監督 ヴィットリオ・デ・シーカ
製作 ヴィットリオ・デ・シーカ
カルロ・ポンティ
脚本 チェザーレ・ザヴァッティーニ
トニーノ・グエッラ
ゲオルギ・ムディバニ
撮影 ジュゼッペ・ロトゥンノ
音楽 ヘンリー・マンシーニ
出演
ジョバンナ..........ソフィア・ローレン
アントニオ..........マルチェロ・マストロヤンニ
マーシャ............リュドミラ・サベリーエワ
ジョバンナ
『生きているかどうかを教えて』、ジョバンナは役場の職員に大声を張り上げて詰めより、
『生きていますとも、はっきりそう答えなさい』、こう怒鳴り散らしてつまみ出されることになった.
復員する兵士を待つ駅で、戦友の男に出会う.
『手を貸そうともせず見殺しに?』
『だめだった』
『みんな知らん顔、ひどい人達ね』、苦しい胸の内を語った戦友の男を、ジョバンナは責めたてた.
『だが、事によると、誰かが救助を』、この言葉に一抹の望みをかけたのであろうか、彼女はロシア行きを決意した.
モスクワの外務省を尋ね、職員の案内を受けたのだが、けれども連れて行かれた場所は、見渡す限りにヒマワリの咲き乱れる犠牲者の眠る土地と、数え切れないほどの墓地だった.
『ここにはいなくても、主人は生きています』、かたくなに言い張って、彼女は一人で尋ね歩くことにした.
僅かな情報を頼りに、サッカースタジアム、工場と探し回り、やっと見つけた一人のイタリア人の男.
『イタリア人ね、どちらから』と、にこやかに話しかけた彼女だったが、
『今の私はロシア人です』、彼女の期待を裏切る答えが返ってきた.
『なぜ』と、聞いても、
『要するに、こうなっただけです』と、複雑な事情を伺わせる答えしか返ってこない.否、単純であるかもしれないが話せない事情が、否、話しても無駄な事情が.....あるいは話したくない、否、自分が知らない方が良い事情が、そう伺わせる、そんな答えであったのか.
『故郷へは?』
『故郷』、彼は手振りで、なんとなく『ここ』と言うような曖昧な素振りをして、電車に乗って去っていった.
写真と『イタリア人』と言う言葉から、夫の暮らす家を探し当てたジョバンナ.案内された家の庭先、洗濯物を取り込む若い女性の姿から、彼女は最も予想したくなかった現実に直面することになった.
黙って写真を差し出すジョバンナ.妻のマーシャも受け取った写真を黙って見つめるだけで、二人共に何も言葉が浮かんで来なかった
沈黙を破るように、子供があどけない表情で挨拶をしたので、ジョバンナも必死に笑顔を作って子供に応えた.
『どうぞ』、マーシャはジョバンナを家に招き入れた.家に入ったジョバンナは、幸せそうな家庭の内側を目にすることになった.
突然現れたジョバンナに、マーシャは表面は平静を取り繕おうとしても、心の動揺は押さえることが出来なかった.
『手を洗いなさい....服まで汚して』と、子供をきつく叱りつけてしまい、子供は何処か外へ逃げ出してしまったようだ.
二つ枕の並んだベットと、自分に対して動揺するマーシャの姿、二つの光景を同時に目の当たりにしたジョバンナ.自分はアントニオとマーシャの幸せを壊しに来た不幸をもたらす存在でしかない.マーシャの取り乱した姿によって、ジョバンナも取り乱してしまったと言ってもよいのか、ジョバンナはやりきれない想いに耐えかねて、泣き崩れ椅子に座り込んでしまった.
否、自分が涙を見せれば、その涙がマーシャを苦しめることになる、泣き出したい想いを必死に堪えたジョバンナ.マーシャが子供を追って居なくなった時、やっと彼女は泣くことが許された、こう言うべきなのだろうか.
『疲れました』そう言って、その場を取り繕おうとしたジョバンナだったが、単なる長旅の疲れでなかったことは当然であり、顔を拭くようにタオルを差し出したマーシャにも、ジョバンナの気持ちが察せられた事だろう.マーシャもジョバンナと同様にタオルで顔を覆ったのだった.
マーシャはアントニオとの出会いの話をした.話が終わった頃に汽笛の音が.
『いらして』、そう言われて、マーシャの後を追うようにジョバンナは駅に急いだ.
列車が着いて人々が降りてきた.マーシャは夫の姿を探し求め、そのマーシャの姿を見留たアントニオはマーシャが迎えに来てくれたと想い嬉しかったのであろう、抱き寄せてキッスしようとした.マーシャはそれを拒み、ジョバンナが来たことを教えていた.アントニオは事の成り行きを理解するまでに、少し時間がかかったようだが、マーシャの指さす先に居るジョバンナの姿を観て.....それでも未だ、記憶が蘇るまでに時間がかかったのであろうか.
ジョバンナは幾年も夫の帰りを待ちわびて、そして夫の姿を探し求めてここまで来たのだけど.幸せを求めて夫を探し求めてきた、その自分がマーシャとアントニオの幸せな家庭を打ち壊そうとしている.二人の様子を見ていて、ジョバンナには再び耐えきれない想いがこみ上げてきたであろう.けれども、自分が辛い涙を見せれば、二人にも辛い想いを与えてしまう.マーシャにもアントニオにも涙を見せることは許されなかった.彼女は必死に涙をこらえて、動き始めた列車に飛び乗った.
マーシャ
『引っ越ししたのに、口をきいてくれない、一言も』
『私を愛していないの』、彼女は、ここまでは夫に問い質した.けれども、
『私と、ジョバンナとどっちを愛しているの』とは、聞きはしなかった.そんなことは聞いても無駄なこと、それは夫にだって分りはしないであろうし、想えば想うほどに忘れ去っていた記憶が蘇ってきて、どうすることも出来ない事であろう.
『すぐイタリアへ、急用なのです』
『この人の母親が病気ですので』、マーシャも口裏を合わせて、切符の手配を頼んだ.
『急に言われても二人分は無理ですよ』
『私は行きません.....引っ越したばかりですし、子供も居ますから』
『家で待ちます』、必死に明るい表情を作りながら、マーシャは言った.彼女は夫が戻ってくると想っていたのだろうか.....
彼女にも果たして夫が戻ってくるかどうか、全く分らなかった、それは考えたくない事であったように想える.
ロシアまで夫を探し求めてやって来たジョバンナの気持ちは、何も話をしなくてもマーシャには痛いほど分ったはずである.そして、やっと巡り合えた夫と何も話しもせずにジョバンナは去って行ってしまった、そのジョバンナの心を想うとき、ジョバンナの悲しみ、苦しみは、自身の悲しみ、苦しみとなってマーシャを悩ませることになったのではなかろうか.
自分達の幸せの邪魔はしまいとジョバンナは去っていった.そう想えば想うほどに、ジョバンナの夫への愛の深さを感じずには居れないマーシャだった.自分に涙を見せまいと必死に耐えたジョバンナの姿を目の当たりにしていたマーシャ.彼女もまた、あの時のジョバンナと同じように、泣き出したい想いを必死に堪えて、『家で待ちます』と言ったに違いない.
ジョバンナのアントニオに対する愛は、決して引き裂くことが出来ない愛である.自分のアントニオに対する愛も、ジョバンナの愛と変わることはないのだけれど.....どうしたら良いのか、マーシャには分らなかった.
悩みに悩み、苦しんだマーシャであったであろうが、同時に彼女は、自身が悩み苦しむ姿は、ジョバンナも変わりはしないのだと気がついたであろうか.マーシャは自身の分らない心の中から、アントニオが戻ってくるかどうか分らない、『家で待つ』と言う答えを導き出した.ジョバンナと二人で涙を分かち合う答えを、マーシャは導き出したのだった.
苦しめば苦しむ程、自分を見失って行き、どうすればよいのか分らなくなってしまうアントニオ.
苦しめば苦しむ程に、互いに相手の苦しみを理解することになる、ジョバンナとマーシャ.
自分の心の中にある愛は、決して何者にも引き裂かれることが無い愛である.....からこそ、決して相手の心の中にある愛を引き裂こうとはしなかった.相手の愛を引き裂くことは、自分の愛を引き裂くことと同じ.
戦争は嘘によって成り立ち、憎悪の感情によって行われる.
描かれたものはその逆.互いに互いの苦しみを理解し合う、一人の男を愛することになった、ジョバンナとマーシャの真実の愛であった.
あるいは単に、平和を守る心がそこにあった、と言ってもよいのか.
追記
ジョバンナとマーシャ、この二人が互いに相手をどう思うのかは、全く言葉で語られることは無かった.演技から感じられるだけであり、この点によって、破壊と創造による芸術が成り立っていると言える.
今一つ、先にも書いたが、マーシャは『家で待つ』と言った.職員の女は『なぜ一緒に行かないのだ』と、そんな目つきで二人をじっと見つめたが.
マーシャにはもう一つ道があった.単にアントニオが今一度ジョバンナに会って話をするだけならば、一緒に行けば良かったのだ.けれども彼女は『家で待つ』道を選んだ.
『家で待つ』マーシャには、アントニオが戻ってくるかどうか分らなかった.なぜ彼女は、分らない道を選んだのか、それは、自分とアントニオの愛が、決して引き裂くことが出来ない愛であるならば、アントニオとジョバンナの愛も同じ愛であると考えたに他ならない.
分らないものを分らないと認識するとき、ジョバンナとマーシャ、二人の純真な心が浮かんで来る.これも、破壊と創造による芸術と言える.
純真な心は、汚い心、悪い心と隣り合わせにある.
アントニオが出征する時、駅の中の人目のない場所を探し求めて、二人はトイレの中で抱き締めあった.
マーシャがアントニオを迎えに行った駅も、柵を開けて入ったすぐ傍にトイレが有って、ジョバンナが覗いて観ていた.そして、トラックの荷台のアントニオの回想シーンに、柵にもたれかかってアントニオを見つめているマーシャが、ジョバンナが乗っていった列車を見つめるアントニオの様子を伺っているマーシャが描かれた.
マーシャは突然現れたジョバンナに動揺して、幼気な子供を叱りつけてしまった.それはマーシャの純真な心の現われであったとすれば、他方ジョバンナの場合も、夫の夜勤の留守に尋ねてきたアントニオと抱き締めあってしまって、その相手は『二人でどこかへ行こう』と言った、この出来事は、やはり二人の純真な心の一面でもあったと言えるのではないのか.
子供の泣き声がして我に返る二人.あなたも私も、子供は犠牲に出来ないのだと.....
ジョバンナがマーシャに話した言葉は、『疲れました』、この時の一言だけ.
一人の男を愛してしまったジョバンナとマーシャ、女同士の気持ちは演技だけで描きあげた.
この時マーシャが涙を拭ったのかどうかは分らない.けれどもアントニオがイタリアへ行ってしまい、残されたマーシャは、ジョバンナと変わらないほどに泣き崩れたであろう.
1969年にルキノ・ヴィスコンティは『今だからこそ撮らねばならない』と言って、『地獄に堕ちた勇者ども』を撮っている.そして、翌年にこの作品が撮られた.
何かありそう、振り返ってみると、1968年の『プラハの春』、この事件が契機になったのだろうか.
何れにしろ、米ソ両国がそれぞれ一万発以上の核弾頭を所持し、戦争が起これば地球の全てが破滅する恐怖の時代であった.
もっとも現在でも、いくらか核軍縮が行われたとは言え、未だ世界には4千発を越える核弾頭が存在し、世界を破滅させるには充分、日本くらいは簡単に消滅してしまうのは間違いのないことだけど.
制作者達は『どうしてもソ連でのロケが必要と考えて、幾度も足を運んで交渉を行い、初めてソ連国内での外国人の撮影を成功させた』と、言われている.
全くその通りであり、描かれたものも、ジョバンナとマーシャ、二人の引き裂くことの出来ない国境を越えた愛であった.
と、同時に、主義、主張の異なる二つの国が力を合わせ一つの事を行おうとする、その事自体が平和を守る力になるはずであり、制作者たちは映画の製作を通して世界の平和を守ろうとしたと言わなければならない.
ロベルト・ロッセリーニ
『無防備都市』
『戦火のかなた』
ジッロ・ポンテコルヴォ
『アルジェの戦い』
..........
1975年公開の『デルス・ウザーラ』は、黒沢明がソ連に招かれて撮られた作品である.
どの様な経緯に因るものか詳しくは知りませんが、反対に日本がソ連の優れた監督を招き、日本に由来する優れた作品の映画化を依頼しなかったとしたら、黒沢明の実力が認められて招かれた、と言う、うぬぼれだけで終わってしまったとするならば、お粗末な限りと言わなければならない.
映画界を上げて、映画を通じて社会に貢献する、と言う意識が日本には全くと言ってよいほど無いのであろうか.....
製作 ヴィットリオ・デ・シーカ
カルロ・ポンティ
脚本 チェザーレ・ザヴァッティーニ
トニーノ・グエッラ
ゲオルギ・ムディバニ
撮影 ジュゼッペ・ロトゥンノ
音楽 ヘンリー・マンシーニ
出演
ジョバンナ..........ソフィア・ローレン
アントニオ..........マルチェロ・マストロヤンニ
マーシャ............リュドミラ・サベリーエワ
ジョバンナ
『生きているかどうかを教えて』、ジョバンナは役場の職員に大声を張り上げて詰めより、
『生きていますとも、はっきりそう答えなさい』、こう怒鳴り散らしてつまみ出されることになった.
復員する兵士を待つ駅で、戦友の男に出会う.
『手を貸そうともせず見殺しに?』
『だめだった』
『みんな知らん顔、ひどい人達ね』、苦しい胸の内を語った戦友の男を、ジョバンナは責めたてた.
『だが、事によると、誰かが救助を』、この言葉に一抹の望みをかけたのであろうか、彼女はロシア行きを決意した.
モスクワの外務省を尋ね、職員の案内を受けたのだが、けれども連れて行かれた場所は、見渡す限りにヒマワリの咲き乱れる犠牲者の眠る土地と、数え切れないほどの墓地だった.
『ここにはいなくても、主人は生きています』、かたくなに言い張って、彼女は一人で尋ね歩くことにした.
僅かな情報を頼りに、サッカースタジアム、工場と探し回り、やっと見つけた一人のイタリア人の男.
『イタリア人ね、どちらから』と、にこやかに話しかけた彼女だったが、
『今の私はロシア人です』、彼女の期待を裏切る答えが返ってきた.
『なぜ』と、聞いても、
『要するに、こうなっただけです』と、複雑な事情を伺わせる答えしか返ってこない.否、単純であるかもしれないが話せない事情が、否、話しても無駄な事情が.....あるいは話したくない、否、自分が知らない方が良い事情が、そう伺わせる、そんな答えであったのか.
『故郷へは?』
『故郷』、彼は手振りで、なんとなく『ここ』と言うような曖昧な素振りをして、電車に乗って去っていった.
写真と『イタリア人』と言う言葉から、夫の暮らす家を探し当てたジョバンナ.案内された家の庭先、洗濯物を取り込む若い女性の姿から、彼女は最も予想したくなかった現実に直面することになった.
黙って写真を差し出すジョバンナ.妻のマーシャも受け取った写真を黙って見つめるだけで、二人共に何も言葉が浮かんで来なかった
沈黙を破るように、子供があどけない表情で挨拶をしたので、ジョバンナも必死に笑顔を作って子供に応えた.
『どうぞ』、マーシャはジョバンナを家に招き入れた.家に入ったジョバンナは、幸せそうな家庭の内側を目にすることになった.
突然現れたジョバンナに、マーシャは表面は平静を取り繕おうとしても、心の動揺は押さえることが出来なかった.
『手を洗いなさい....服まで汚して』と、子供をきつく叱りつけてしまい、子供は何処か外へ逃げ出してしまったようだ.
二つ枕の並んだベットと、自分に対して動揺するマーシャの姿、二つの光景を同時に目の当たりにしたジョバンナ.自分はアントニオとマーシャの幸せを壊しに来た不幸をもたらす存在でしかない.マーシャの取り乱した姿によって、ジョバンナも取り乱してしまったと言ってもよいのか、ジョバンナはやりきれない想いに耐えかねて、泣き崩れ椅子に座り込んでしまった.
否、自分が涙を見せれば、その涙がマーシャを苦しめることになる、泣き出したい想いを必死に堪えたジョバンナ.マーシャが子供を追って居なくなった時、やっと彼女は泣くことが許された、こう言うべきなのだろうか.
『疲れました』そう言って、その場を取り繕おうとしたジョバンナだったが、単なる長旅の疲れでなかったことは当然であり、顔を拭くようにタオルを差し出したマーシャにも、ジョバンナの気持ちが察せられた事だろう.マーシャもジョバンナと同様にタオルで顔を覆ったのだった.
マーシャはアントニオとの出会いの話をした.話が終わった頃に汽笛の音が.
『いらして』、そう言われて、マーシャの後を追うようにジョバンナは駅に急いだ.
列車が着いて人々が降りてきた.マーシャは夫の姿を探し求め、そのマーシャの姿を見留たアントニオはマーシャが迎えに来てくれたと想い嬉しかったのであろう、抱き寄せてキッスしようとした.マーシャはそれを拒み、ジョバンナが来たことを教えていた.アントニオは事の成り行きを理解するまでに、少し時間がかかったようだが、マーシャの指さす先に居るジョバンナの姿を観て.....それでも未だ、記憶が蘇るまでに時間がかかったのであろうか.
ジョバンナは幾年も夫の帰りを待ちわびて、そして夫の姿を探し求めてここまで来たのだけど.幸せを求めて夫を探し求めてきた、その自分がマーシャとアントニオの幸せな家庭を打ち壊そうとしている.二人の様子を見ていて、ジョバンナには再び耐えきれない想いがこみ上げてきたであろう.けれども、自分が辛い涙を見せれば、二人にも辛い想いを与えてしまう.マーシャにもアントニオにも涙を見せることは許されなかった.彼女は必死に涙をこらえて、動き始めた列車に飛び乗った.
マーシャ
『引っ越ししたのに、口をきいてくれない、一言も』
『私を愛していないの』、彼女は、ここまでは夫に問い質した.けれども、
『私と、ジョバンナとどっちを愛しているの』とは、聞きはしなかった.そんなことは聞いても無駄なこと、それは夫にだって分りはしないであろうし、想えば想うほどに忘れ去っていた記憶が蘇ってきて、どうすることも出来ない事であろう.
『すぐイタリアへ、急用なのです』
『この人の母親が病気ですので』、マーシャも口裏を合わせて、切符の手配を頼んだ.
『急に言われても二人分は無理ですよ』
『私は行きません.....引っ越したばかりですし、子供も居ますから』
『家で待ちます』、必死に明るい表情を作りながら、マーシャは言った.彼女は夫が戻ってくると想っていたのだろうか.....
彼女にも果たして夫が戻ってくるかどうか、全く分らなかった、それは考えたくない事であったように想える.
ロシアまで夫を探し求めてやって来たジョバンナの気持ちは、何も話をしなくてもマーシャには痛いほど分ったはずである.そして、やっと巡り合えた夫と何も話しもせずにジョバンナは去って行ってしまった、そのジョバンナの心を想うとき、ジョバンナの悲しみ、苦しみは、自身の悲しみ、苦しみとなってマーシャを悩ませることになったのではなかろうか.
自分達の幸せの邪魔はしまいとジョバンナは去っていった.そう想えば想うほどに、ジョバンナの夫への愛の深さを感じずには居れないマーシャだった.自分に涙を見せまいと必死に耐えたジョバンナの姿を目の当たりにしていたマーシャ.彼女もまた、あの時のジョバンナと同じように、泣き出したい想いを必死に堪えて、『家で待ちます』と言ったに違いない.
ジョバンナのアントニオに対する愛は、決して引き裂くことが出来ない愛である.自分のアントニオに対する愛も、ジョバンナの愛と変わることはないのだけれど.....どうしたら良いのか、マーシャには分らなかった.
悩みに悩み、苦しんだマーシャであったであろうが、同時に彼女は、自身が悩み苦しむ姿は、ジョバンナも変わりはしないのだと気がついたであろうか.マーシャは自身の分らない心の中から、アントニオが戻ってくるかどうか分らない、『家で待つ』と言う答えを導き出した.ジョバンナと二人で涙を分かち合う答えを、マーシャは導き出したのだった.
苦しめば苦しむ程、自分を見失って行き、どうすればよいのか分らなくなってしまうアントニオ.
苦しめば苦しむ程に、互いに相手の苦しみを理解することになる、ジョバンナとマーシャ.
自分の心の中にある愛は、決して何者にも引き裂かれることが無い愛である.....からこそ、決して相手の心の中にある愛を引き裂こうとはしなかった.相手の愛を引き裂くことは、自分の愛を引き裂くことと同じ.
戦争は嘘によって成り立ち、憎悪の感情によって行われる.
描かれたものはその逆.互いに互いの苦しみを理解し合う、一人の男を愛することになった、ジョバンナとマーシャの真実の愛であった.
あるいは単に、平和を守る心がそこにあった、と言ってもよいのか.
追記
ジョバンナとマーシャ、この二人が互いに相手をどう思うのかは、全く言葉で語られることは無かった.演技から感じられるだけであり、この点によって、破壊と創造による芸術が成り立っていると言える.
今一つ、先にも書いたが、マーシャは『家で待つ』と言った.職員の女は『なぜ一緒に行かないのだ』と、そんな目つきで二人をじっと見つめたが.
マーシャにはもう一つ道があった.単にアントニオが今一度ジョバンナに会って話をするだけならば、一緒に行けば良かったのだ.けれども彼女は『家で待つ』道を選んだ.
『家で待つ』マーシャには、アントニオが戻ってくるかどうか分らなかった.なぜ彼女は、分らない道を選んだのか、それは、自分とアントニオの愛が、決して引き裂くことが出来ない愛であるならば、アントニオとジョバンナの愛も同じ愛であると考えたに他ならない.
分らないものを分らないと認識するとき、ジョバンナとマーシャ、二人の純真な心が浮かんで来る.これも、破壊と創造による芸術と言える.
純真な心は、汚い心、悪い心と隣り合わせにある.
アントニオが出征する時、駅の中の人目のない場所を探し求めて、二人はトイレの中で抱き締めあった.
マーシャがアントニオを迎えに行った駅も、柵を開けて入ったすぐ傍にトイレが有って、ジョバンナが覗いて観ていた.そして、トラックの荷台のアントニオの回想シーンに、柵にもたれかかってアントニオを見つめているマーシャが、ジョバンナが乗っていった列車を見つめるアントニオの様子を伺っているマーシャが描かれた.
マーシャは突然現れたジョバンナに動揺して、幼気な子供を叱りつけてしまった.それはマーシャの純真な心の現われであったとすれば、他方ジョバンナの場合も、夫の夜勤の留守に尋ねてきたアントニオと抱き締めあってしまって、その相手は『二人でどこかへ行こう』と言った、この出来事は、やはり二人の純真な心の一面でもあったと言えるのではないのか.
子供の泣き声がして我に返る二人.あなたも私も、子供は犠牲に出来ないのだと.....
ジョバンナがマーシャに話した言葉は、『疲れました』、この時の一言だけ.
一人の男を愛してしまったジョバンナとマーシャ、女同士の気持ちは演技だけで描きあげた.
この時マーシャが涙を拭ったのかどうかは分らない.けれどもアントニオがイタリアへ行ってしまい、残されたマーシャは、ジョバンナと変わらないほどに泣き崩れたであろう.
1969年にルキノ・ヴィスコンティは『今だからこそ撮らねばならない』と言って、『地獄に堕ちた勇者ども』を撮っている.そして、翌年にこの作品が撮られた.
何かありそう、振り返ってみると、1968年の『プラハの春』、この事件が契機になったのだろうか.
何れにしろ、米ソ両国がそれぞれ一万発以上の核弾頭を所持し、戦争が起これば地球の全てが破滅する恐怖の時代であった.
もっとも現在でも、いくらか核軍縮が行われたとは言え、未だ世界には4千発を越える核弾頭が存在し、世界を破滅させるには充分、日本くらいは簡単に消滅してしまうのは間違いのないことだけど.
制作者達は『どうしてもソ連でのロケが必要と考えて、幾度も足を運んで交渉を行い、初めてソ連国内での外国人の撮影を成功させた』と、言われている.
全くその通りであり、描かれたものも、ジョバンナとマーシャ、二人の引き裂くことの出来ない国境を越えた愛であった.
と、同時に、主義、主張の異なる二つの国が力を合わせ一つの事を行おうとする、その事自体が平和を守る力になるはずであり、制作者たちは映画の製作を通して世界の平和を守ろうとしたと言わなければならない.
ロベルト・ロッセリーニ
『無防備都市』
『戦火のかなた』
ジッロ・ポンテコルヴォ
『アルジェの戦い』
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1975年公開の『デルス・ウザーラ』は、黒沢明がソ連に招かれて撮られた作品である.
どの様な経緯に因るものか詳しくは知りませんが、反対に日本がソ連の優れた監督を招き、日本に由来する優れた作品の映画化を依頼しなかったとしたら、黒沢明の実力が認められて招かれた、と言う、うぬぼれだけで終わってしまったとするならば、お粗末な限りと言わなければならない.
映画界を上げて、映画を通じて社会に貢献する、と言う意識が日本には全くと言ってよいほど無いのであろうか.....