ともかく、二人は一緒に旅を続けることが出来た.
「意外にいい人だと分ると、嬉しくなるものね」と、シューラは言った.そして、「友情をどう思う?」と、遠回しに『婚約者はいないのだ』と、本当のことを言おうとしたのだけど、けれども、アリョーシャには伝わらなかった.
水を汲みに行って乗り遅れたアリョーシャを、シューラは乗換駅で待っていた.彼女はアリョーシャを心配して、荷物を持って待っていた.喉がカラカラ.やっと水を飲んで、そして食事をしようとしたとき、シューラは荷物の中の母親へのプレゼントのスカーフに気づき、アリョーシャに好きな子がいるのではと疑った.シューラは、この時にはアリョーシャを本当に好きになっていたのは間違いない.















次に乗ろうとした列車も軍用列車だった.「奥さんか?」と聞かれて、シューラは「いいえ」と答えたので降ろされてしまった.
「こんな時ぐらい嘘をつけよ」と、アリョーシャは言ったのだけど、もうこの時には愛を告白する気持ちがあったのだから、正しく言えばシューラは「ええ」と言っていても、決して嘘では無かったはずであり、素直に自分の気持ちを言えば良かったはずだ.
一緒に居たい、別れたくないアリョーシャ、その妻だと言っても、何も嘘ではなかったと思えるけど.....
結局は、シューラに外套を着せて兵士に化けて(嘘をついて)列車に乗ってしまったのだが.
やがて列車は、シューラの目的地に着く.
「お別れね」
「うん、僕を忘れないで」
「怒らないで聞いて.私、嘘をついてたの」
「どんな?」
「婚約者なんていないの.伯母の家へ・・・」
「怒らないで.バカみたいね」
本当の自分の気持ちを伝えようとした、シューラ.
そして、アリョーシャもまた、自分の気持ちを伝えたかったのだけど.
.....けれども会話はそこまでで、列車は発車してしまう.

『婚約者はいないって、愛の告白のつもりだったのに』、列車を見送ったシューラ.そして、
『君に打ち明けたい』、そう言って列車を降りようとしたアリョーシャだった.

















戦争とは、嘘で成り立つものである.
どこで何時どの様に死んだかも分らない、戦死した兵士を、英雄と呼んで賛美する.
が、母親にとってはかけがえのない子供だった、その悲しみは、英雄と呼ぼうがなんと呼ぼうが変わることはないのだ.....
戦地での浮気話を笑いながら聞いていたアリョーシャが、浮気した妻を責めることはできない.
更には、石鹸を取り返して尋ねていったおじいさんに嘘をついた.
嘘ばかり、嘘を言わないと戦争は成り立たない.戦争によって、皆が嘘つきになってしまう.
あたかも嘘を言うことが正しいことのように、嘘を言わなければならないように思い込んでしまうのが戦争である.

こう考えれば、本当のことを言えば戦争を止めることが出来るはず、と、思うのだが.

「怒らないで.バカみたいね」と、シューラはアリョーシャに謝った.嘘をつくことは馬鹿げたことだった.
なぜもっと早く、シューラは本当の自分の気持ちを打ち明けなかったのか.....
アリョーシャもシューラも、自分の本当の気持ちを、相手に伝えたかった.
戦争で引き裂かれた二人の愛は、互いに本当の気持ちを伝えられなかった分、その分余計に悲しみを深くしているのではないのか.
アリョーシャとシューラ、二人の別れは、本当のことを言うのだ、本当のことを言わなければならないのだ、こう語りかけているはず.
戦争は憎悪の感情によって行われる.愛情は、真実のの心を語る愛情は、戦争を止める力になる.

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日本の大本営発表は嘘の代名詞であった.
どこかの国の天皇は、未だに『祖国を守るために多くの兵士が犠牲になった』と、平気な顔をして嘘を言っているが.
撤退を転進と言い、全滅を玉砕と言って美化するのが日本.
戦争の兵士の犠牲者の多くが餓死、および栄養失調を起因とする病死で、半数以上をしめる.次に多いのが輸送船の沈没.戦闘行為、弾に当たって死んだ人は2割位ではないのか.そして、日本の戦死者と死傷者の数は、諸外国と比べ極めて近い数字であり、助かる人の多くも死んでいった、その事実に他ならない.
1945年3月10日の東京大空襲以降での、おおよそ5か月間で150万人が犠牲になった.戦争の勝敗が決定的になってからである.
所詮日本は、広島、長崎の原爆と、ソ連の参戦がなければ戦争を止めなかったのであり、大半の犠牲者は犬死にと言える.
さらに言えば、満州居住者が帰国までの混乱によって18万人、そして7万人を超えるシベリア抑留者が、戦争が終わってからも亡くなっている.彼らは日本から見捨てられて亡くなったと言わなければならない.

河 -破壊なくして創造なし-(ジャン・ルノワール 1951年 105分 アメリカ)

2016年04月03日 02時11分33秒 | ジャン・ルノワール
『河』 1950年 105分
監督 ジャン・ルノワール
製作 ケネス・マッケルダウニー
原作 ルーマー・ゴッデン
脚本 ルーマー・ゴッデン
   ジャン・ルノワール
撮影 クロード・ルノワール
音楽 M・A・パーサ・サラティ
助監督 サタジット・レイ

出演
パトリシア・ウォルターズ
エイドリアン・コリラーダ
トーマス・ブリーン
アーサー・シールズ

- やがて すべてをもたらす河は 若い男性を連れてきた -


バレリー (気まぐれで、不真面目、不誠実が特技)


この子は、積極果敢に大尉にアタックして心を射止めることにはなったけれど.でも、何も悩みが無さそうな彼女は、大尉の悩みを慰めることは出来ず、反対に悩みを深めることになってしまった.
彼女は花を持って、嫌われてしまった大尉に会いに行った.そして、抱き締めあって、彼女にとって初めての大人の口づけをした.でも、彼女はこう言った.
『キッスはしたくなかった.いつまでも夢のままでいたかった』
今更、不満を言うことはないはず.贅沢な悩みの女の子.

メラニー (恋愛は一生に一度、何事にも冷静、誠実で、真剣)

- 片足の人の国でも探す気 -

この子は、自分がインド人なのかイギリス人なのか悩んでいた.そして彼女には許婚がいて、結婚、恋愛を真剣に考えていたであろう、彼女は、大尉を遠くから眺めるだけで、同じ家にいながら、二人だけで顔を合わせるのを避けていたようだ.
自分の悩みは自分で解決するしかない、決して大尉の悩みを解消することは出来ない、そう知りつつも、バレリーの酷い仕打ちに苦しむ大尉を観るに観かねて、彼女は自分の方から近づいていった.

『帰る.自分はよそ者だ』と言う大尉、それに対してメラニーは.....
『どこへ行くの?』
『解らない』
『片足だけの国へ行くつもり?』
残酷な言葉であったが、メラニーははっきりと言った.片足の国へ行けば、よそ者ではないかも知れないが、けれども、だからと言って、あなたの満足は得られることはない、悩みが解消することはないのだと.

『僕を嫌いじゃないかと.そうなの?』
『あなたじゃないわ』
『誰』
『私自身よ』、大尉は自分を好きだったのか、嫌いだったのか?

ハリエット (魔法使いで、映画の進行役)

- 私は自分を 醜いアヒルの子と思っていた -

この子は魔法使い.インドに人々に伝わる魔法の力で大尉を元気づけようとしたけれど、けれども大尉はバレリーに夢中で、彼女の言葉は上の空、真剣に聞いてくれず、残念ながら彼女の魔法は大尉には伝わらなかったようだ.

ハリエットは自分を、醜いアヒルの子と思っていた.つまり彼女は白鳥だった.
ルネ・クレールの『奥様は魔女』の魔女は、俗世の世の汚れた心の魔法使い.それに対してハリエットは、清らかな美の世界の魔法使い.
彼女は、河のほとりで暮す人々の姿、河と共に暮らす人々の姿、二つの祭り、そして彼女の恋心を語りながら、幾度も自身が魔法にかかって観せた.

詩が好きな女の子.
『河は流れ、地球は回る.朝も昼も、そして真夜中も.....』
『太陽と月と星が空を巡り.....一日が終わり、そして終わりが始まる』
『大尉のために書いた詩だ.気に入ってもらえるかどうか心配だったけど.....』

『もっともっと川の全てを書きたい、そう思った』
『川は物理的にも精神的にも人々を支えているということ.....』
『思索や瞑想にふけるインドの人々のことを大尉に伝えたかった』
.....
-----船の生活の話、それから河に降りる階段の話へと続く
.....
『魔法の階段のことも教えたかった』
『騒がしい俗世から、清らかな河の流れへと続く階段が』
『私は階段が好きだった』
.....
『階段は土手に区切りを付け、日々の生活を区切るのは祭りだった』
『サラスヴァティーの祭りが近づいていた』
『学問と芸術の女神に、私は大尉を魅了する言葉を与えてと願った』
.....
そして、彼女はインドの物語を書くことにした.

『不満』 ある夫婦が子供が欲しいと願った.女の子だと持参金がいるので男の子を望んだが、けれども生まれたのは女の子だった.
『満足』 女の子はとても良い子で、家の手伝いをしてお金を稼いだ.女の子は美しい娘に育った.
『不満』 娘は素敵な男に巡り会い恋をした.けれども親の勧める相手と結婚しなければならず、娘は悲しかった.
『満足』 悲しみの内に結婚式を迎えた娘.その結婚相手は娘の恋する男だった.
メラニー扮する女の子、清らかな美の化身の女神に授かった魔法によって、愛を語る踊りを舞う.彼女は誠実な内に秘めた熱い想いを語った.
(この書き方は映画ではなく、プーシキンの詩かもしれない)

インドで暮らす人々の物語は、この話が、永遠に続くのだった.
人々の暮らしには喜びもあれば悲しみもある.その繰り返しである.

さて、魔法使いのハリエットちゃん、彼女の魔法の力をもう一つ.
『河は物理的にも精神的にも、人々を支えている』
『魔法の階段のことも教えたかった』
『騒がしい俗世から、清らかな河の流れへと続く階段が.....』

物理的に支えているとは、例えば漁をして魚を取り生活の糧を得ること.
精神的に支えているとは、騒がしい俗世で疲れた心に、河は安らぎを与え元気にして、心に満足を与えていると言うこと.

ボギー

- つづりより カメがいい -

自然が大好きな少年だった.この子は自然と共にあるがままに生き、そして死んでいった.短い人生、ボギーにとって満足が行く人生であったかどうか、それは解らないけれど.けれどもコブラが好きで夢中になり、そして噛まれて死んでいった.好きなことに夢中になって死んでいった、その人生に決して不満はないはずだ.

千年も、二千年も変わることのない生活を続ける、ガンジス川の辺で暮す人々.もし不満があれば、同じ生活が続くことはないはずだ.
運んだ印に貝殻を貰いながら船から荷物を担いで運びあげる労働、黄麻工場の労働、彼らの様子はどう見ても裕福な生活からは程遠い.辛い仕事だと思えるけれど、けれども彼らの姿から不平不満を言う様子は感じられない.ハリエットの魔法の教えでは、彼らは河との触れ合いで心に満足を得て、現実の境遇に不平不満を抱かずに生きているらしい.

片足の生活に満足を求めるのは無理で、満足を求めるから不満が生まれる.ありのままの自分を受け入れて不満を言わなければ、少なくとも自分で自分が嫌いになることは無いはずだ.
自分で自分を好きになれる、そうした生き方が理想ではあるけれど、そんな生き方が出来るのは一握りの人々にすぎず、皆、ありがままの自分を受け入れて、不満を言わずに生きているに過ぎないのではないのか.

一時は英雄ともてはやされはしたが、社会から見捨てられてしまった大尉.
バレリーのように贅沢な不満を口にする子もいたけれど、メラニーもハリエットも、思い返せば皆、自分を励ましてくれたのだ.ボギーのように好きなことを見つけて不満を抱かず生きて行けば、何時かは満足の行く自分を見つけ出せるかもしれない.彼は自分で自分の幸せを見つけ出す元気を取り戻して帰っていった.

インド人にとって恋愛は一生に一度、許婚のあるメラニーは大尉に好意は抱いていても、恋愛に発展させるのは躊躇があったであろう.
バレリーとハリエット、二人の恋愛、二人の魔法は大尉と共に去っていった.
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こちらは、愛の女神(誠実と静かな情熱)

では、こちらの神様は?


偶像、辞書を引いても信仰の対象物、こんな程度しか書いてない.これでは何も分からない.

太古の時代、権力者が死ぬと、墓に一緒に生け贄を生めた.生きた人間を生めました.
時代が変わって、これではいけないという考えになって、身代わりに埴輪を生めるようになった.
埴輪は偶像、偶像とは身代わりなのです.

破壊なくして創造なし.
河の泥から創った偶像を、祭りが済んだら河に戻す.
つまり、自分の身代わりが死んで、自分自身は新しく生まれ変わる.

『階段は土手に区切りを付け、日々の生活を区切るのは祭りだった』
日本は季節の移り変わりがはっきりしているので、例えば季節によって着るものが変わり、生活の区切りになる.
インドは季節の移り変わりがはっきりしないので、祭りを生活の区切りにする.
気分を新たにする区切りにする、と言うことなのでしょう.

河の泥から創った偶像が、怖い顔をしていたのはなぜなのか?、
『悪を破壊することにより善が生まれるからだ』、解りやすくハリエットは教えてくれている.
生きている人は、自分の間違いを正すことにより、生まれ変わることが出来る.
自分の過ちを反省し、その心で悪い心の神様にお祈りする.
自分の悪い心を悪い心の神様にあげて、その神様は祭りが済むと河に戻す.そして自身は清らかな心に生まれ変わる.

灯明祭

- 遠い昔 善と悪の間で起こった 戦いをしのぶ祭りで- -

かつて戦争で沢山の犠牲者が出た.その犠牲者の数だけ明かりを灯す祭り.
自分達は戦争をする悪い人間だった.悪い心の神様にお祈りすることにより、その反省をいつまでも持ち続けるからこそ、千年、二千年と平和な世の中を続けることが出来る.

日中戦争、太平洋戦争で東南アジアで二千万人の犠牲者を出した.その事実すら、もう忘れ去られようとしている.何かにつけて戦争を正当化しようとする日本人とは大違いの考えを、ガンジス河の畔に暮す人々は持ち続けて暮している.

『善と悪の間に起こった戦いをしのぶ祭り』
なにか変か?、何も変ではない.戦いは必ず善と悪の間に起こる.
東洋長久平和のため、米英の鬼畜生を懲らしめてやる.こうして太平洋戦争は始まった.
必ず自分が善で、相手は悪である.
戦いは必ず善と悪の間に起こる.


カーリー
戦争の神様.手が4本有って、2本で武器を、2本で生首を持つ.つまり悪魔、あるいは悪い心の神様と言えます.


2016/04/03
河と共に暮らす人々、河に触れ合いながら暮らす人々の生活、悪い心と愛の心の二つの祭り、そして大尉との恋愛、ハリエットはそれらを語りながら、自身が何度も魔法にかかって観せる.
この様子を、情熱的に書き加えること.


『大いなる幻影』 1937年
ユダヤ人との友情と、ドイツ人との恋愛を描いた.
戦争は封建制度の時代は(特権を持った)貴族の役目であったが、民主主義の時代になったからと言って(普通の)人々の役目にしてはならない.
平和を守るのが、人々の役目である.

『ラ・マルセイエーズ』 1938年
戦争が避けられないであろう、逼迫した状況になってしまったが.....
もう一度、なんのために戦うのか考えろ.
(民衆カンパによる製作)

『自由への闘い(この土地は私のもの)』 1943年
戦争が始まってしまった.
基本的人権を武力で脅かすものは、全て侵略者である.
基本的人権を守るために戦うのだ.
(自費製作)

『河』 1950年
戦争を繰り返してはならない.
戦争を起こさず幾千年も変わらない暮らしをしている、インドの人々の暮らしを描いた.


下の左手に持っているのは、どう見ても人間の首です.

人々






















バレリー












灯明祭

























メラニー


























居酒屋(ルネ・クレマン 原作 エミール・ゾラ 1956年 112分 フランス)

2016年04月01日 22時21分21秒 | ルネ・クレマン
『居酒屋』
監督  ルネ・クレマン
製作  アニー・ドルフマン
原作  エミール・ゾラ
脚本  ジャン・オーランシュ
    ピエール・ボスト
撮影  ロベール・ジュイヤール
音楽  ジョルジュ・オーリック

出演
ジェルヴェーズ...マリア・シェル
グジェ.......ジャック・アルダン
クポー.......フランソワ・ペリエ
ランチェ......アルマン・メストラル





自尊心、この映画では、自分を尊ぶ心
虚栄心、見栄、外見を良く見せようとする心

「ルーブル美術館に行くか」「何しに」
おおよそ美術館にふさわしくない一行が美術館にやってきて、下品な絵を探しては、愚劣な言葉を交わす.その中にあって一人物静かに絵を観て回るグージェ.
「自尊心がそうさせるのだと思った」、ジェルヴェーズは彼を見てそう思った.

さて、話を戻して.
ランチェは朝帰り.女にもらった花を胸にさして帰ってきた.妻の自尊心を逆撫でする行為.
そのランチェをジェルヴェーズは、一言二言の甘い言葉を言われただけで許してしまった.
『足の悪い自分にとって過ぎた夫だった』と彼女は言ったのだが、どういうことなのか.
ランチェは女にもてた.要するに見栄えの良い男.その男を自慢した言葉、虚栄心に過ぎないのであろう.

妹がランチェと駆け落ちし、それを知ったジェルヴェーズがどんな様子か、姉の方は洗濯場へ探りに来た.『あの女は男に逃げられた』と言った話であろう、ジェルヴェーズの様子を伺いながら陰口を囁きあった.やがて、殴り合いが始まって、ジェルヴェーズはとことんまで相手を殴りつけ.....
ジェルヴェーズは相手が自尊心を保ち得ないほど殴りつけ、自分の勝利を居合わせた者達に見せつけた.これも虚栄心.

自分の店を持ちたいと必死に働いたジェルヴェーズ.朝早くから夜遅くまで必死に働いた、この姿は自尊心から来るものと思う.けれども、使用人から主人になりたいという望みは虚栄心、と言うのは酷だろうか.....
怪我をしたクポーを病院に入れず自宅で看病すると言ったのは、おそらく虚栄心であろう.そして医療でお金を使い果たしたのに、彼女は未だ自分の店を持つ望みを捨てきれなかった.グージェの申し出を受け入れ、クポーも同意したのだった.が、そのクポーが『グージェの店など』と言って、店をたたき壊す事になった.
怪我をして働けない身で、妻が他の男の援助を受けて店を持った.店が繁盛するほど夫であるクポーの自尊心を損ねることになったのではないか.

ジェルヴェーズは再び出会った淫売の姉に、出会ったばかりの女に自分の身の上話を全て話してしまった.店を持って主人になるまでの話をした.これは自慢話、要するに彼女の虚栄心に過ぎない.

クポーはグージェに返済するお金を飲んでしまった.それでも彼女は豪勢な誕生パーティを開きたかった.開いた.虚栄心.
他方、怠け者になったクポーは自尊心を失ってしまっていた.金を盗んで酒を飲み、おおよそ受け入れ難いランチェを家に招き入れ、更には部屋を貸して住まわせてしまった.

夫のクポーは一人でどこかへ飲みに出かけ家に帰ってこなかった.妻のジェルヴェーズは淫売の姉とランチェと一緒に、酒場へ出かけた.そして家に帰ってきて、ジェルヴェーズはランチェに抱かれることになる.へどを吐いて寝ているクポーを観て、ジェルヴェーズの方からランチェにすがりついて行ったのだった.
淫売の姉には騙されたとしても、ランチェは自分と子供を捨てた生涯許し難い男のはず.その男と夫が行へ知れずの日に、彼女は遊びに出かけている.自尊心を持った人間の行いではない.

『淫売の姉が留守の間のことをグージェに喋った』と、ジェルヴェーズは言ったのだが、喋ったかどうかの問題ではなく、彼女が現実に何をしたかの問題である.ジェルヴェーズはあくまでも白を切り通そうとしたが、グージェは彼女の前から去っていった.彼女に自尊心があれば、真実を話し詫びたであろう.







ジェルヴェーズに自尊心があれば、決してランチェに抱かれることはなかったはずである.それ以前に一緒に遊びに出かけることも、しなかったはず.
彼女は美術館でグージェに好意を抱いた.彼の自尊心に心を引かれたはずである.そのジェルヴェーズがグージェに対する思いを大切にしたならば、ランチェを許容するようなことはなかったはずである.
自分を尊ぶのも、(好意を寄せる)相手を尊ぶのも同じことである.いくらかでも相手を尊ぶ心があれば、洗濯場であのような殴り方はしないはず.
相手を尊ぶことが出来なかったジェルヴェーズは、自分を尊ぶことが出来ない末路を辿ることになった.
あるいはこう言うべきか.自尊心が虚栄心に必ず負けてしまう人間だった.


.....自尊心がそうさせるのだと気付いた


エチェンヌとグージェはリールへ旅立つ

ジェルヴェーズのランチェとの関係が浮気であったならば、グージェに対する気持ちも浮気心であり許されないのか?.....
自尊心とは、好きな相手を好きであり続ける心、であると同時に、決して好きになることが出来ない相手を、嫌うべき相手を嫌いであり続ける心でもある.


なぜグージェは接吻を躊躇ったのか.....
好きな相手を、好きであり続けるためであろう.

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原作の居酒屋
『労働者の実態に光を当て、彼らに対する教育の必要性を説くことを業とする』
と、ゾラは作品の目的を冒頭で述べて始まります.

ナナの転落、色目遣いに寄ってきた男に付いて行ったのであろうナナの姿は、かつてジェルウェーズがランチェに出会った頃と同じであろう.
それに、幼気な純真な少女ラリーの死、それらから何を考えるのか?.
転落してしまった親たちは救いようがないが、子供たちを親たちと同じ道を歩ませてはならない.
そのためにはどうしなければならないのか.....
義務教育の必要性を訴えた作品です.
(義務教育の必要性自体は、以前にパリコミューンが提言を行っていて、もう一度ゾラは訴えた)

映画は、
先の2点は全く描かれず、グージェの描き方も違う.原作では、グージェは体を売りに出たジェルヴェーズに街角で出会うことになる、遥かに残酷な描写.

ルネ・クレマンは、グージェの描き方を変えて、ジェルヴェーズとの巡り会いと別れから、自尊心とはどの様なものか描いた.
辞書を引いても解らない、現実の世界での自尊心を描いていると言える.
破壊と創造により、純真な心で二人の出会いと別れを考えれば、直接理解できるはずなのだが.
私は俗世で考えるので、残念ながら回り道をして考えることになった.

書き添えれば、ジェルヴェーズがグージェの援助によって店を始めることにより、クポーはいじけて自尊心を失って行くことになった.
他に良い方法があったのか?、これは解決の方法はない.


ルネ・クレマンは、グージェの描き方を変えて、ジェルヴェーズとの巡り会いと別れから、自尊心とはどの様なものか描いた.
辞書を引いても解らない、現実の世界での自尊心を描いていると言える.
破壊と創造により、純真な心で二人の出会いと別れを考えれば、直接理解できるはずなのだが.
私は俗世で考えるので、残念ながら回り道をして考えることになった.

書き添えれば、ジェルヴェーズがグージェの援助によって店を始めることにより、クポーはいじけて自尊心を失って行くことになった.
他に良い方法があったのか?、これは解決の方法はない.

以前に、子供と心の教育相談、だったと思うけどラジオの番組で、大学教授の児童心理学者が子供の相談に応じていた.
相談者の断片的な話から、実に的確な回答を行っている、その相談内容は『禁じられた遊び』そっくりであった.

この映画を児童心理学者が観れば、こう言うであろう.
『なぜ、あの時、グージェが接吻を躊躇ったのか.それを良く考えてみてください.その上で、二人の出会い、二人の別れを考えればよく分るはず』
俗世の不純な心による考え方と、破壊と創造による純真な心による考え方は、必ずと言ってよいほど逆になる.